玉勝間 / 十一の巻 万葉の歌に安礼衝と云へる詞
萬葉一の卷に、藤原之大宮都加倍安禮衝哉處女之友者之吉召賀聞、こはまづ哉ノ字は、武の誤なり。此字相誤れる例、これかれあり。さて結ノ句は、田中ノ道麻呂が、乏吉呂賀聞を誤れるなりと云へるよろし。又六の卷に、長歌に云云、八千年爾安禮衝之乍天下所知食跡云云、この二の安禮衝と云ふ言は、安禮は、類聚國史に、天長八年十二月、替賀茂齋内親王、其辭曰云云、皇大神乃阿禮乎止賣爾、內親王齡毛云云、代爾、時子女王乎ト食定弖、進狀乎云云。三代實錄卅にも、貞觀十九年二月廿四日、賀茂ノ神社齋内親王を定め給へる告文に、敦子內親王乎ト定天、阿禮乎度女爾、進狀乎云云とあるは、賀茂の齋王を、阿禮乎止女と申せるにて、此阿禮と同くて、奉仕るを云へる意なり。賀茂の祭を御阿禮と云ふも、奉仕る意なるべし、衝は神功紀に、撞賢木嚴之御魂とある撞と同くて、伊都伎の伊を省ける言なり。されば安禮衝武處女とは、藤原ノ宮にして、持統天皇に奉仕いつきまつる女官を云へるなり。かの阿禮乎止女と思ひ合すべし。友はともがらなり、乏はうらやましきなり。然るに此言を、生繼と解たるは、いみしきひがことなり。
新字:万葉一の巻に、藤原之大宮都加倍安礼衝哉処女之友者之吉召賀聞、こはまづ哉ノ字は、武の誤なり。此字相誤れる例、これかれあり。さて結ノ句は、田中ノ道麻呂が、乏吉呂賀聞を誤れるなりと云へるよろし。又六の巻に、長歌に云云、八千年爾安礼衝之乍天下所知食跡云云、この二の安礼衝と云ふ言は、安礼は、類聚国史に、天長八年十二月、替賀茂斎内親王、其辞曰云云、皇大神乃阿礼乎止売爾、内親王齢毛云云、代爾、時子女王乎ト食定弖、進状乎云云。三代実録卅にも、貞観十九年二月廿四日、賀茂ノ神社斎内親王を定め給へる告文に、敦子内親王乎ト定天、阿礼乎度女爾、進状乎云云とあるは、賀茂の斎王を、阿礼乎止女と申せるにて、此阿礼と同くて、奉仕るを云へる意なり。賀茂の祭を御阿礼と云ふも、奉仕る意なるべし、衝は神功紀に、撞賢木厳之御魂とある撞と同くて、伊都伎の伊を省ける言なり。されば安礼衝武処女とは、藤原ノ宮にして、持統天皇に奉仕いつきまつる女官を云へるなり。かの阿礼乎止女と思ひ合すべし。友はともがらなり、乏はうらやましきなり。然るに此言を、生継と解たるは、いみしきひがことなり。
書き下し
万葉一の巻に、藤原之大宮都加倍安礼衝哉処女之友者之吉召賀聞、こはまず哉の字は、武の誤りなり。この字相誤れる例、これかれあり。さて結の句は、田中の道麻呂が、乏吉呂賀聞を誤れるなりと云えるよろし。また六の巻に、長歌に云云、八千年爾安礼衝之乍天下所知食跡云云、この二つの安礼衝と云う言は、安礼は、類聚国史に、天長八年十二月、賀茂の斎内親王を替う、その辞に曰く云云、皇大神の阿礼乎止売に、内親王齢も云云、代に、時子女王をト食い定めて、進る状を云云。三代実録卅にも、貞観十九年二月廿四日、賀茂の神社の斎内親王を定め給える告文に、敦子内親王をト定めて、阿礼乎度女に、進る状を云云とあるは、賀茂の斎王を、阿礼乎止女と申せるにて、この阿礼と同じくて、奉仕るを云える意なり。賀茂の祭を御阿礼と云うも、奉仕る意なるべし、衝は神功紀に、撞賢木厳之御魂とある撞と同じくて、伊都伎の伊を省ける言なり。されば安礼衝武処女とは、藤原の宮にして、持統天皇に奉仕いつきまつる女官を云えるなり。かの阿礼乎止女と思い合わすべし。友はともがらなり、乏はうらやましきなり。然るにこの言を、生継と解きたるは、いみじきひがことなり。
現代語訳
