玉勝間 / 十二の巻 吉野の水分ノ神社
餘國にもこれかれ有、祈年ノ祭又月次祭、祝詞に、水分坐皇神等の前白久吉野宇陀都祁葛木御名者白云云、と見えたり。さてこの水分と申すを、中昔より訛りて、みこまり、みこもりなど申て、吉野のをも、六帖の歌、枕册子などにも、みこもりの神と云ひ、今も子守大明神と申すこれなり。萬葉七の卷の歌に、神左振磐根己凝敷三芳野之水分山乎見者悲毛、と詠めるも、此神社の山なり。然るをミヅワケヤマとしも訓を付たるは、此神の御名をだに知らざるひがことなり。又今ノ世に、吉野川ちかき丹治村と云ふ所に有る神社を、水分ノ神社とするも、いみしきひがことなり。水分ノ神社は、續紀に峰ノ神と有る如く、かの水分山の峰にして、今子守明神と申す御社なること、疑〓無きを、かの丹治村なるをそれとしたるは、水こもりと云ふ御名につきて、川近かるべき所と心得て、おしあてに當たるものにて、峰ノ神とあるにたがひ、萬葉なる歌のさまにも、かなはざる物をや。さて又今時、此よし野山のすべてのさまを見るに、藏王權現と云ふ物を、此山の主と祀りて此水分、神其餘も、やむことなき神たちも、みなかの藏王堂に屬たる、支社とぞなり給へる。
新字:余国にもこれかれ有、祈年ノ祭又月次祭、祝詞に、水分坐皇神等の前白久吉野宇陀都祁葛木御名者白云云、と見えたり。さてこの水分と申すを、中昔より訛りて、みこまり、みこもりなど申て、吉野のをも、六帖の歌、枕册子などにも、みこもりの神と云ひ、今も子守大明神と申すこれなり。万葉七の巻の歌に、神左振磐根己凝敷三芳野之水分山乎見者悲毛、と詠めるも、此神社の山なり。然るをミヅワケヤマとしも訓を付たるは、此神の御名をだに知らざるひがことなり。又今ノ世に、吉野川ちかき丹治村と云ふ所に有る神社を、水分ノ神社とするも、いみしきひがことなり。水分ノ神社は、続紀に峰ノ神と有る如く、かの水分山の峰にして、今子守明神と申す御社なること、疑〓無きを、かの丹治村なるをそれとしたるは、水こもりと云ふ御名につきて、川近かるべき所と心得て、おしあてに当たるものにて、峰ノ神とあるにたがひ、万葉なる歌のさまにも、かなはざる物をや。さて又今時、此よし野山のすべてのさまを見るに、蔵王権現と云ふ物を、此山の主と祀りて此水分、神其余も、やむことなき神たちも、みなかの蔵王堂に属たる、支社とぞなり給へる。
書き下し
余国にもこれかれ有り、祈年の祭また月次祭の祝詞に、水分に坐す皇神等の前に白さく、吉野・宇陀・都祁・葛木と御名は白して云云、と見えたり。さてこの水分と申すを、中昔より訛りて、みこまり、みこもりなど申して、吉野のをも、六帖の歌、枕冊子などにも、みこもりの神と云い、今も子守大明神と申すこれなり。万葉七の巻の歌に、神さぶる磐根こごしきみよしのの水分山を見れば悲しも、と詠めるも、この神社の山なり。然るをみずわけやまとしも訓を付けたるは、この神の御名をだに知らざるひがことなり。また今の世に、吉野川ちかき丹治村と云う所に有る神社を、水分の神社とするも、いみしきひがことなり。水分の神社は、続紀に峰の神と有る如く、かの水分山の峰にして、今子守明神と申す御社なること、疑い無きを、かの丹治村なるをそれとしたるは、水こもりと云う御名につきて、川近かるべき所と心得て、おしあてに当たるものにて、峰の神とあるにたがい、万葉なる歌のさまにも、かなわざる物をや。さてまた今時、このよし野山のすべてのさまを見るに、蔵王権現と云う物を、この山の主と祀りて、この水分の神その余も、やんごとなき神たちも、みなかの蔵王堂に属きたる、支社とぞなり給える。
現代語訳
