玉勝間 / 十四の巻 混本
古今集眞名序に、混本と云ふ歌の體を擧げられたるは、思ふにこれは本に混ずと云ふなれば、旋頭歌の亦の名なるべし。別に此體あるにはあらじ。然るを古今の序には、別の一體と心得て云へるか、又は長歌短歌といふ四字の對にせむために、旋頭を旋頭混本と書けるか。いづれにまれ別に此體は有るまじくなん。後の書どもに、その歌とて載たるひとつふたつ有れど、そはかの古今集の序によりて、殊更に造りまうけたる物にて、云ふにたらぬ歌なり。その外に古より、混本體と云ふ歌は有る事なし。
新字:古今集真名序に、混本と云ふ歌の体を挙げられたるは、思ふにこれは本に混ずと云ふなれば、旋頭歌の亦の名なるべし。別に此体あるにはあらじ。然るを古今の序には、別の一体と心得て云へるか、又は長歌短歌といふ四字の対にせむために、旋頭を旋頭混本と書けるか。いづれにまれ別に此体は有るまじくなん。後の書どもに、その歌とて載たるひとつふたつ有れど、そはかの古今集の序によりて、殊更に造りまうけたる物にて、云ふにたらぬ歌なり。その外に古より、混本体と云ふ歌は有る事なし。
書き下し
古今集真名序に、混本と云う歌の体を挙げられたるは、思うにこれは本に混ずと云うなれば、旋頭歌のまたの名なるべし。別にこの体あるにはあらじ。然るを古今の序には、別の一体と心得て云えるか、又は長歌短歌という四字の対にせむために、旋頭を旋頭混本と書けるか。いずれにまれ別にこの体は有るまじくなん。後の書どもに、その歌とて載せたるひとつふたつ有れど、そはかの古今集の序によりて、ことさらに造りもうけたる物にて、云うにたらぬ歌なり。その外に古より、混本体と云う歌は有る事なし。
現代語訳
『古今集』の真名序に「混本」という歌の形式を挙げておられるのは、思うに、これは「本に混ずる」ということなので、旋頭歌の別名であろう。別にこの形式があるのではあるまい。それなのに『古今集』の序では、別の一つの形式と理解して言ったのか、あるいは「長歌短歌」という四字の対句にするために、「旋頭」を「旋頭混本」と書いたのか。いずれにしても、別にこの形式はないであろう。後の書物に、その形式の歌だとして載せたものが一つ二つあるが、それはあの『古今集』の序によって、わざわざ作り設けたもので、言うに足りない歌である。そのほかに昔から、混本体という歌はない。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』十四の巻 たとへ歌たとえ歌、なずらえ歌、そえ歌、皆同じ事なるを、古今集の序に、三つに分けたるは、しいてから国の六義と云う事に当てむとてのしいごとなり。すべて六義と云うこと、歌に有る事無し。いみじきしいごとなり。
-
『玉勝間』一の巻 古今集の長歌の事古今集の長歌、はじめに載せたるは、いといとつたなし。その歌に、なにしかも人をうらみむと云えること、上下にあいあづからざる事なり、この二句をのぞきて善けん。また一うたのうちに、思と云う詞九つ有りて、いと耳かしかましき中に、けなばけぬべく思えどもと云える事さえ、二所に重なりて有るはいかにぞや。思えどもと云う句は、なお今一つあり。また思いは深しと云える句、またとぢめの二句などは、ちからなく聞こえて漂よわし、次に貫之の歌、目録ならんからに、事の続きざま、むげにことわり無し。忠岑は一ふし有りて聞こゆ。躬恒、なにのふしも無し。伊勢は中によろし。そもそも斯くあげつらうは、いとおおけなけれど、なおえあらでなん。
-
『玉勝間』十二の巻 歌に六義と云ふ事歌に六義と云う事を、やんごとなき事にするは、いと愚かなることなり。六義は、もろこしの国にて、上代の詩にさだせる事にこそあれ、歌には更にさる事無し。歌に云うは、古今集の序に、歌のさま六つなりとて、その六くさを分けて、あてたるより起これる事なるを、そはかのもろこしの詩にならいて、六くさには分かたれども、さらにかなわぬ事どもにて、そえ歌と云い、なずらえ歌と云い、たとえ歌と云えるなど、この三つは、皆同じ事なるを、かの詩の六義の名どもにあてむとて、しいて分かちたる物なり。またいわい歌を、このうちに入れたるもあたらず、もしいわい歌を入れば、恋歌かなしびの歌などをも、入れずはあるべからず。そもそもこの古今集の序は、すべて歌のことをば、よくも尋ねずして、ただもろこしにて、上代の詩の事を云えるを、そのままにとりて書けること多くして、歌には更にかなわぬ事がちなる中に、この六義は、殊にあたらぬ事にし有れば、深く心をいれて、とかく論うは、やく無きいたずらごとなり。もろこしにて、詩のうえの六義だに、さまざま説有りて、定め難き事なるに、いわんや歌にうつしあてては、いかでかよく適うようのあらむ。
-
『玉勝間』八の巻 長歌の詞のつづき五七なると七五なるとの事そもそも万葉の頃までは、五七と続くかた、調べよろしかりけむを、古今集の頃よりして、七五と成りて、今もそれ宜しく覚ゆるは、古えと後の世との、おのずからの調べの変りなるべし、今の世に、万葉風を詠む人多くて、何事も、後の世をばわろしと云う者の、そのよめる長歌を見れば、そのことば、多くは七五七五と続けるは、此けじめを得知らずして、猶後の世のおのずからの調べを、得まぬかれざるなり。古今集の長歌、初めなる二首は、五七とも七五とも、交りて続けるを、後の三首は、おおかたは七五と定まれり。
-
『玉勝間』二の巻 古今集月の歌の事月をば、秋の題とする事なれども、古今集には、月の歌は、雑の部に入れり。秋の部にはただ五首入れて、そは秋と云う事ある歌、また雁を詠み入れたるなどのみなり。
-
『玉勝間』十二の巻 歌に六義と云ふ事いわゆる古注に、おおよそむくさに分かれむことは、えあるまじき事になむと云えるぞ、よくあたれる論いには有りける。この一言にて、六義の論は尽きたるべし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る