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玉勝間 / 十二の巻 吉野の水分ノ神社

そもそも此藏王と云ふ物は、古、よりの正しき神にはあらず。もとより神名式にも入らず。古、の正しき書には見えたる事無く、朝廷より祭らせ給ひし事無く、唯だ法師どものすゑたる、佛神ぞかし。すべて中昔より、法師どものしわざとして、いづこもいづこも、かく名ある所所は、みな佛どころとのみ成りて、もとより主と坐ス神たちは、佛の僕從のごとなりませるは、いともいとも悲しきわざにぞ有ける。此水分ノ神社の御事は、おのれ故あるによりて、古、の正しき事どもを、殊に世ノ人にも、廣く知らせまほしくて、殊に斯くは物しつるなり。

新字:そもそも此蔵王と云ふ物は、古、よりの正しき神にはあらず。もとより神名式にも入らず。古、の正しき書には見えたる事無く、朝廷より祭らせ給ひし事無く、唯だ法師どものすゑたる、仏神ぞかし。すべて中昔より、法師どものしわざとして、いづこもいづこも、かく名ある所所は、みな仏どころとのみ成りて、もとより主と坐ス神たちは、仏の僕従のごとなりませるは、いともいとも悲しきわざにぞ有ける。此水分ノ神社の御事は、おのれ故あるによりて、古、の正しき事どもを、殊に世ノ人にも、広く知らせまほしくて、殊に斯くは物しつるなり。

書き下し

そもそもこの蔵王と云う物は、古よりの正しき神にはあらず。もとより神名式にも入らず。古の正しき書には見えたる事無く、朝廷より祭らせ給いし事無く、ただ法師どものすえたる、仏神ぞかし。すべて中昔より、法師どものしわざとして、いずこもいずこも、かく名ある所々は、みな仏どころとのみ成りて、もとより主と坐す神たちは、仏の僕従のごとなりませるは、いともいとも悲しきわざにぞ有りける。この水分の神社の御事は、おのれ故あるによりて、古の正しき事どもを、殊に世の人にも、広く知らせまほしくて、殊にかくは物しつるなり。

現代語訳

そもそもこの蔵王というものは、昔からの正しい神ではない。もとより延喜式の神名帳にも入っていない。昔の正しい書物には見えることが無く、朝廷からお祭りになったことも無く、ただ法師たちが据えた仏神なのである。総じて中ごろの昔から、法師たちのしわざとして、どこもかしこも、このように名のある所々はみな仏の場所とばかりなって、もともと主として鎮座されていた神々が、仏の従者のようになってしまわれたのは、まことにまことに悲しいことである。この水分神社のことは、私には縁があるので、昔の正しいことを、とりわけ世の人にも広く知らせたくて、特にこのように書いたのである。

解説

水分神社の考証の結びで、宣長の神仏習合批判がはっきり出た段である。蔵王権現は修験道の開祖役行者が感得したと伝える仏教系の尊格で、吉野の金峯山寺の本尊である。宣長は、それが延喜式の神名帳にも古い正史にも見えず、朝廷が祭ったこともない、法師たちが据えた「仏神」にすぎないと断じる。そして中世以来、名ある霊地がみな寺の支配下に入り、本来の主である神々が仏の従者のようにされたことを「いともいとも悲しき」と嘆く。この考えは、後に平田篤胤らの復古神道を経て、明治の神仏分離へとつながってゆく流れの一源流でもある。最後に宣長は、自分には縁がある神だから特に詳しく書いたと打ち明ける。その「故」とは、申し子として授かった自身の出生のことである。

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