玉勝間 / 十一の巻 舞楽の伝はり来つる次第
同書ニ云〃、左の舞傳來れる次第、尤可存知者也。昔人王廿代允恭天皇の御時、高麗、舞人此ノ朝に渡れり。然れどももてなし傳ふる人なくて、空しくすたれて、第卅代推古天皇の御時、卽位廿年正月、百濟國の聖明王、舞ノ師味摩子を渡されしかば、聖德太子あまねく天下に勅をいたして、妓樂舞を始として、鼓をうたしめ、自餘の舞樂どもを習はしむ。舞樂此時より始れり。第四十五代奈良ノ御門(聖武)の御時此道さかりに興させられしかども、さして其氏と定めおかれず、雅樂玄蕃等の寮に傳へて、勅要をつとめき。其後尾張ノ濱主とて、舞樂の大祖ありき。五十四代仁明天皇の御宇、承和三年四月に、遣唐使に付て、唐朝に渡りて、本舞の紕繆を直し、龍笛の底をきはめて、同六年八月に歸朝の後、兩道ことに盛りなり。濱主よりかみ、七八代ばかり有けれども、日記ほのかなる故に、其名をしるしがたし。かの濱主の弟子々々々、其名を失へり。その弟子大戶ノ眞繩、其弟子大友ノ信正、其弟子狛ノ光高にて侍る。先祖衆行も、濱主の聟たりしかば、大略舞曲をきはめしかども、此信正又當道に長ぜりし故に、又彼ノ流をうけたりき。
新字:同書ニ云〃、左の舞伝来れる次第、尤可存知者也。昔人王廿代允恭天皇の御時、高麗、舞人此ノ朝に渡れり。然れどももてなし伝ふる人なくて、空しくすたれて、第卅代推古天皇の御時、即位廿年正月、百済国の聖明王、舞ノ師味摩子を渡されしかば、聖徳太子あまねく天下に勅をいたして、妓楽舞を始として、鼓をうたしめ、自余の舞楽どもを習はしむ。舞楽此時より始れり。第四十五代奈良ノ御門(聖武)の御時此道さかりに興させられしかども、さして其氏と定めおかれず、雅楽玄蕃等の寮に伝へて、勅要をつとめき。其後尾張ノ浜主とて、舞楽の大祖ありき。五十四代仁明天皇の御宇、承和三年四月に、遣唐使に付て、唐朝に渡りて、本舞の紕繆を直し、竜笛の底をきはめて、同六年八月に帰朝の後、両道ことに盛りなり。浜主よりかみ、七八代ばかり有けれども、日記ほのかなる故に、其名をしるしがたし。かの浜主の弟子々々々、其名を失へり。その弟子大戸ノ真縄、其弟子大友ノ信正、其弟子狛ノ光高にて侍る。先祖衆行も、浜主の婿たりしかば、大略舞曲をきはめしかども、此信正又当道に長ぜりし故に、又彼ノ流をうけたりき。
書き下し
同書に云わく、左の舞伝え来たれる次第、もっとも存知すべき者なり。昔人王廿代允恭天皇の御時、高麗の舞人この朝に渡れり。然れどももてなし伝うる人なくて、空しくすたれて、第卅代推古天皇の御時、即位廿年正月、百済国の聖明王、舞の師味摩子を渡されしかば、聖徳太子あまねく天下に勅をいたして、妓楽の舞を始めとして、鼓をうたしめ、自余の舞楽どもを習わしむ。舞楽この時より始まれり。第四十五代奈良の御門(聖武)の御時この道さかりに興させられしかども、さしてその氏と定めおかれず、雅楽玄蕃等の寮に伝えて、勅要をつとめき。その後尾張の浜主とて、舞楽の大祖ありき。五十四代仁明天皇の御宇、承和三年四月に、遣唐使に付きて、唐朝に渡りて、本舞の紕繆を直し、龍笛の底をきわめて、同六年八月に帰朝の後、両道ことに盛りなり。浜主よりかみ、七八代ばかり有りけれども、日記ほのかなる故に、その名をしるしがたし。かの浜主の弟子弟子、その名を失えり。その弟子大戸の真縄、その弟子大友の信正、その弟子狛の光高にて侍る。先祖衆行も、浜主の聟たりしかば、大略舞曲をきわめしかども、この信正また当道に長ぜりし故に、またかの流れをうけたりき。
現代語訳
同じ書にこうある。左方の舞が伝わって来た次第は、ぜひ知っておくべきことである。昔、人の世の二十代允恭天皇の御代に、高麗の舞人がわが国に渡って来た。しかし大切に扱って伝える人がなく、むなしく廃れてしまった。第三十代推古天皇の御代、即位二十年の正月に、百済国の聖明王が舞の師である味摩子(味摩之)を渡らせたので、聖徳太子が広く天下に勅命を下して、伎楽の舞をはじめとして鼓を打たせ、その他の舞楽も習わせた。舞楽はこの時から始まった。第四十五代奈良の帝(聖武天皇)の御代に、この道が盛んに興されたけれども、特にどの氏が担うと定め置かれることはなく、雅楽寮・玄蕃寮などに伝えて、勅命による用を務めた。その後、尾張浜主という舞楽の大祖が現れた。五十四代仁明天皇の御代、承和三年(836)四月に遣唐使に従って唐に渡り、本来の舞の誤りを正し、龍笛の奥義を究めて、同六年八月に帰国した後、舞と笛の両道がことに盛んになった。浜主より前にも七、八代ほどの伝承があったが、記録がはっきりしないので、その名を記すことができない。浜主の弟子たちも、その名が失われている。その(系統の)弟子が大戸真縄、その弟子が大友信正、その弟子が狛光高である。先祖の衆行も浜主の婿であったので、おおよそ舞曲を究めていたが、この信正がまたこの道に長じていたので、改めてその流れを受けたのであった。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十一の巻 舞楽の伝はり来つる次第すなわち六十六代一条院の御時、寛弘七年、左方の一者に補せられにしかば、公私の諸役を奉行しき。およそ嫡家〓の光近を、野田の判官と云い、三男の流れ則近を、辻子の判官と云う。よってかの両人の流れを呼んで、野田辻子と申すなり。
