中朝事実 / 禮儀章・和歌の起こりと中国の詩との並び
素戔鳴尊遂到出雲之淸地焉。〔淸地。此云素鵞。〕乃言曰。吾心淸淸之。〔今呼此地曰淸。〕於彼處建宮。時素戔鳴尊歌之曰。夜句茂多菟。伊都毛夜覇餓岐。菟磨語味爾。夜覇餓枳菟倶盧。贈廼夜覇餓岐廻。 謹按。是詠歌之始也。初二神旣有唱和。爲憙哉之辭。是乃雖歌曲之父母。未及章句。至此三十一字相備。爲萬世詠歌之基。此後下照姬之夷曲。彥火火尊之擧歌。及人皇。此道日隆。而以至動天地。感鬼神。和上下。正人倫。通事物之情。是乃樂律之其一也。蓋內因七情之蘊。外發其言辭以述其懷者。人情之道也。既有言辭。則有章有句。有章句。以可詠之。則有諷而託之。〔日諷歌。乃外國之風也。〕有陳而直之。〔日加堵倍歌。乃外國之賦也。〕有喩而比之。〔日準擬歌。乃外國之比也。〕有起而引之。〔日譬歌。乃外國之興也。〕有正而平之。〔日正言歌。乃外國之雅也。〕有祝而壽之。〔日祝歌。乃外國之頌也。〕詞林言葉之繁。文海筆藻之廣。千變萬態。亦不出此六義。波流分派。而天下皆詠歌於此。柿本人丸山邊赤人。獨步於古今。神仙于當道。朝廷以之佐敎化。以之試其賢愚。人臣以之諷諫。以之表衷。鬼神以感之。人民以和之。所其繁甚重。所其基太深。而制長歌短歌旋頭混本之類。雜體又不少。況因二神之唱和。上問下答之連歌。〔日本武尊有筑波之詠。乘燭者獻九夜十日之答。〕洋洋乎盈耳。是中國之文物。而猶外國之詩。代代之勅選。家家之別集。五車亦可折轄。且集歌林之良材。聚詞海之浮藻。文人筆之書。女史著之册。豈三萬軸耳乎。及後世漢語相通。外國之詩賦文章亦大行于世。凡李翰林王右丞者。盛唐之詩人。天下稱之。而阿倍仲滿相並贈答唱和。陸龜蒙皮日休者文人也。詩人也。有高致。有聰悟。而釋圓載交擬金蘭。如仲麻呂者。中國之一書生也。唐肅宗上元中。擢左散騎常侍安南都護。累遷北海郡開國公。食邑三千戶。遂卒於唐。是人才不愧於外國也。況吉備眞備博洽也。菅江之名其家。文藻詩集及國史家集之廣布於世。以貴洛紙之價。豈立外國之下風乎。且詩文之入于禪。南禪信義堂〔周信。有空華集。〕相國津絕海〔中津。有蕉堅藁。〕少林岩〔有得巖。〕惟肖。〔有東海璜華。〕建仁江西〔龍派。〕東福鍊虎關〔師鍊。有濟北集。〕嚴東沼〔周殿。有流水集。〕澤天隱〔龍澤。〕三橫川〔景三。有京華集。〕及村庵月舟之等。各橫行而並馳。又不可枚擧也。或疑。先人曰。中朝之文士。發名於外國。粟田阿倍而已。然乃粟田阿倍之才賢於吉備乎。愚謂。粟田入唐。武后賜宴於麟德殿。見外國之史。粟田眞人養老三年卒。無遺行之可稱。於今。仲滿雖播名於外國。中朝又無可知其才。吉備眞備入唐而詳唐禮。博涉經史。以審思明辨。而大興儒風釋典之禮。通武義兵法。以籌平賊。其功尤懿也。故自從八位下轉正二位右大臣。改下道賜吉備姓。凡入唐之輩。無可立此上。竊按。仲麻呂者反之。夫雖信美。而非吾土者。人之情也。仲麻呂放其還鄉不去。卒於唐。終不省父母。不輔王政。家乏。葬禮有闕。又賜其賻賵眷遇如此。而忘其本。豈是才之實乎。唐帝賞之以美官大祿。外國之衰亦可并按也。
新字:素戔鳴尊遂到出雲之清地焉。〔清地。此云素鵞。〕乃言曰。吾心清清之。〔今呼此地曰清。〕於彼処建宮。時素戔鳴尊歌之曰。夜句茂多菟。伊都毛夜覇餓岐。菟磨語味爾。夜覇餓枳菟倶盧。贈廼夜覇餓岐廻。 謹按。是詠歌之始也。初二神既有唱和。為憙哉之辞。是乃雖歌曲之父母。未及章句。至此三十一字相備。為万世詠歌之基。此後下照姫之夷曲。彦火火尊之挙歌。及人皇。此道日隆。而以至動天地。感鬼神。和上下。正人倫。通事物之情。是乃楽律之其一也。蓋内因七情之蘊。外発其言辞以述其懐者。人情之道也。既有言辞。則有章有句。有章句。以可詠之。則有諷而託之。〔日諷歌。乃外国之風也。〕有陳而直之。〔日加堵倍歌。乃外国之賦也。〕有喩而比之。〔日準擬歌。乃外国之比也。〕有起而引之。