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玉勝間 / 十一の巻 舞楽の伝はり来つる次第

すなはち六十六代一條院の御時、寛弘七年、左方ノ一者に補せられにしかば、公私の諸役を奉行しき。凡嫡家〓ノ光近を、野田ノ判官と云ひ、三男の流則近を、辻子ノ判官と云ふ。仍テかの兩人の流れを呼で、野田辻子と申すなり。

新字:すなはち六十六代一条院の御時、寛弘七年、左方ノ一者に補せられにしかば、公私の諸役を奉行しき。凡嫡家〓ノ光近を、野田ノ判官と云ひ、三男の流則近を、辻子ノ判官と云ふ。仍テかの両人の流れを呼で、野田辻子と申すなり。

書き下し

すなわち六十六代一条院の御時、寛弘七年、左方の一者に補せられにしかば、公私の諸役を奉行しき。およそ嫡家〓の光近を、野田の判官と云い、三男の流れ則近を、辻子の判官と云う。よってかの両人の流れを呼んで、野田辻子と申すなり。

現代語訳

すなわち(狛光高は)六十六代一条院の御代、寛弘七年(1010)に左方の一者(筆頭の舞人)に任じられたので、朝廷の公の役も私の役も取り仕切った。およそ嫡流の光近を野田判官といい、三男の流れの則近を辻子判官という。そこで、この二人の流れを呼んで野田・辻子と申すのである。

解説

前段の左方舞楽の系譜の続きで、狛光高が一条天皇の寛弘七年に左方の「一者」、すなわち舞人の筆頭に任じられ、宮中の舞楽の役を担ったことを記す。その後、狛氏は嫡流の光近の系統を「野田」、三男則近の系統を「辻子」と呼ぶ二つの流れに分かれたという。住まいの地名などを家の通称とするのは、公家や楽家によく見られる習いである。宣長がここまで細かく楽家の分流を書き留めたのは、雅楽が家ごとに受け継がれる「家の芸」であり、その系譜を知ることが芸の正統を知ることでもあったからであろう。一つの芸が枝分かれしながら続いていくさまは、学問の流派の分かれ方ともよく似ている。系譜を辿ることは、伝統の広がりを地図にする作業でもある。

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