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『玉勝間』三の巻 陵王の舞ノ手の名体源抄と云う、楽の事をこまかにしるしたる書に、羅陵王云云、乱序一帖、此の内に各別の名有り、日掻返手、飜手(ヒルガエステ)、青蛉返手、甬走手、又膝巻、小膝巻云云、と見えたり。陵王の舞の手の名どもなり。此中に、甬走とある手に、仮字附け無きは、甬は踊にて、おどりはしる手か、たずぬべし。
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『玉勝間』十一の巻 箏の皇朝に伝はれる事同書に、箏は、我が朝に伝わることは、仁明天皇の御時に、遣唐使の准判官、掃部頭貞敏、簾承武が娘に伝わると云う、或いは内教坊の妓女、命婦石川の色子、筑紫の彦の山にして、唐人にこれを伝えるとも見えたりと云えり。
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風姿花伝・序夫れ申楽延年の事、態その源を尋ぬるに、或は仏在所よりおこり、或は神代より伝はるといへども、時移り代へだたりぬれば、その風を学ぶ力及びがたし。近比万人のもてあそぶところは、推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝に仰せて、且は天下安全の為、且は諸人快楽の為、六十六番の遊宴をなして、申楽と号せしより以来、代々の人、風月の景を仮りて、このあそびの中だちとせり。その後、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日日吉の神職たり。仍て和州江州の輩、両社の神事に従ふこと、今に盛なり。されば、古を学び新を賞する中にも、全く風流をよこしまにすることなかれ。ただ言葉賤しからずして、姿幽玄ならんを承けたる達人とは申すべきか。先づこの道にいたらんと思はん者は、非道を行ずべからず。但し歌道は風月延年のかざりなれば、尤もこれを用ふべし。凡そ若年より以来、見聞き及ぶところの稽古の条々、大概注し置くところなり。一、好色、博奕、大酒、三重戒、これ古人の掟なり。一、稽古は強かれ、諍識はなかれとなり。
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風姿花伝・第四 神祇一 日本国においては、欽明大皇の御宇に、大和国泊瀬の河に洪水の折節、河上より一つの壺流れくだる。三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲客この壺をとる。中に緑子ありかたち柔和にして玉のごとし。これ降人なるが故に、内裏に奏聞す。その夜御門の御夢に、緑子のいはく、我はこれ大国秦の始皇の再誕なり、日域に機縁ありて今現在すと云々。御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。成人にしたがひて才智人に超えて、年十五にて大臣の位にのぼる。秦の姓をくださる。秦といふ文字はたなるが故に、秦河勝なり。上宮太子天下少し障ありしとき、神代仏在所の吉例に任せて、六十六番の物まねをかの河勝におほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝にあたへたまふ。橘の内裏の紫宸殿にてこれを勤む。天下治まり国しづかなり。上宮太子末代の為、神楽なりしを、神といふ字の偏をのけて旁を残し給ふ。これ日よみの申なるが故に申楽と名付く。すなはちたのしみを申によりてなり。または神楽を分くればなり。かの河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子に仕へたてまつり、この芸をば子孫に伝へて、化人跡を止めぬによりて、摂津国難波の浦よりうつぼ船にのりて、風にまかせて西海に出づ。播磨国坂越の浦につく。浦人舟をあけて見れば、形人間に変れり。諸人に憑き祟りて奇瑞をなす。すなはち神と崇めて国豊なり。大きに荒るると書きて、大荒大明神と名付く。今の代に霊験あらたかなり。本地毘沙門天王にてまします。上宮太子守屋の逆臣をたいらげ給ひしときも、かの河勝が神通方便の手にかかりて、守屋は失せぬと云々。
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『玉勝間』十一の巻 堀川ノ天皇神楽を多ノ近方に伝へさせ給へる事神楽の曲は、すでに絶えぬべかりける事を、御門の御口より給いける。めでたかりける事なり。(私に云う、堀川院御宸筆の神楽譜、多近方に給いて、今多朝臣久時、同じく子久泰まで所持し畢んぬ。)
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