〔日譬歌。乃外国之興也。〕有正而平之。〔日正言歌。乃外国之雅也。〕有祝而寿之。〔日祝歌。乃外国之頌也。〕詞林言葉之繁。文海筆藻之広。千変万態。亦不出此六義。波流分派。而天下皆詠歌於此。柿本人丸山辺赤人。独歩於古今。神仙于当道。朝廷以之佐教化。以之試其賢愚。人臣以之諷諫。以之表衷。鬼神以感之。人民以和之。所其繁甚重。所其基太深。而制長歌短歌旋頭混本之類。雑体又不少。況因二神之唱和。上問下答之連歌。〔日本武尊有筑波之詠。乗燭者献九夜十日之答。〕洋洋乎盈耳。是中国之文物。而猶外国之詩。代代之勅選。家家之別集。五車亦可折轄。且集歌林之良材。聚詞海之浮藻。文人筆之書。女史著之册。豈三万軸耳乎。及後世漢語相通。外国之詩賦文章亦大行于世。凡李翰林王右丞者。盛唐之詩人。天下称之。而阿倍仲満相並贈答唱和。陸亀蒙皮日休者文人也。詩人也。有高致。有聰悟。而釈円載交擬金蘭。如仲麻呂者。中国之一書生也。唐粛宗上元中。擢左散騎常侍安南都護。累遷北海郡開国公。食邑三千戸。遂卒於唐。是人才不愧於外国也。況吉備真備博洽也。菅江之名其家。文藻詩集及国史家集之広布於世。以貴洛紙之価。豈立外国之下風乎。且詩文之入于禅。南禅信義堂〔周信。有空華集。〕相国津絶海〔中津。有蕉堅藁。〕少林岩〔有得巖。〕惟肖。〔有東海璜華。〕建仁江西〔竜派。〕東福錬虎関〔師錬。有済北集。〕厳東沼〔周殿。有流水集。〕沢天隠〔竜沢。〕三横川〔景三。有京華集。〕及村庵月舟之等。各横行而並馳。又不可枚挙也。或疑。先人曰。中朝之文士。発名於外国。粟田阿倍而已。然乃粟田阿倍之才賢於吉備乎。愚謂。粟田入唐。武后賜宴於麟徳殿。見外国之史。粟田真人養老三年卒。無遺行之可称。於今。仲満雖播名於外国。中朝又無可知其才。吉備真備入唐而詳唐礼。博渉経史。以審思明弁。而大興儒風釈典之礼。通武義兵法。以籌平賊。其功尤懿也。故自従八位下転正二位右大臣。改下道賜吉備姓。凡入唐之輩。無可立此上。窃按。仲麻呂者反之。夫雖信美。而非吾土者。人之情也。仲麻呂放其還郷不去。卒於唐。終不省父母。不輔王政。家乏。葬礼有闕。又賜其賻賵眷遇如此。而忘其本。豈是才之実乎。唐帝賞之以美官大禄。外国之衰亦可并按也。
書き下し
素戔鳴尊、遂に出雲の淸地に到る。〔淸地、此には素鵞と云ふ。〕乃ち言ひて曰く、吾が心淸淸し、と。〔今此の地を呼びて淸と曰ふ。〕彼の處に宮を建つ。時に素戔鳴尊、歌ひて曰く、夜句茂多菟。伊都毛夜覇餓岐。菟磨語味爾。夜覇餓枳菟倶盧。贈廼夜覇餓岐廻。 謹んで按ずるに、是れ詠歌の始めなり。初め二神旣に唱和有りて、憙哉の辭を爲す。是れ乃ち歌曲の父母と雖も、未だ章句に及ばず。此に至りて三十一字相備はり、萬世詠歌の基と爲る。此の後、下照姬の夷曲、彥火火尊の擧歌、人皇に及び、此の道日に隆んにして、以て天地を動かし、鬼神を感ぜしめ、上下を和し、人倫を正し、事物の情に通ずるに至る。是れ乃ち樂律の其の一なり。蓋し內は七情の蘊に因り、外は其の言辭を發して以て其の懷ひを述ぶるは、人情の道なり。旣に言辭有れば、則ち章有り句有り。章句有りて、以て詠ずべくすれば、則ち諷して之に託する有り、〔諷歌と曰ふ。乃ち外國の風なり。〕陳べて之を直にする有り、〔加堵倍歌と曰ふ。乃ち外國の賦なり。〕喩へて之に比ぶる有り、〔準擬歌と曰ふ。乃ち外國の比なり。〕起こして之を引く有り、〔譬歌と曰ふ。乃ち外國の興なり。〕正して之を平らかにする有り、〔正言歌と曰ふ。乃ち外國の雅なり。〕祝ひて之を壽ぐ有り。〔祝歌と曰ふ。乃ち外國の頌なり。〕詞林言葉の繁き、文海筆藻の廣き、千變萬態、亦た此の六義を出でず。波流れて派を分かち、天下皆此に詠歌す。柿本人丸・山邊赤人は、古今に獨歩し、當道に神仙たり。朝廷以て敎化を佐け、以て其の賢愚を試み、人臣以て諷諫し、以て衷を表し、鬼神以て之に感じ、人民以て之に和す。