ほかの国々にもあちこちにあり、祈年祭や月次祭の祝詞に「水分に鎮座される皇神たちの御前に申し上げる。吉野・宇陀・都祁・葛木と御名を申し上げて」うんぬんと見えている。さてこの「みくまり」を、中ごろの昔から訛って「みこまり」「みこもり」などと申し、吉野の神のことも、『古今和歌六帖』の歌や『枕草子』などにも「みこもりの神」と言っていて、今も子守大明神と申し上げるのがこれである。万葉集巻七の歌に「神さびた岩根のごつごつしたみ吉野の水分山を見ると悲しいことよ」と詠んだのも、この神社の山である。それなのに「みづわけやま」と訓を付けたのは、この神の御名さえ知らない誤りである。また今の世に、吉野川に近い丹治村という所にある神社を水分神社とするのも、ひどい誤りである。水分神社は、続日本紀に「峰の神」とあるように、あの水分山の峰にあって、今子守明神と申し上げる御社であることは疑いないのに、あの丹治村の社をそれとしたのは、「みこもり(水籠もり)」という御名について、川に近い所にあるはずだと思い込み、当て推量で当てたものであって、「峰の神」とあるのに違い、万葉集の歌の様子にも合わないではないか。さてまた今の時勢に、この吉野山全体の有様を見ると、蔵王権現というものをこの山の主として祀り、この水分神もそのほかの尊い神々も、みなあの蔵王堂に属する末社となってしまっておられる。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十二の巻 吉野の水分ノ神社そもそもこの蔵王と云う物は、古よりの正しき神にはあらず。もとより神名式にも入らず。古の正しき書には見えたる事無く、朝廷より祭らせ給いし事無く、ただ法師どものすえたる、仏神ぞかし。すべて中昔より、法師どものしわざとして、いずこもいずこも、かく名ある所々は、みな仏どころとのみ成りて、もとより主と坐す神たちは、仏の僕従のごとなりませるは、いともいとも悲しきわざにぞ有りける。この水分の神社の御事は、おのれ故あるによりて、古の正しき事どもを、殊に世の人にも、広く知らせまほしくて、殊にかくは物しつるなり。
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『玉勝間』十二の巻 吉野の水分ノ神社吉野水分神は、神名帳に、大和の国吉野の郡吉野水分の神社、(大、月次、新嘗)続紀一に、文武天皇二年夏四月、馬を芳野水分峰の神に奉る、雨を祈るなり。続後紀九に、承和七年冬十月、无位水分神に従五位下を授け奉る。三代実録二に、貞観元年正月、京畿(原本二字空白を存す。三代実録には京畿七道諸神とあり)諸国の諸神、階を進め及び新たに叙す、総て二百六十七社、従五位下吉野水分神に正五位下を授け奉る、同年九月云云、大和の国云云、吉野の水分の神云云等に、使いを遣わして幣を奉り、風雨の為に祈る、と見えたり。すべて水分神と申すは、古事記に、伊邪那岐命・伊邪那美命、みとのまぐわいし給いて、既に国を生み竟えて、更に神を生む云云、次に水戸の神、名は速秋津日子神、次に妹速秋津比売神を生む、この速秋津日子・速秋津比売の二神、河海に因りて持ち別けて生める神云云、次に天之水分神、次に国之水分神、分を訓みて久麻理と云う、とあるこれなり。くまりは分配にて、田の為に、水を分り施し給う神にませり。さる故に、祈年・月次の祭にも、この神にもとり分けて、その由の祝詞を申し給うなり。その御社は、神名帳に、大和の国には、この吉野、宇陀の郡宇太の水分の神社(大、月次、新嘗)山の辺の郡都祁の水分の神社、(大、月次、新嘗)葛上の郡葛木の水分の神社、(名神、大、月次、新嘗)これらなり。
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『玉勝間』九の巻 玉津島の神おのれ一とせ、紀の国に物して、若山にしばしありし程、かの国の名所どもの事、しるしたる書ども、これかれと、かしこの人の見せけるを、見たりし中に、岩橋の甚右衛門秀栄と云いし人の、あらわせる物の中に、玉津島の神の考え有り。それにいわく、玉津島を、衣通姫なりと云う事、袋草子、又北畠の親房の卿の、古今の序注に引かれたる、或抄などに見えたれど、拠なき事なり。