玉勝間 / 十三の巻 万葉集なる藤原ノ宮之役民作歌
されば浮居而にて、姑きく絕たる語にて、ただに吾作へはつづかず。吾作云云は、吾は役民の吾なり。さて日之御門爾とあるを以て見れば、此作者の役民は、藤原ノ宮の地に在て、役はるる民なり。上の云云散和久御民毛とある民にはあらず。思ひまがふべからず。泉乃河爾持越流は、宇治川より上て、陸路を泉川まで持越ッて、又流すなり。こは今の世の心を以て思へば、宇治川より直に下すべき事なるに、泉川へ持越シて下せるは、いかなる由にか、古、は然爲べき故有けむかし。派須良牟とは海より紀の川へ入れて、紀の川を泝すを云ひて、さて巨勢路より、宮處に運ぶまでを兼たり。さればこは、泉の河に持越る材を、云云して、此派すらむ巨勢道より、吾作日御門にのぼすらむ、と云ふ語のつづきにて、御門爾の爾と、巨勢道從の從とを、辭にて結びたるものなり。辭のはこびを、熟く尋ねてさとるべし、なほざりに見ば、まがひぬべし。さて良牟と疑ひたるは、此作者は、宮造、の地に在て詠める由なれば、はじめ田上山より伐出せるより、巨勢道を運ぶまでは、皆よその事にて、見ざる事なればなり。さて伊蘇波久見者とは、宮地へ運び來たるを、目のまへに見たるを云へり。
新字:されば浮居而にて、姑きく絶たる語にて、ただに吾作へはつづかず。吾作云云は、吾は役民の吾なり。さて日之御門爾とあるを以て見れば、此作者の役民は、藤原ノ宮の地に在て、役はるる民なり。上の云云散和久御民毛とある民にはあらず。思ひまがふべからず。泉乃河爾持越流は、宇治川より上て、陸路を泉川まで持越ッて、又流すなり。こは今の世の心を以て思へば、宇治川より直に下すべき事なるに、泉川へ持越シて下せるは、いかなる由にか、古、は然為べき故有けむかし。派須良牟とは海より紀の川へ入れて、紀の川を泝すを云ひて、さて巨勢路より、宮処に運ぶまでを兼たり。さればこは、泉の河に持越る材を、云云して、此派すらむ巨勢道より、吾作日御門にのぼすらむ、と云ふ語のつづきにて、御門爾の爾と、巨勢道従の従とを、辞にて結びたるものなり。辞のはこびを、熟く尋ねてさとるべし、なほざりに見ば、まがひぬべし。さて良牟と疑ひたるは、此作者は、宮造、の地に在て詠める由なれば、はじめ田上山より伐出せるより、巨勢道を運ぶまでは、皆よその事にて、見ざる事なればなり。さて伊蘇波久見者とは、宮地へ運び来たるを、目のまへに見たるを云へり。
書き下し
されば浮き居てにて、しばらく絶えたる語にて、ただに吾が作るへはつづかず。「吾が作る」云云は、吾は役民の吾なり。さて日の御門にとあるを以て見れば、この作者の役民は、藤原の宮の地に在りて、役わるる民なり。上の云云「さわく御民も」とある民にはあらず。思いまがうべからず。「泉の河に持ち越せる」は、宇治川より上げて、陸路を泉川まで持ち越して、又流すなり。こは今の世の心を以て思えば、宇治川より直に下すべき事なるに、泉川へ持ち越して下せるは、いかなる由にか、古は然すべき故有りけむかし。「泝すらむ」とは海より紀の川へ入れて、紀の川を泝すを云いて、さて巨勢路より、宮処に運ぶまでを兼ねたり。さればこは、泉の河に持ち越せる材を、云云して、この泝すらむ巨勢道より、吾が作る日の御門にのぼすらむ、と云う語のつづきにて、御門にの爾と、巨勢道よりの従とを、辞にて結びたるものなり。辞のはこびを、熟く尋ねてさとるべし、なおざりに見ば、まがいぬべし。さて「らむ」と疑いたるは、この作者は、宮造りの地に在りて詠めるよしなれば、はじめ田上山より伐り出だせるより、巨勢道を運ぶまでは、皆よその事にて、見ざる事なればなり。さて「いそわく見れば」とは、宮地へ運び来たるを、目のまえに見たるを云えり。
現代語訳
だから「浮き居て」でいったん切れる言葉で、そのまま「吾が作る」へは続かない。「吾が作る」云々の「吾」は、役民自身の「吾」である。さて「日の御門に」とあることから見ると、この作者である役民は、藤原の宮の地にいて使役されている民である。前に「さわく御民も」とある民(材木を運ぶ民)ではない。取り違えてはならない。「泉の河に持ち越せる」は、宇治川から陸に上げて、陸路を泉川まで持ち越して、また流すのである。これは今の世の感覚で考えれば、宇治川からそのまま下せばよいことなのに、泉川へ持ち越して下したのはどういうわけか、古にはそうすべき理由があったのであろう。