其の繁き所甚だ重く、其の基く所太だ深し。長歌・短歌・旋頭・混本の類を制するに、雜體も又た少なからず。況んや二神の唱和に因り、上問ひ下答ふる連歌、〔日本武尊に筑波の詠有り、乘燭者九夜十日の答を獻ず。〕洋洋乎として耳に盈つ。是れ中國の文物にして、猶ほ外國の詩のごとし。代代の勅選、家家の別集、五車も亦た轄を折るべし。且つ歌林の良材を集め、詞海の浮藻を聚め、文人之を書に筆し、女史之を册に著す。豈に三萬軸のみならんや。後世漢語相通ずるに及び、外國の詩賦文章も亦た大いに世に行はる。凡そ李翰林・王右丞は、盛唐の詩人にして、天下之を稱す。而して阿倍仲滿、相並びて贈答唱和す。陸龜蒙・皮日休は文人なり、詩人なり。高致有り、聰悟有りて、釋の圓載、交りを金蘭に擬す。仲麻呂の如き者は、中國の一書生なり。唐の肅宗の上元中に、左散騎常侍・安南都護に擢せられ、累遷して北海郡開國公となり、食邑三千戶。遂に唐に卒す。是れ人才の外國に愧ぢざるなり。況んや吉備眞備の博洽なるをや。菅・江の名を其の家にし、文藻・詩集及び國史・家集の廣く世に布かるること、以て洛紙の價を貴からしむ。豈に外國の下風に立たんや。且つ詩文の禪に入る、南禪の信義堂、〔周信。空華集有り。〕相國の津絕海、〔中津。蕉堅藁有り。〕少林の岩、〔得巖有り。〕惟肖、〔東海璜華有り。〕建仁の江西、〔龍派。〕東福の鍊虎關、〔師鍊。濟北集有り。〕嚴東沼、〔周殿。流水集有り。〕澤天隱、〔龍澤。〕三橫川、〔景三。京華集有り。〕及び村庵・月舟の等、各々橫行して並び馳す。又た枚擧すべからず。或ひと疑ふ、先人曰く、中朝の文士、名を外國に發する者は、粟田・阿倍のみ、と。然れば乃ち粟田・阿倍の才は吉備より賢きか、と。愚謂へらく、粟田は唐に入り、武后、宴を麟德殿に賜ひ、外國の史を見る。粟田眞人は養老三年に卒し、遺行の稱すべき無し。今に於て、仲滿は名を外國に播くと雖も、中朝には又た其の才を知るべき無し。吉備眞備は唐に入りて唐禮を詳らかにし、經史に博涉して、以て審思明辨し、大いに儒風釋典の禮を興し、武義兵法に通じて、以て賊を籌平す。其の功尤も懿し。故に從八位下より正二位右大臣に轉じ、下道を改めて吉備の姓を賜ふ。凡そ入唐の輩、此の上に立つべき無し。竊かに按ずるに、仲麻呂は之に反す。夫れ信に美なりと雖も、吾が土に非ざるは、人の情なり。仲麻呂は其の還郷を放ちて去らず、唐に卒し、終に父母を省みず、王政を輔けず。家乏しく、葬禮に闕有り。又た其の賻賵を賜ひ眷遇すること此くの如し。而るに其の本を忘る。豈に是れ才の實ならんや。唐帝之を賞するに美官大祿を以てす。外國の衰へも亦た并せ按ずべきなり。
現代語訳
素戔嗚尊はついに出雲の清地に到った。(清地は「すが」という。)そこで言った。私の心はすがすがしい、と。(今この地を清と呼ぶ。)その地に宮を建てた。そのとき素戔嗚尊は歌って言った。八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を。(原文は万葉仮名のまま) 素行はこう考える。これは詠歌の始めである。初め二神にはすでに唱和があり、喜びの言葉を発した。これは歌曲の父母であるとはいえ、まだ章句には及ばなかった。ここに至って三十一字が備わり、万世の詠歌の基となった。この後、下照姫の夷曲、彦火火尊の挙歌があり、人皇の時代になって、この道は日々に盛んになり、天地を動かし、鬼神を感じさせ、上下を和らげ、人倫を正し、事物の情に通じるまでになった。これは楽律の一つである。そもそも内には七情の蓄えがあり、外にはその言葉を発して思いを述べるのが、人情の道である。すでに言葉があれば、章があり句がある。章句があって詠むことができれば、遠回しに託す歌がある、(諷歌という。外国の風である。)