玉勝間 / 十四の巻 後撰集拾遺集のうた
一本に、ある花と有るぞよき。拾遺集別に、「別るるを惜しとぞ思ふ、つるぎばの身をよりくだく心地のみして、惜しを鴛に云ひかけて、劔羽と云へり。鴛にさ云ふ羽あればなり。さてこは唯だ劔の身とつづけむ料のみなり。よりくだくへ懸かれる事にはあらず。此所よくせずはまがひぬべし。よりくだくとは、緒などのよらるる如く、物のくだくる如く、苦きよしなり。さて思ふを、思ひと作る本は誤なり。思ひつると云ひ懸けたるにはあらず。又三の句ののもじ、にと書るもひがことなり。
新字:一本に、ある花と有るぞよき。拾遺集別に、「別るるを惜しとぞ思ふ、つるぎばの身をよりくだく心地のみして、惜しを鴛に云ひかけて、剣羽と云へり。鴛にさ云ふ羽あればなり。さてこは唯だ剣の身とつづけむ料のみなり。よりくだくへ懸かれる事にはあらず。此所よくせずはまがひぬべし。よりくだくとは、緒などのよらるる如く、物のくだくる如く、苦きよしなり。さて思ふを、思ひと作る本は誤なり。思ひつると云ひ懸けたるにはあらず。又三の句ののもじ、にと書るもひがことなり。
書き下し
一本に、ある花と有るぞよき。拾遺集別に、「別るるを惜しとぞ思う、つるぎばの身をよりくだく心地のみして、惜しを鴛に云いかけて、剣羽と云えり。鴛にさ云う羽あればなり。さてこはただ剣の身とつづけむ料のみなり。よりくだくへ懸かれる事にはあらず。この所よくせずはまがいぬべし。よりくだくとは、緒などのよらるる如く、物のくだくる如く、苦しきよしなり。さて思うを、思いと作る本は誤りなり。思いつると云い懸けたるにはあらず。又三の句ののもじ、にと書けるもひがことなり。
現代語訳
ある本に「ある花」とあるのがよい。『拾遺集』の別れの部に「別れるのを惜しい(をし)と思う。剣羽の剣の身ではないが、身をよじり砕くような心地ばかりして」。「惜し」を「鴛(をし)」に言い掛けて「剣羽(つるぎば)」と言ったのである。鴛鴦にはそう呼ばれる羽があるからである。さてこれはただ「剣の身」と続けるためだけのものである。「よりくだく」に懸かっているのではない。ここはよく注意しないと取り違えるであろう。「よりくだく」とは、糸などが縒られるように、物が砕けるように、苦しいという意味である。さて「思ふ」を「思ひ」と書く本は誤りである。「思ひつる」と言い掛けたのではない。また第三句の「の」の字を「に」と書いているのも間違いである。
解説
関連する章句
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