「泝すらむ」とは、海から紀の川へ入れて紀の川をさかのぼらせることを言って、さらに巨勢路から宮の地に運ぶまでを兼ねている。だからこれは、「泉の河に持ち越した材木を……して、このさかのぼらせているであろう巨勢道から、私の造る日の御門に運び上げているのだろう」という言葉の続きで、「御門に」の「に」と、「巨勢道より」の「より」とを、助辞で結び合わせたものである。助辞の運びをよくよくたどって悟るべきである。いいかげんに見ると取り違えてしまうだろう。さて「らむ」と推量しているのは、この作者は宮造りの地にいて詠んだという設定なので、はじめ田上山から伐り出してから巨勢道を運ぶまでは、みな遠くのことで、見ていないことだからである。そして「いそわく見れば」とは、宮の地へ運んで来るのを、目の前で見ていることを言っている。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十三の巻 万葉集なる藤原ノ宮之役民作歌万葉集一の巻に、藤原の宮の役民の作る歌とある長歌は、役民の作る歌と有るによりて、誰も、ただその民の詠めると心得ためれど、歌のさまをもて思うに、然にはあらず。こはかの七夕の歌を、彦星棚機つめになりて詠めると同じ事にて、かの民の心に擬えて、すぐれたる歌人の詠めるなり。その作者は、誰とも無けれど、歌のさまの、いといとめでたく、巧みの深きよう、人麻呂主の口つきにぞ有りける。さてかの主の長歌は、いずれも巧みふかき故に、詞のつづきの、まぎらわしく聞こゆるが多きを、この歌は殊にまぎらわしきつづき多くして、物知り人たちも、皆解き誤れるを、今よく考うれば、語のつづきも、いと明らかにして、まぎるる事無く、いともめでたく、すぐれたる歌なり。さて歌のすべての趣は、田上山より伐り出だせる宮材を、宇治川へくだし、そを又泉川に持ち越して、筏に作りて、その川より難波の海に出だし、海より又紀の川を泝らせて、巨勢の道より、藤原の宮の地へ、運び来たるを、その宮造りに役われ居る民の見て、詠めるさまなり。「そを取ると」云云は、川より陸に取り上ぐるとて、水に浮き居てとり上げて、それを泉の河に持ち越せるとつづく詞なり。
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『玉勝間』十三の巻 万葉集なる藤原ノ宮之役民作歌上の「らむ」と、この「見れば」とを、相照らして心得べし。さて難波の海に出だし、紀の川をのぼすと云う事は、見えざれども、巨勢道よりと云えるにて、然聞こえたり。巨勢道は、紀の国にゆきかう道なればなり。又「筏に造り泝すらむ」と云えるにても、かの川をさかのぼらせたる事しるし。然らざればこの言聞こえず。大かたそのかみ、近江山城などより伐り出だす材を大和へのぼすには、必ず件の如く、難波の海より、紀の川に入れて泝すが、定まれる事なりし故に、その事は云わでも、然聞こえしなりけり。さて「知らぬ国依る」は、異国の帰り来るよしにて、依るまでは、ただ巨勢の序なり。異国までもなびき従いて、帰り来と云う寿詞をもて、序としたる物なり。されば知らぬ国は、五言の句、依る巨勢道よりは、七言の句にて、おとめらが袖ふる山などの類なり。上の依るは、自の意にはあらず。また「我が国は」より、「新代と」まで五句は、これも寿詞をもて、泉の序とせるにて、出ずとつづく意なり。そもそもこの歌の意、上の件の如くなれば、巨勢道よりと云えるは、即ち上の田上山の材なり。又別に巨勢道よりものぼすにはあらず。又知らぬ国よりも、材をのぼすと云うにあらず。思いまがうべからず。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井そのよしを云わんに、数数あり、一つには、まず師の字と鈴の字とは、楷書はさらにも云わず、草書も形似ざれば、誤るべきに有らず。二つにはもし五十鈴の原ならんには、さく鈴のとも、さくくしろとも、古き枕詞の有るをおきて、山のほとりならむからに、山のべのと、させるよしも無き事を云うべきにあらず。一の巻なる歌には、山のべの御井を見がてりとも有れば、山のべは必ず地の名なるを、五十鈴の原のあたりには、古よりさる地の名あること無し。すべてかの神宮のあたりに古き所は、さしもあらぬだに、その所は失うと云えども、さすがに名は残りて、かしこの書どもに見えざるは無きを、これはさばかり古く、名高き所なるに、見えざるべきよう無し。