述べて直に言う歌がある、(かぞえ歌という。外国の賦である。)たとえて比べる歌がある、(なぞらえ歌という。外国の比である。)起こして引く歌がある、(たとえ歌という。外国の興である。)正して平らかにする歌がある、(正言歌という。外国の雅である。)祝って寿ぐ歌がある。(祝歌という。外国の頌である。)言葉の林の繁さ、文章の海の広さ、千変万態も、この六義を出ない。流れが波立って派に分かれ、天下の人がみなここに詠歌する。柿本人麻呂・山辺赤人は、古今に抜きんでて、この道の神仙である。朝廷はこれで教化を助け、その賢愚を試み、臣下はこれで諫め、真心を表し、鬼神はこれに感じ、人民はこれに和した。その繁盛は非常に重く、その基づくところは非常に深い。長歌・短歌・旋頭歌・混本歌などを制し、雑体もまた少なくない。まして二神の唱和に基づく、上が問い下が答える連歌、(日本武尊に筑波の詠があり、灯を持つ者が九夜十日の答を献じた。)盛んに耳に満ちる。これは中国(日本)の文物であり、外国の詩に等しい。代々の勅撰、家々の別集は、五車の本でも車軸が折れるほどである。さらに歌の林の良材を集め、言葉の海の浮藻を集めて、文人がこれを書に記し、女史が冊に著した。三万軸どころではない。後世、漢語が通じるようになると、外国の詩賦文章も大いに世に行われた。李翰林(李白)・王右丞(王維)は盛唐の詩人で、天下がこれを称した。阿倍仲麻呂は彼らと並んで贈答唱和した。陸亀蒙・皮日休は文人であり詩人である。高い風格と聡明さがあり、僧の円載は交際を金蘭になぞらえた。仲麻呂のような者は、中国の一書生であった。唐の粛宗の上元年間に、左散騎常侍・安南都護に抜擢され、次々に昇進して北海郡開国公となり、食邑三千戸を得た。ついに唐で亡くなった。これは人材が外国に恥じないということである。まして吉備真備の博識はなおさらである。菅・江(菅原氏・大江氏)はその家で名を成し、文藻・詩集および国史・家集は広く世に行きわたり、洛陽の紙の価を高くするほどであった。外国の風下に立つことなどない。さらに詩文が禅に入った者として、南禅寺の義堂周信、(周信。空華集がある。)相国寺の絶海中津、(中津。蕉堅藁がある。)少林寺の岩、(得巌がある。)惟肖、(東海璜華がある。)建仁寺の江西龍派、(龍派。)東福寺の虎関師錬、(師錬。済北集がある。)厳東沼(周殿。流水集がある。)、沢天隠(龍沢)、三横川(景三。京華集がある。)および村庵・月舟らが、それぞれ縦横に並んで駆けた。これも数え上げることができない。ある人は疑う。先人は、中朝(日本)の文士で外国に名を揚げたのは粟田と阿倍だけだ、と言う。では粟田・阿倍の才は吉備より優れているのか、と。私は考える。粟田は唐に入り、則天武后が麟徳殿で宴を賜い、外国の史を見た。粟田真人は養老三年に亡くなり、称えるべき遺した行いがない。仲麻呂は外国に名を広めたが、中朝にはその才を知るものがない。吉備真備は唐に入って唐の礼に詳しくなり、経史に博く通じ、深く思い明らかに弁え、儒風と仏典の礼を大いに興し、武義と兵法に通じて賊を平らげる計を立てた。その功は特に大きい。だから従八位下から正二位右大臣に進み、下道の姓を改めて吉備の姓を賜った。入唐した者でこれより上に立つ者はいない。私はひそかに考える。仲麻呂はこれと反対である。美しいといっても自分の土地でないところにとどまるのは、人の情である。仲麻呂は帰郷を許されても去らず、唐で亡くなり、ついに父母を省みず、王政を助けなかった。家は乏しく、葬礼にも欠けるところがあった。また唐は弔いの品を賜い、手厚く遇した。それなのにその根本を忘れた。どうしてこれが才の実だろうか。唐の皇帝はこれを賞して美官と大禄を与えた。外国の衰えもあわせて考えるべきである。
解説

