玉勝間 / 十三の巻 灌仏のはじまり
同紀に承和七年四月丙午朔癸丑、請律師傳燈大法師靜安於〓涼殿、始行灌佛之事。
新字:同紀に承和七年四月丙午朔癸丑、請律師伝灯大法師静安於〓涼殿、始行灌仏之事。
書き下し
同紀に承和七年四月丙午朔癸丑、律師伝灯大法師静安を清涼殿に請い、始めて灌仏の事を行う。
現代語訳
同じ『続日本後紀』に、「承和七年四月八日、律師伝灯大法師静安を清涼殿に招いて、初めて灌仏のことを行った」とある。
解説
釈迦の誕生を祝って仏像に香水を注ぐ灌仏会が、宮中で初めて行われた記事を写した短い段である。灌仏会は四月八日に行われる行事で、今日の「花祭り」にあたる。承和七年(840)、前の段で仏名会を始めた律師静安が、清涼殿で初めてこれを執り行ったという。宣長は仏名会と灌仏会という二つの宮中の仏事が、いずれも同じ僧静安によって始められたことを、並べて示している。灌仏会自体は寺院ではもっと古くから行われていたが、宮中の年中行事としての始まりはここにある。後の『枕草子』や『源氏物語』にも宮中の灌仏の様子が描かれている。一人の人物の働きかけが、長く続く年中行事を生み出すこともあったのである。
関連する章句
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