玉勝間 / 十一の巻 皇国の学者のあやしき癖
斯かればもろこしの國にて、その譯字によりて、かの國國の言を覺えたらむは、皆誤りてぞ有べきを、皇國の假字は他國の音を譯すに、いと便りよければ、をさをさたがふ事無し。されば皇國にては、かのもろこしの譯字をば、みな廢て、此方の譯をのみ用ふべきことなり。それも片假字は、しどけなくて、漢文などには書キがたくは、眞假字を用ふべし。眞假字とは、いはゆる萬葉假字にて、伊呂波爾保閇登とやうに書くを云ふ。すべてあらたに此假字を用ひて、かの五つの洲の名の亞細亞をば阿自夜、歐羅巴をば要呂波とやうに、萬の言を皆斯くさまに譯しなば、いとよろしかるべきに、よろしく便りよき、己が國のことを用ひずして、かのもろこしの、物遠くたよりあしく、あたらぬ譯字を、大事と守りて用るは、いといとつたなく愚なる事にて、これはた例の、他國のことに從ふをかしこきわざと心得たる、あやしき學者のくせなりけり。
新字:斯かればもろこしの国にて、その訳字によりて、かの国国の言を覚えたらむは、皆誤りてぞ有べきを、皇国の仮字は他国の音を訳すに、いと便りよければ、をさをさたがふ事無し。されば皇国にては、かのもろこしの訳字をば、みな廃て、此方の訳をのみ用ふべきことなり。それも片仮字は、しどけなくて、漢文などには書キがたくは、真仮字を用ふべし。真仮字とは、いはゆる万葉仮字にて、伊呂波爾保閇登とやうに書くを云ふ。すべてあらたに此仮字を用ひて、かの五つの洲の名の亜細亜をば阿自夜、欧羅巴をば要呂波とやうに、万の言を皆斯くさまに訳しなば、いとよろしかるべきに、よろしく便りよき、己が国のことを用ひずして、かのもろこしの、物遠くたよりあしく、あたらぬ訳字を、大事と守りて用るは、いといとつたなく愚なる事にて、これはた例の、他国のことに従ふをかしこきわざと心得たる、あやしき学者のくせなりけり。
書き下し
かかればもろこしの国にて、その訳字によりて、かの国々の言を覚えたらむは、皆誤りてぞ有るべきを、皇国の仮字は他国の音を訳すに、いと便りよければ、おさおさたがう事無し。されば皇国にては、かのもろこしの訳字をば、みな廃てて、この方の訳をのみ用うべきことなり。それも片仮字は、しどけなくて、漢文などには書きがたくは、真仮字を用うべし。真仮字とは、いわゆる万葉仮字にて、伊呂波爾保閇登とように書くを云う。すべてあらたにこの仮字を用いて、かの五つの洲の名の亜細亜をば阿自夜、欧羅巴をば要呂波とように、万の言を皆かくさまに訳しなば、いとよろしかるべきに、よろしく便りよき、己が国のことを用いずして、かのもろこしの、物遠くたよりあしく、あたらぬ訳字を、大事と守りて用うるは、いといとつたなく愚かなる事にて、これはた例の、他国のことに従うをかしこきわざと心得たる、あやしき学者のくせなりけり。
現代語訳
そうであれば、中国でその音訳の字によって、あの国々の言葉を覚えたとしたら、みな誤っているに違いないが、わが国の仮名は他国の音を写すのにたいへん都合がよいので、ほとんど違うことがない。だからわが国では、あの中国の音訳の字はすべて廃して、こちらの写し方だけを用いるべきである。それも片仮名はくだけていて、漢文などには書きにくいというなら、真仮名を用いるべきである。真仮名とは、いわゆる万葉仮名で、「伊呂波爾保閇登」のように書くのをいう。すべて新たにこの仮名を用いて、あの五つの州の名の「亜細亜」を「阿自夜」、「欧羅巴」を「要呂波」というように、あらゆる言葉をみなこのように写したならば、たいへんよいであろうに、よくて都合のよい自分の国のやり方を用いずに、あの中国の、縁遠くて都合が悪く、当たらない音訳の字を大事と守って用いるのは、まことに拙く愚かなことで、これもまた例の、他国のことに従うのを賢いことと心得ている、妙な学者の癖なのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十一の巻 皇国の学者のあやしき癖こはもろこしの国の名のみにもあらず、よろずにわたれる事ぞかし。なおこのたぐいなる事を、一つ二つ云わば、遥かなる西の国々にてこの大地にあらゆる国々をすべて、五つに分けて、おのおの名をつけたる中に皇国もろこし天竺などは、亜細亜とか、つけたる洲の内なりとぞ。さるはしか五つに分けたるも、つけたる名どもも、もとより他国のことにて、殊に近き世に聞こえきつる事なるを、神代より皇国に伝わりたる説のごと、うちまかせて従いよるは、これはた他の国の事と云えば、たっとみ信ずる、例のあやしき癖にぞ有りける。またもろこしの国の音は、他国の音を訳すに、いと便り悪しくて、古に天竺の国の仏ぶみを訳せるにも、多くはまさしくは当たりがたかりし事なるを、近く明の世の程などに、かの遥かなる西の国々の名ども、またその万の詞を訳せるどもを見るに、その字の音、十に七八は、かの言にあたらず、いたくたがえるが多ければ、仮字づけなくては、その言しりがたく、訳字はいたずらなるが如し。かく云うは、皇国の漢音呉音によりてにはあらず、近き世の唐音と云う音によりて云うなり。