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『中朝事実』禮儀章・神武の来目歌と礼儀の総論神武、東征して莵田の血原に於て、酒宍を以て軍卒に班ち賜ふ。乃ち御謠を爲りて曰く、〔謠、此には字多預弱と云ふ。〕宇儀能多伽〔莵田垣〕機珥。辭羂和奈破蘆。〔鷸羂張〕和餓未莵夜。〔我待〕辭藝破佐夜羅孺。〔鷸不寄〕伊殊區波辭。〔勇妙〕區裾羅佐夜離。〔鯨寄〕固奈瀰餓〔前妻〕那居波佐磨〔魚乞者〕多智曾麼能〔立抓稜〕未廼〔實〕那鷄句塢。〔無〕居氣辭被惠禰〔扱梓〕。宇破奈利餓〔後妻〕那居波佐磨〔魚乞者〕伊智佐介幾〔柃木〕未廼〔實多〕於朋鷄句塢。居氣儀被惠禰〔扱捽〕。是れ來目歌と謂ふ。今、樂府に此の歌を奏する者は、猶ほ手の量の大小及び音聲の巨細有り。此れ古の遺式なり。 謹んで按ずるに、是れ謠歌の初めなり。夫れ謠は章曲無し。而して是れ又た詠歌の一體なり。凡そ神樂・催馬樂・風俗に歌ふ所は皆是れ謠なり。蓋し外朝三百篇の詩は、中國の謠歌なり。中州三十一字の歌は、外朝の律詩なり。五言七言の詩は漢に起こり、康哉の歌は唐虞に出づ。中朝の歌謠は、共に端を神代に造り、以て風を後世に隆んにす。吁、上下を和し、人情に通じ、鬼神に事ふるの道、太だ備はれるかな。〔以上、樂聲の禮を論ず。〕 以上、禮儀の道を論ず。 謹んで按ずるに、禮は、天地に則り、八情に順ひ、事物を考へ、其の至誠を致し、其の始終を省るの道なり。儀は、威儀を正して以て文章を修飾するの謂なり。禮立てば則ち儀行はる。故に治平を國家に爲すに禮を以てせざれば、猶ほ衡無く繩墨無く規矩無きがごとし。其の輕重曲直方圓、終に知るべからず。禮を定むるに道を以てせざれば、猶ほ衡の正しからず、繩墨規矩の明らかならざるがごとし。誣ふるに奸詐を以てし、亦た其の實を得るを須たず。五倫の大經、事物の周通、禮より善きは莫し。禮は儀に因らざれば行はれず、儀は禮に本づかざれば誠無し。禮儀相因りて、而る後、本立ちて文成るなり。儀禮の天下に經緯する、其の品節甚だ多く、其の條目數繁し。故に儀禮を制し修飾を審らかにするは、聖人に非ざれば道を虔まず、天子に非ざれば其の用を盡くす能はざるなり。人に親疎有り、貴賤有り、貧福有り、男女有り、長幼有り、官位有り、職掌有り。其の事の吉なる、凶なる、軍なる、賓なる、嘉なる。其の物の衣服と云ひ、飮食と云ひ、家宅と云ひ、用器と云ふ。其の威儀文章の隆殺、豈に容易ならんや。故に天の道、地の義、民の行ひ、禮を以てせざる無し。神聖其の端を垂れて以て萬世を戒む。其の旨、亦た大ならずや。或ひと疑ふ、樂と禮とは相對す。而るに今、樂を以て禮に屬するは何ぞや、と。愚謂へらく、樂も亦た儀の禮なり。禮立てば則ち樂行はる。猶ほ天の地に在るがごとし。天と曰へば則ち地は其の中に在るなり。
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『中朝事実』禮儀章・文字と和訓・書画の礼聖旣に唱和・嘖讓・誓約の義有り。太玉命の稱讚、天兒屋命の太諄辭。況んや天神の聖勅をや。素戔鳴尊の稻田姫に於けるや、彥火火尊の豐玉姫に於けるや、神武帝の御謠、道臣命の諷歌に至りては、乃ち章有り句有り文有り藻有らんや。夫れ文字の作るや、其の言語音聲に因りて、其の事物の形氣を象り、端を其の始めに造り、修飾楷模、其の後に備完す。蓋し往古に假名字有り。〔俗に伊呂波と曰ふ。〕是れ乃ち文字の父母にして、言語の音象なり。以て其の事を通じ、以て其の情を表す。後世因循增益して、千變萬化の文字と爲り、天下の用と爲る。音聲の委曲婉轉なること、人情の精微幽玄なること、繕寫して之を盡くさざる莫し。應神帝に及びて、外朝の文字相通じ、字畫の規楷、殆ど中華の文字に類す。五音の平上去入も亦た此に異ならず。