『万葉集』巻一に「藤原之大宮都加倍安礼衝哉処女之友者之吉召賀聞」とある。これはまず「哉」の字は「武」の誤りである。この二字を取り違えた例はあちこちにある。さて結句は、田中道麻呂が「乏吉呂賀聞(ともしきろかも)」を誤ったものだと言ったのがよい。また巻六の長歌に「……八千年爾安礼衝之乍天下所知食跡……」とある。この二つの「安礼衝」という言葉について言えば、「安礼」は、『類聚国史』に、天長八年(831)十二月、賀茂の斎内親王を替えた時、その辞に「……皇大神の阿礼乎止売(あれおとめ)に、内親王の齢も……代わりに、時子女王を占って定めて、差し上げる次第を……」とある。『三代実録』巻三十にも、貞観十九年(877)二月二十四日、賀茂神社の斎内親王をお定めになった告文に「敦子内親王を占って定めて、阿礼乎度女に差し上げる次第を……」とあるのは、賀茂の斎王を「阿礼乎止女」と申したもので、この「阿礼」と同じく、お仕え申し上げることを言った意味である。賀茂の祭を「御阿礼(みあれ)」と言うのも、お仕え申し上げる意味であろう。「衝」は、『日本書紀』神功皇后紀に「撞賢木厳之御魂」とある「撞」と同じで、「いつき(斎き)」の「い」を省いた言葉である。だから「安礼衝武処女(あれつかむおとめ)」とは、藤原の宮で持統天皇にお仕えし斎き奉る女官を言ったのである。あの「阿礼乎止女」と考え合わせるべきである。「友」は仲間であり、「乏(ともし)」はうらやましいということである。それなのに、この言葉を「生継(あれつぐ)」と解いたのは、ひどい誤りである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十一の巻 万葉の歌に安礼衝と云へる詞生継と云うこと、この歌に由なく、かつ継と衝とは、久の清濁も異なるを、いかでか借り用いむ。さて六の巻なるは、天下所知食と続きたれば、この詞、天皇の御うえの事を申せるさまなれども、一の巻なるを思うに、天皇の御うえの事に申すべき言にあらず。必ず宮づかえする人のうえを云える言なれば、これも、八千年までも、百官奉仕いつきまつりて、天下をしろしめさむ、と云う意に詠めるにこそ。衝之は都伎を延べたるなり。またおもうに、之の字は、兄または衣などを誤れるにて、あれつかえにもや有らむ。つかえはつかれなり。もし然らば、天皇の御うえにて、百官にあれいつかれ給いてと云う意なり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井四つには、斎内親王の宮仕えし給うことならば、いつきのみことも、ひめみことも何とも、其御事と聞こゆる詞あるべきに、さること一言も無くて、ゆくりなく大宮づかえと云うべき物かは。唯だ天皇に仕え奉る女官たちなる事、論無き物をや。五つには、ももしきの大宮人とは、天皇に仕え奉る人とこそ聞こえたれ。たとい本は大内より来し人なればとても、今斎王に仕え奉り居る人を、うちまかせて然か云わん事はいかが。六つには、もし斎王の大御神に仕え給う事を詠める歌ならむには、反歌に御井の事のみを詠めるは、何のよしぞや。七つには、かの鈴鹿郡なる山の辺の事を、俗説なりとて、やぶられたるもあたらず。俗説とは、赤人の跡と云う事なり。赤人の事は、山辺という地の名によりて、附会したる物なれば、其説こそ俗説なれ、それをとり捨てたらむに、何の俗なる事か有らん。そもそもしか赤人の事を云いよせたるも、もと山辺という所、又古き清水のある故なれば、それもかえりて、古き跡なる証とこそすべけれ。又かの山辺村に、古え倭姫の命の宮有りしと云うも、偽なりとて、そのよしを論ぜられたるもあたらず。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井倭姫の命の宮の事は、今里人の云い伝えは無けれども、もしさる説の有らば、それはた行宮によしあり。持統天皇も女帝にましませば、其行宮を、倭姫の命の宮と、誤り伝えたりとせば、これ又かえりて、かの行宮の証とすべし。八つには、持統天皇の伊勢の行幸は、書紀を考うるに、六年三月六日辛未に、京をたたせ給いて、同月廿日乙酉に、還らせ給えり。然るを、此行幸は五月なりと云われたるも誤りなり。そは紀に、同年五月乙丑朔庚午、阿胡の行宮に御しし時贄を進りし者に云云、とあるを見誤りて、万葉の裏書に、五月云云と引けるを、ふと見て、五月とは思い誤られたるなり。かの紀の文は、三月の行幸の時に、阿胡の行宮にて、贄をたてまつりし者を、五月に賞せられたる事をしるせるなり、かの紀をひらき見て知るべし。九つには、万葉一の巻に、山のべの御井を見がてり云云の歌は、長田王、伊勢の斎宮へ、おおやけ事にて下られたるついでに、名高き所なれば、此御井をも見に立ちよられたるなり。さればこれも鈴鹿の郡は路次にあらず遠しとても、妨無し。大御神の宮の中ならむには、御井を見がてら物せむ事、いかがとぞ思う。