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『玉勝間』十四の巻 仮字皇国の言を、古書どもに、漢文ざまに書けるは、仮字と云うもの無くして、せむかたなく止む事を得ざる故なり。今はかなと云う物ありて、自由に書かるるに、それを捨てて、不自由なる漢文を以て、書かむとするはいかなるひが心得ぞや。
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『玉勝間』十一の巻 皇国の学者のあやしき癖すべて何事も、おのが国の事にこそ従うべけれ、そを捨てて、他の国の事に従うべきにはあらざるを、かえりて他の国の事に従うを、かしこきわざとして、皇国のことに従うをば、つたなきわざと心得ためるは、皇国の学者の、あやしき癖なり。はかなき事ながらたとえば、もろこしの国を、もろこしともからとも云い、漢文には、漢とも唐とも書くぞ、皇国の事なるを、然か云うをば拙しとして、中華中国など云うを、かしこき事と心得たるひがことは、馭戎慨言にくわしく論いたれば、今さらに云わず。また中華中国などは、云うまじき事と、物のこころをわきまえたる人はた、なお漢もしは唐など云うをば、つたなしとや思うらむ、震旦支那など書くたぐいもあなるは、中華中国など云うにくらぶれば、よろしけれども、震旦支那などは、西の方なる国より、附けたる名なれば、そもなおおのが国の事を捨てて人の国の事に従うにぞ有りける。もし漢と云い唐とも云わむを、おかしからずと思わば、漢文にも、諸越とも、毛虜胡鴟とも書かむに、何事かあらむ。かく己が国の事をたてたらむこそは、雄々しき文ならめ。他の国のことにへつらいよりて書かむは、めめしく拙きわざにぞ有りける。
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『玉勝間』八の巻 かんなまんな仮字をカンナとは云うべし、真字をマンナと云えるは、ひがことなり。仮字は、もとカリナなれば、そのリを音便にンと云いて、カンナとは云うなるを、真字は、マンナと云うべきことわり無し、そはカンナにならいて、ゆくりなく、同じさまにンを添えたる物なり。
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『玉勝間』六の巻 かなづかひ仮字づかいは、近き世明らかになりて、古学するかぎりの人は、心すめれば、おさおさあやまる事無きを、宣長が弟子どもの、常に歌書きつらねて見するを見るに、誤りのみ多かるは、またいかにぞや。そもそもてにをはのととのえなどは、うい学びの力及ばぬふし有る物なれば、あやまるも、罪ゆるさるるを、仮字づかいは、今は正濫抄もしは古言梯などをだに見ば、むげに物しらぬわらわべも、いとよくわきまうべき業なるを、なおとりはずして、書きひがむるは、かえすがえすいかにぞや。これはた心とどめず、またひたぶるに学びおやにすがりて、たがえらむは、直さるべしと、思いおこたりて、おのが力入れざるからの業にし有れば、かつは憎くさえぞ覚ゆる。しか人にのみすがりたらんには、ついに仮字づかいをば、知る世無くてぞ止みぬべかりける。さればイヰエヱオヲを、またはヒフヘホワヰウヱヲを、またしちすつの濁音など、いささかも疑わしくおぼえむ仮字は、わずらわしくとも、それしるせる書を、書かむたび毎にひらき見て、たしかにうかべずは、止むべきに有らず。何わざも、己が力を入れずては、為得る事かたかるべきわざぞ。人の子の、年たくるまで、親の手はなるる事知らざらむは、いといと云うかいなからじやは。
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うひ山ぶみ・注[チ]道をしらんためには、殊に古事記をさき後世のごとく、好みて漢文に書るにはあらず、さて歌は、殊に詞にあやをなして、一もじもたがへては、かなはぬ物なる故に、古書にもこれをば、別に仮字に書り、それも真仮字也、又祝詞宣命なども、詞をとゝのへかざりたる物にて、漢文ざまには書がたければ、これも別に書法有し也、然るを後世に至りては、片仮字平仮字といふ物あれば、万の事、皇国の語のまゝに、いかやうにも自由に、物はかゝるゝことなれば、古ヘのやうに、物を漢文に書べきことにはあらず、便よく正しき方をすてて、正しからず不便なるかたを用るは、いと愚也、上件の子細をわきまへざる人、古書のみな漢文なるを見て、今も物は漢文に書クをよきことと心得たるは、ひがこと也、然るに諸家の記録其外、つねの文書消息文などのたぐひは、なほ後世までも、みな漢文ざまに書クならひにて、これを男もじ男ぶみといひ、いろは仮字をば女もじ、仮字文をば、女ぶみとしもいふなるは、男はおのづからかの古ヘのならひのまゝに為来り、女は便にまかせて、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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