和漢の字相通用し、外國を譯するに漢字を以てし、言語を詳らかにするに倭訓を以てす。然れば乃ち中華の文字は、其の實倭字に在り。倭漢の字を以て互ひに相用ゐ、以て天下の利と爲すなり。或ひと疑ふ、今用ゐる所の文字は、皆外國の文字なり。上古の文字は何ぞ形象有りしかを知らず、と。愚謂へらく、凡そ文字の制は必ず時と與に變化す。往古の文書は、鞍作の亂に悉く灰と爲り、其の時、旣に之を知るべからず。況んや後世をや。且つ外朝の文字相通じてより爾來、文學の史生、留學の博士、專ら外書を好み、其の記する所、其の言ふ所、悉く漢語を用ふ。是れ倭漢の事義、筆畫互ひに相因るなり。鯛・鯔・年魚・堅魚・鰶魚を魚と爲し、槇・椿・梶・櫻・楓を木と爲す。或いは外朝の字義に同じからず、或いは外書に其の字無きの類甚だ多し。皆國俗の制なり。或ひと疑ふ、然れば乃ち何ぞ中國の字編無きや、と。愚謂へらく、外國と中國とは、天地の氣候を一にし、神聖の揆を同じくして、人物事義、殆ど異ならず。漢語の相襲ふこと、猶ほ水は濕に流れ火は燥に就くがごとし。少頃にして天下の人人、皆倭字漢字を相用ゐ、外朝の治平遼遠、人物の其の事に敏き、文書史編の字畫、悉く之を致すに異ならず。故に中州乃ち之に因りて以て補益す。假借の來たること、是れ其の短を措き其の長に就くの道なり。竊かに按ずるに、往古の言語名字は、其の說其の義、今審らかにすべからず。强ひて之を解けば附會に似たり。或いは上古の辭有り、或いは後世の訛言有り、或いは漢字通用の語有り、或いは方言有り、或いは時俗の辭の相製するもの有り。大抵、中朝の言語は悉く訓故を用ゐ、言辭の間、事物尤も通じ易し。文章辭令を盡くすに足らず。外朝は之に反し、言語盡く音を用ゐる。故に一事と雖も文字に贍らざれば、明辨し難し。此に於て文章辭令、日に繁く年に累なる。夫れ外朝の古は、鳥迹以て結繩に代へ、科斗以て鳥形に代へ、篆籕以て科斗に代へ、隷書以て篆籕に代へ、而して後、草書・飛白の類相續いで起こる。漢の時、周を去ること未だ遠からずして、科斗の文字、人解くを得ず。然れば乃ち上古近代の字畫の同じからざること、外朝すら尙ほ爾り。況んや武后の圀字を作る、〔國字。昌黎の作れる犯字、音は敦の上聲。收錢了訖。〕庵を隋唐に奄と作る、十を唐音に平聲と爲す、〔唐詩に平聲と爲す。音は當に諶と爲すべし。之を長安の語音と謂ふ。否れば則ち詩叶はず。〕□字は梵音、詩人之を用ゐる、〔□は伊字、佛書に之を用ゐる。唐の王維の詩に三點伊を成すと、猶ほ想有り。〕綱字は之無し、升庵之を用ゐる、〔綱字は書に之無し。楊升庵に綱巾の義有り。〕廉編は字有りて音無く義無し。此の如きの類尤も多し。故に經史に出でざるの字有り、音義に知るべからざるの字有り。或いは奇字近作有り、或いは釋梵の俗字有り、或いは叶韻假借有り。然れども外朝文字の祖は、易を以て本と爲し、奇偶を以て畫と爲し、形・事・意・聲を以て體と爲す。只だ日に便簡に趨き、字楷古意を失ふ。豈に字畫のみ爾らんや。事物の修飾、其の道を以てせざれば、則ち其の實泯沒して其の古を失ふ。并せ案ずべきなり。或ひと疑ふ、此に因れば則ち文學は必ず外朝を以て長ずと爲すか、と。愚謂へらく、漢語の文學は、外朝に倚らざれば之を知るべからず。故に推古帝、好を修め隣を善くせしより後、外國通信已まず。留學生を置き、以て漢語を講肆せしむ。外朝の典籍、來たらざる無し。吉備眞備・阿倍仲滿の如き、盛唐の文人詩仙と相並びて愧ぢざるに至る。其の風を慕ひ塵を繼ぎて相興る者、世世人に乏しからず。詩賦文章の集、以て册と爲す。亦た何ぞ彼に異ならんや。抑も文學は我が文學にして、必ずしも彼ならず。大底、朝廷の紀錄・史書・勅集は、皆漢字を假借し倭語を訓ず。其の間、專ら漢語を以てするもの有り、倭漢相襍ふるもの有り、倭字を以てするもの有り。