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『玉勝間』六の巻 ありきぬ万葉十四の巻に、安利伎奴乃、佐恵佐恵(○原本左左悪恵)之豆美、十五の巻に、安里伎奴能、安里弖能知爾毛、十六の巻に、蟻衣之宝之子等など有る、ありきぬは、鮮やかなる衣なり。ありとは、あざやかなるを云う。あざやかと云う言も、即ちありざやかなり。また俗言に、物のあざやかに見ゆるを、ありありと見ゆと云うも是なり。また月に有明と云うも、空に月の在りて、夜の明くる意にはあらず。夜の明けがたには、月の影の、殊にあざやかに見ゆる物なればあざやかにて明くるよしにて、ありあけの月とは云うなり。書紀の欽明の御巻に、髴氈をありかもと訓めるも、鮮やかなるよしなり。こは後漢書に、天竺国に細布、好能氈有り、と見えたり。さて右の万葉十四の巻なる歌、四の巻には、珠衣乃と有るを、師はそれをも、ありきぬと訓みて、ありきぬを、珠の事に解かれたれども、四の巻なるは、たまきぬにて、裳に玉裳と云うたぐいなり。また十六の巻、宝の枕詞に云えるは、鮮やかなるよき衣を、珍でてやむことなくする物をば、たからとする意に続けたるなり。衣服にまれ何にまれ、たからと云う、常の事なり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井そのよしを云わんに、数数あり、一つには、まず師の字と鈴の字とは、楷書はさらにも云わず、草書も形似ざれば、誤るべきに有らず。二つにはもし五十鈴の原ならんには、さく鈴のとも、さくくしろとも、古き枕詞の有るをおきて、山のほとりならむからに、山のべのと、させるよしも無き事を云うべきにあらず。一の巻なる歌には、山のべの御井を見がてりとも有れば、山のべは必ず地の名なるを、五十鈴の原のあたりには、古よりさる地の名あること無し。すべてかの神宮のあたりに古き所は、さしもあらぬだに、その所は失うと云えども、さすがに名は残りて、かしこの書どもに見えざるは無きを、これはさばかり古く、名高き所なるに、見えざるべきよう無し。三つには、かの長歌、もし大御神の宮づかえの事を詠めるならば、必ずその大御神の鎮り座す事のよしなどをこそ云うべきに、その大御神の御事は、一言も云わずして、にわかに大宮づかえと云うべきよし無し。始めより日の御子の御食つ国と云いて、大宮づかえと云えるは、天皇の宮なること疑い無く、其うえ島の名高しと云うまで、行宮より見渡したるけしきをもて云えるさま、いちじるし。
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『玉勝間』八の巻 万葉集に見えたる和気と云ふ称皇子たちなどの御名にある、某別、又姓のかばねの、某の別などの別には有らで、万葉集の歌に、一種の和気と云える称有り。そを人皆、みずからひげして云う称とのみ心得たるは、くわしからず。常に打まかせてひげして、僕など云うとは異にして、これは、人より我をさして云う詞をもうけて、そを其人に云い遣るとて、殊さらに我を賤きさまに云いなす称なり。さるはすこしたわぶれたる物にて、まことのひげには有らず。四の巻に、わが君は和気をば死ねと思えかも云云、これ人の我を死ねと思うと云う事を、もうけて、云い遣るなり。さて我を賤しめて云うから、人をば吾妹子と云うべきを、殊更にあがめたるさまに、わが君と云えるも、少したわぶれなり。同じ巻に、黒木とりかやもかりつつつかえめどいそしき和気とほめむともあらず、これも同じ事にて、人の我をいそしき者と云わむ詞を、もうけて云いやるなり。
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