又近き世に稚日女尊なりと云う説も有れど、それは若の浦と云う地の名によりての、おしあてなるべし。今ひそかに按ずるに、玉津島の神は、神功皇后なるべし。その故は、まず摂津の国住吉の神社四座の中に、第四は、神功皇后なるを、一説に、玉津島と云えり。袖中抄に、故左京亮申されて云う、住吉の神主国基云う。住吉は本三社なり、第四の社は、玉津嶋明神、即ち衣通姫なり。後にいわわれ給う、依て和歌を好み給うと云えり。かく住吉の神主津守の国基の説に、第四の社を、玉津島明神なりと云えるは、玉津島神功皇后なる故に、この伝説有りしなり。然るを即ち衣通姫なりと云えるは、世間の妄説によりて、誤れるなり。さて又玉津嶋を、和歌の神と申すは、もと若の浦の神と云う事なるべし。かの地の名を、若と云えばなり。
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『玉勝間』九の巻 大峰の神仙と云ふ所金葉集、千載集などの詞書に、大峰の神仙と云う所見えたり。金峰山の南に在りて、深禅とも深山とも書くなり。今は神山と書きて、じんぜと云う。里人の云えるは、金峰山より釈迦が嶽まで、十三里、釈迦が嶽より神山まで、六里半ありとなり。峰中の詞に、一里を一となびきと云いて、大峰の峰中をすべて、七十五なびきと云えり。さて俗には、金峰山を、大峰と心得たれど、そは誤りなり。金峰山は御たけにて、大峰と云うは、かの神仙のあたりなり。千載集の詞書にも、みたけより大峰にまかり入りて、神仙と云う所にてと有り、と同じ書にしるせり。
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『玉勝間』一の巻 水茎の岡また水ぐきの岡、近江に有りと云うもよし無きことなり。十に、水ぐきの岡とのみにて、水門と云わざる歌あるは、前後みな大和の地名を詠める歌の中なれば、筑前には有らで、大和なるべし。高市の郡飛鳥の岡を、今も岡と云い、岡寺と云うも有れば、この所ならむか。十二にも見えたるは、いづくにも有れ岡にて、地名にはあらざるか。また古今集大歌所の歌、水ぐきぶりに、みづぐきの岡の屋がたと詠めるは、岡屋県にて、和名抄に、山城の国宇治の郡岡屋乎加乃也と有る所なり。後に岡の屋の関白と申ししがおわせしも、この地名なり。県をがたと云うは、山県・片県などの如し。然るに是れをも、水ぐきの岡と云う地名と思い、やがたを屋形と、心得たるは、みなひがことなり。屋形と云う物は、船などにこそ有れ、家を屋形と云うことは、古には無き事なるをや。さて水ぐきぶりと云うは、楽府にて云う称にて、その歌のはじめの詞を取りてつけたる物にて、地名に限れる事には有らず。この某ぶりと云う名の事は、古事記伝に、ひなぶりの下に委しく云えり。さてまたせうそこ書をみづぐきと云うは、玉つさと云うと同じくて、これもみづみづしき木と云う事なり。
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『玉勝間』九の巻 妹背山万葉に、紀の国と詠みたれども、それは名手の川中なる瀬の山を、まがえて誤れるかと云い、かの貝原なども、吉野なるを、それなりと云えるは、みな後の歌にのみなずみて、万葉をよく見ざる、ひがことなり。万葉のおもむき、紀の国なる事は、何の疑いも無し。今も吉野に、それとて有るは、古今集の歌につきて、後に似つかわしき山を、それと名附けたる物なり。そもそも古今集なる、ながれてはの歌は、かの万葉七の、せの山にただにむかえる云云、うち橋わたす、又同巻に、きの川のべの妹と背の山、など有る歌によりて、妹背の山の中に落つるとは云い、よしやと重ねん料に、紀の川を、同じ川なれば、吉野の川とも詠みなせるものなり。又その歌に、よし野の川と云い、落つるとも有るから、六帖なるは、その川を、滝とも唱え伝えたるなるべし。
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