三つには、かの長歌、もし大御神の宮づかえの事を詠めるならば、必ずその大御神の鎮り座す事のよしなどをこそ云うべきに、その大御神の御事は、一言も云わずして、にわかに大宮づかえと云うべきよし無し。始めより日の御子の御食つ国と云いて、大宮づかえと云えるは、天皇の宮なること疑い無く、其うえ島の名高しと云うまで、行宮より見渡したるけしきをもて云えるさま、いちじるし。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井そもそも古の御井は、此二つのうち、いずれならん、定めがたし。赤人の硯水と云い伝えたるは、初めに云える方なり。ただし百三四十年ばかりもさきに、或人の、此国の事どもしるせる、勢陽雑記という物には、かの赤人の屋敷の事を云いて、その麓に清水有り、赤人の硯水なり、と云い伝えたりとしるせるは、後のかたを云えるように聞こえたり。後のかたは、かの麓というべき所、はじめのかたは、ややさかりて、かの麓とは云うまじき所なればなり。されどこは、たしかにみずから行き見てしるせるか、はた里人の語れるを聞きて、大かたに云えるか、知りがたければ、頼みがたし。そはとまれかくまれ、五十師の原山の辺は、うたがい無く此ところにて、赤人屋敷と云う地ぞ、行宮の御跡なるべく、又御井も、かの二つのうちははずるべからずとぞ思わるる。然るを師の万葉考には、五十師原を、五十鈴の原と改めて、かの長歌を、大御神の宮づかえの事に説きなして、鈴鹿の郡の山辺なりと云うを破りて、くさぐさ論ぜられたれども、其説ことごとくあたらぬ事なり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井錦をはれるとは、かの行幸は、六年の三月なれば、桜桃などの花を云えるか。又は大宝二年十月にも、同じ天皇、参河国に行幸有りしかば、其時にてもあらむか。もし然らば行宮は、参河への道次の行宮にて、錦は紅葉なるべし。とにかくに長歌のよう、女房たちの宮づかえのさまを詠めりと聞こゆれば、必ず持統天皇なるべし。さて此あたり、今はすべて松山にて、あだし木はすくなし。かの赤人屋敷と云うは、山辺村より南の方へいささかのぼりて、高き所に在りて、たても横も半町には足らぬ程のたいらにて、今は畠なり。其西北のすみの所に、石垣と云う物も有りしを、五六十年ばかりさきに、里人の埋みしとぞ。又此所の土の中より、碁石の如くなる、小さき石に仏経の文字を彫りたるを、おりおり掘り出ること有りと云えり。さてそのあたりより、伊勢の海よく見渡されて、ここより見れば、まことに水門なすと詠めるさまなり。尾張参河の山山も、伊勢の山山島島も、よく見え、高岡川という川、村の東を流れて、ま近く見おろさるるなど、すべてかの長歌のけしきに、よくかなえる所なり。御井は、そこより南の、すこし西の方へくだりたる、谷あいの田の中に有り。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つ歌によりて思うに、とぶらいたりける人の、など有るべきにや、「おもおえず袖に云云、袖に湊のと云うこと、聞えず。又真名本に、袖に浪渡のと書けるは、下の句とむげにかけあわず、ひが事なり。浪渡は、異所にも斯く書きて涙なり。されば思うに、こは袖の湊のなるべし。たとい袖の湊と云う名所は無くとも、涙の深き事を、下の句の縁に、然か云いつべき物なり、のをにに誤れるなるべし。女の手あらうところに云云、ここの文きこえず。真名本にて聞えたり。但しかの本も、泣く影のうつりけるを見てちょう下に、女と云う言無くてはいかが。たち聞きても、かの本に聞きつけてと有るぞ善き。「水口に我や云云、この歌の初めの二句の注ども、いずれもいささかたがえり。こはさだめてわが泣く影も、ともに見えやすらんと云えるなり。こうように見ざれば、下の句にかなわず。わが影の見ゆるにや有らむと云うとは異なり。「ならわねば云云、この歌、詞たらわで、聞えぬ歌なり。とかくなまめくあいだに、かのいたる蛍を云云、かくては、なまめくは、いたるには有らで、異人と聞えていかが。とかくなまめきつつ、蛍をとりて、などこそ有るべけれ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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