日本書紀・萬葉集・古今集、及び六條宮の眞字を以て伊勢物語を模謄し、菅爲長の倭語を訓じて貞觀政要を諺說するが如き是れなり。中朝の文學を知らずして漢文を學ぶは、猶ほ未だ人に事ふること能はずして鬼神に事ふるを問ふがごとし。或ひと問ふ、書畫にも亦た中朝の法有りや、と。愚謂へらく、旣に文字有れば、則ち未だ嘗て模楷無くんばあらず。上古の事迹は、今之を知るべからず。中古以來、眞・行・艸の精秀、或いは神に入り、或いは聖に入り、鬼神も亦た之に感じ、木石も亦た動く。其の勢ひ龍鳳より飛び、其の機未然に通ずるの輩、相續き連綿として、各々一家の風を興し、又た外朝に相並ぶ。藤道長・藤佐理及び野人若愚の善書の稱、彼の國の書を見て、況んや畫手の妙、更に彼に愧ぢざるをや。凡そ文字の形象日に變じ、其の觀に壯なる者は、殆ど古意を失ふ。筆資の意を縱にし、點楷の手に任するに、凌雲・垂露の逞しきは、是なるは是なれども、字畫の繇つて參差する所、俗字の由りて興起する所なり。外朝の善書者も亦た然り。字、變じて楷と爲り、大いに古體に背く。而して鍾繇・王羲之、楷を善くするを以て名家たり。吁、修飾の禮は、君子に非ざれば其の實を得べからざるなり。〔以上、文書の禮を論ず。〕
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『文武訓』文訓上一詩はわが国の風俗にそむけり。国土に宜しからず。心ことば同じからざる故に、かよひがたく知りがたし。中夏のことば意に通じがたし。故に、いにしへ本朝の才士名家といへども、詩ははなはだ歌におとりて、つたなくして、中夏の作には大におとれり。中華の詩に及ばざるのみならず、やまと歌にも大におとれり。もろこしの詩にも、和歌にも及ばざることかくの如し。わが国に宜しからざることを作るは、土宜にかなはず。古今の序に書ける、詩賦の作日本に行はれしより、和歌の道おとろへけり。げにも、わが国俗にあらざれば、歌をよまずして詩を作るは、本末たがへるなり。博学多識にして詩才あらば、作るも可なり。しからずんば、わが心にかなひがたく、つたなきを人に見せて、わらはれんもはづかし。
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『十善法語』巻第五・不綺語戒詩賦文章ノ類。我邦ノ敷島ノ道。ミナ精神ヲ模シ出シ。風化ヲ助ケ。道理ヲ寓スル器シヤ。歌学者カ一草一木一瓦一石マテ。言ヲ発シテ歌ヨメト云ヌハカリノ姿シヤト云。詩人カ人事万般四時ノ風景コトコトク佳句ノアル処ト云。男女ノ情ニ寄テ君臣ノ義ヲノヘ。杯酒ニヨセテ慷慨ノ気象ヲ顕ハスト云。並ニ其楽其人ニ在ベキコトシヤ。詩経三百篇ヲ審ニスレハ。国風人情ノ中ニ世ヲ救ヒ民ニ長タル趣有テ存スル。文選ニ至リ唐詩ニ至ルマテ。時ノ治乱。民ノ苦楽。事ノ成敗。情ノ虚実。条然トワカレテ面白キコト多イト云コトシヤ。降テハ宋詩ノ理ニ過ルモ。明詩ノ模様ニワタルモ。其楽其人ニ在ベシ。我邦ノ和歌。万葉已来。ソノ風采。千歳ノ後モ感ニ入ルコトシヤ。玄賓僧都ノ山田モルノ詠。蟬丸カ此ヤコノノ歌。喜撰カ宇治山ノ歌ノ類。ソノ逸趣。天竺ノ偈頌ノ文ニモ比スヘキト云。又桜カサシテ今日モ暮シツト云。紅葉ノ錦神ノマニマニト云。我身ヒトツハ旧ノ身ニシテト云類。三百篇ニモ比スヘキト云シヤ。
