玉勝間 / 十三の巻 同社金輪の造営の図
出雲ノ大社、神殿の高さ、上古のは三十二丈あり。中古には十六丈あり。今の世のは八丈なり。古、の時の圖を、金輪の造營の圖と云ひて、今も國造の家に傳へもたり。其圖、左にしるすが如し。(此圖、千家國造の家なるを、寫し取れり、心得ぬことのみ多かれど、皆ただ本のままなり。)今ノ世の御殿も、大かたの御構、は、此圖のごとくなりとぞ。
新字:出雲ノ大社、神殿の高さ、上古のは三十二丈あり。中古には十六丈あり。今の世のは八丈なり。古、の時の図を、金輪の造営の図と云ひて、今も国造の家に伝へもたり。其図、左にしるすが如し。(此図、千家国造の家なるを、写し取れり、心得ぬことのみ多かれど、皆ただ本のままなり。)今ノ世の御殿も、大かたの御構、は、此図のごとくなりとぞ。
書き下し
出雲の大社、神殿の高さ、上古のは三十二丈あり。中古には十六丈あり。今の世のは八丈なり。古の時の図を、金輪の造営の図と云いて、今も国造の家に伝えもたり。その図、左にしるすが如し。(この図、千家国造の家なるを、写し取れり、心得ぬことのみ多かれど、皆ただ本のままなり。)今の世の御殿も、大かたの御構えは、この図のごとくなりとぞ。
現代語訳
出雲大社の神殿の高さは、上古のものは三十二丈あった。中古には十六丈あった。今の世のものは八丈である。古の時の図を「金輪の造営の図」といって、今も国造の家に伝え持っている。その図は左に記すとおりである。(この図は千家国造の家にあるものを写し取った。理解できないことばかり多いが、みな元のままである。)今の世の御殿も、おおよその構えはこの図のとおりだということである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十三の巻 出雲の大社の御事出雲の大社、建久のはじめの頃、鎌倉より、庄園に課役をおおせて、改め造らる。その後又嘉禄のころ、先の例によりて、課役をおおせて、造られむとせしに、御殿の柱に虫くいの文字あり。見れば、大いに傾き傾く物に居るは、朕が素意に非ず、若し人徳に帰せば、高木に栖みて足らんと有り、国造出雲の臣政孝、国司右衛門尉昌綱、守護佐佐木信濃の前司泰清と共に議りて、官家に申されければ、鎌倉の北条、いたく驚きあやしみて、官庫の金穀を出だして、造り奉りて、庄園の課役をば停められけり。これを世に、虫くいの託宣と云えり。この事、国造の家の記にしるせりと、千家〓主出雲の宿禰俊信のものがたりなり。俊信は、今の国造の叔父にて、宣長がおしえ子なり。宣長がこの事を聞きていわく。北条が、課役をやめて、官庫の物を出だして、造り奉れるは、いとよろし。もとより然あるべきこと論無し。されどこの虫喰いの託宣は、後の世人の漢意にして、神の御心にあらず。古事記の上巻又垂仁の御巻などに、この大神の申し給える御言の意と、うらうえのたがいなればなり。さればこの託宣は、そのかみ北条にへつらいて、造れる事とこそおぼゆれ。すべて神の御心を、かく仏聖人と同じごとしなさむとするは、後の世人の心なり。又この大神、漢文をも、かばかり作り給う程ならむに、朕の字の、非の字の上に有る拙さこそ、いといとおかしけれ。
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『玉勝間』六の巻 筑紫ノ君石井が事周り六丈は、高さにかなわざれば、六の上に、三十など云う字の有りけむが、落ちたるなるべし。かくてこの石井が造り置きたりし墓のかまえは、今の世にも残りて、現に有るよしにて、近きほど、その図をしるし、考えをも添えたるを、見しに、まことに風土記にしるせるごとくにぞ有りけむ、とぞ覚ゆる。そもそも石のかぎりして、かばかりいかめしく、大きなるかまえを物せん事は、今の世の国持大名などのちからにも、いとたやすくは、出で来がたかるべし。これを思えば、そのかみ国々の国造の身のほども思いはかられて、けしうは有らざりけむかし。かの図は、写しおきたりしを、今え見出でず、見出でたらむ時に、また云いてんとす。
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