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『中朝事実』禮儀章・国史・憲法・詔書と文字の起こり其の後、中朝、遣唐使を置き、外朝に通信す。然れども外朝の書簡は、多く諸侯王を以てす。世衰へ人訛り、此を以て足れりと爲す。其の失は何にか在る。唯だ記誦文字の俗儒に造端し、以て我が國の我が國たるを知らざるに至る。噫、家雞を輕んじ野雉を愛す、何ぞ德の衰へたるや。〔以上、善隣の禮を論ず。〕 應神帝二十八年秋九月、高麗王、使を遣はして朝貢す。因りて以て表を上る。其の表に曰く、高麗王、日本國に敎ふ、と。時に太子菟道稚郞子、其の表を讀みて之を怒り、高麗の使を責む。表狀無禮なるを以て、則ち其の表を破る。 謹んで按ずるに、是れ表狀の禮を正すなり。凡そ太子、外朝の典籍を讀むこと此に十五年。然れども乃ち外朝の文字の相通ずること未だ遠からずして、太子の聰明、通達せざる莫しと雖も、中州は同氣相應ずるに非ず、如何ぞ速やかに弘文の盛を得んや。高麗は我が屬國にして、表狀無禮なれば、太子、表を破り使を責む。其の嚴なること此くの如し。志氣德量、并せ按ずべきなり。 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌、始めて諸國に國史を置く。言事を記し、四方の志を達す。 謹んで按ずるに、是れ國史を置くの禮なり。 推古帝十二年夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親ら肇めて憲法十七條を作る。 謹んで按ずるに、是れ憲章の書を作るの初めなり。 十六年、唐帝に聘す。其の辭に曰く、東の天皇、敬みて西の皇帝に白す、と。 謹んで按ずるに、是れ詔書の禮なり。此の後、公式の禮大いに行はる。〔詳しくは善隣の禮を論ずる條の上に見ゆ。〕新羅王・渤海王に璽書を賜ふに、天皇敬みて某國の王に問ふを以てす。是れ乃ち天子の諸侯王に賜ふ書の禮なり。凡そ文辭命令は、國家の大禮なり。文字言辭の褒貶に因りて、以て尊卑親疎の禮を存し、後世國史の例と爲す。草創・討論・潤色の義、更に忽にすべからざるなり。 二十八年、皇太子・島大臣共に議し、天皇記及び國記、臣・連・伴造・國造・百八十部并せて公民等の本記を錄す。〔蘇我稻目宿禰の子馬子、家を飛鳥河の傍に置き、乃ち庭中に小池を開き、仍りて小島を池の中に興す。故に時人曰く、島大臣、と。〕 謹んで按ずるに、是れ皇記・國記・本記の始めと爲す。孝德帝四年、鞍作の事有り。〔蘇我臣入鹿、更の名は鞍作。〕父の蘇我臣蝦夷、誅に臨みて、悉く天皇記・國記を燒く。船史惠尺、卽ち疾く燒かるる所の國記を取りて、中大兄に奉る。〔天智帝なり。〕此の時、往古の典籍悉く燒失す。其の後、天武帝詔して群臣に帝紀及び上古の諸事を記定せしめ、境部連石積等に命じて、更に肇めて新字一部四十四卷を造らしむ。是れより連綿として典籍日に造られ、文書大いに世に行はる。然れども中國往古の實記は火に入り、舊紀明らかならず。唯だ灰殘の燼竹を摘みて、以て間ま此の往事を存す。亦た萬世の戒と爲すに足る。吁、惜しいかな。或ひと言語文字を疑ふ。愚謂へらく、人旣に口舌有れば、則ち音聲有り。故に情の發する所、自ら言語有り。言語有れば、則ち終に文字の象有り。其の直ちに出づるを聲と曰ひ、曲節有るを音と曰ふ。其の形象の以て通ずべきを字と曰ひ、其の條理の節有るを文と曰ふ。共に是れ天地人物自然の勢ひなり。豈に唯だ中國外朝のみならんや。四夷の侏離、禽獸の嘷吼も亦た然り。直だ其の正を得ざるのみ。往古の神
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『文武訓』文訓下一和歌は、わが国の言葉にて、あさはかなるやうにきこゆめれども、言葉風雅にして古にちかく、心和平にして情ふかし。しかれば、もろこしの名家の詩にも、其品格をさをさおとるべからず。只、日本の人の作れる詩文は、わが国のことばにあらず、其上、習あしくて、いにしへの名家の作といへど、もろこしの下等の作にも及びがたし。よくつとめ学ばずんば、中夏の下品にも及びがたかるべし。身を終るまで、詩を作るにもはらにせば、詩は大かたよかるべけれど、さあらば経史にうとく、其余の事にも通ずるに暇なかるべし。