政談 / 能の事
能と云ふもの費へ夥しきもの也、然れとも當時武家の儀式のやふに成りたれは、外にかへものなくては已むへきやうなし、室町家にても御笙はしめと云ふことありて、其始めは樂を用ひられたり、東山殿より始まりたることなり、東山殿より室町家は衰へたることなれは、衰へたる世のことを武家の法として、今の御代まても儀式のやうに用ひらること如何あるへきや、猿樂の家にて聖德太子より起ると云ふは大なるひがことなり、聖德太子のときより猿樂の先祖舞曲のことを掌りたることを混して猿樂の始まりと云ふなり、南都の樂人狛氏のともがら皆な聖德太子より以來の樂人にて、法隆寺の近所には樂人の苗字の地名皆々これあり、今春か家に天よりふりたる海士の面と云ふものあり、家の寶とす、是れは能の海士にあらす、樂の安摩なり、其面は紙をいためて拵らへたるものなれは、天よりふりたること左もあるへし、能の面は如何にしても天よりは降るましきなり、されは猿樂のもとは樂人の家より分れたるものと見えたり、
新字:能と云ふもの費へ夥しきもの也、然れとも当時武家の儀式のやふに成りたれは、外にかへものなくては已むへきやうなし、室町家にても御笙はしめと云ふことありて、其始めは楽を用ひられたり、東山殿より始まりたることなり、東山殿より室町家は衰へたることなれは、衰へたる世のことを武家の法として、今の御代まても儀式のやうに用ひらること如何あるへきや、猿楽の家にて聖徳太子より起ると云ふは大なるひがことなり、聖徳太子のときより猿楽の先祖舞曲のことを掌りたることを混して猿楽の始まりと云ふなり、南都の楽人狛氏のともがら皆な聖徳太子より以来の楽人にて、法隆寺の近所には楽人の苗字の地名皆々これあり、今春か家に天よりふりたる海士の面と云ふものあり、家の宝とす、是れは能の海士にあらす、楽の安摩なり、其面は紙をいためて拵らへたるものなれは、天よりふりたること左もあるへし、能の面は如何にしても天よりは降るましきなり、されは猿楽のもとは楽人の家より分れたるものと見えたり、
書き下し
能と云ふもの費へ夥しきもの也、然れとも当時武家の儀式のやふに成りたれは、外にかへものなくては已むへきやうなし、室町家にても御笙はしめと云ふことありて、其始めは楽を用ひられたり、東山殿より始まりたることなり、東山殿より室町家は衰へたることなれは、衰へたる世のことを武家の法として、今の御代まても儀式のやうに用ひらること如何あるへきや、猿楽の家にて聖徳太子より起ると云ふは大なるひがことなり、聖徳太子のときより猿楽の先祖舞曲のことを掌りたることを混して猿楽の始まりと云ふなり、南都の楽人狛氏のともがら皆な聖徳太子より以来の楽人にて、法隆寺の近所には楽人の苗字の地名皆々これあり、今春か家に天よりふりたる海士の面と云ふものあり、家の宝とす、是れは能の海士にあらす、楽の安摩なり、其面は紙をいためて拵らへたるものなれは、天よりふりたること左もあるへし、能の面は如何にしても天よりは降るましきなり、されは猿楽のもとは楽人の家より分れたるものと見えたり、
現代語訳
能というものは費用のおびただしいものである。しかし今は武家の儀式のようになっているので、ほかに代わるものがなくてはやめようがない。室町家でも御笙始めということがあって、その始めは雅楽を用いられた。(能を用いるのは)東山殿(足利義政)から始まったことである。東山殿から室町家は衰えたのだから、衰えた世のことを武家の法として、今の御代まで儀式のように用いられるのはいかがなものか。猿楽の家で、聖徳太子から起こったと言うのは大きな誤りである。聖徳太子のときから猿楽の先祖が舞曲のことをつかさどっていたことを混同して、猿楽の始まりと言っているのである。南都の楽人である狛氏の一族は皆、聖徳太子以来の楽人であって、法隆寺の近所には楽人の苗字の地名がみなある。金春の家に天から降ったという海士の面というものがあり、家の宝としている。これは能の海士ではなく、雅楽の安摩である。その面は紙を張り固めてこしらえたものだから、天から降ったというのもありそうなことだ。能の面はどうしても天からは降ってくるまい。だから猿楽のもとは楽人の家から分かれたものと見える。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『政談』能の事さて御うたひ初は重もき御規式なれは、この節ばかり猿楽を用ゆるやうにし、猿楽は先規の如く御暇下され次第奈良へのほるへきことなり、かの輩も御先々前御代より御暇下されても皆御城下に滞留してのほらす、その節は能はやりたる故渡世も豊かなれとも、今は渡世に殊の外難義するたくひ多し、されとも年久しく御城下に住して、今は御城下を常住に定めぬれは、奈良へものほらす、しちやうにかゝりたるやうなるてい、所を失ひたる有様也、
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『政談』能の事当時猿楽に物入り多き故、改めて楽を用ひんとすれは舞楽の物入り亦莫大なり、その上楽にうたひもの絶えたる故人情に遠きものなり、此等を考へ合せて愚案をめぐらすに、後鳥羽帝の御作に宴曲と云ものあり、一二冊は世間にもあるものなり、長門の家中に大内家より持ち伝へたりとて、全部十册余にしたる宴曲の譜あり、その譜のていうたひよりはふしすこし長く、声明などよりはみじかきものなり、間々に調子付けあれはうたひものを重にして楽を付けものにしたるものと見えたり、一番のなかさいつれもうたひの曲舞楽となり、春夏秋冬雑賀神祇釈教恋無常にて、うたの類の如くに一番々々に名を付けたるものなり、折にふれ時にとりてそのことに応して装束は一統にかりぎぬかひたゝれを用ひたらは、能のかはりにして費へも少なく、又文物も調ひて然るへきことのやう思はる、是は巧者なる仁に仰付けられ、二三年も四五年もかゝらは成就すへきことなり、なれとも是等のことは諸事の制度も調ひ、世上も豊によくすわりたる以後のことなるへけれは、急くへきことにもあらす、
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『政談』將軍宣下御能の事将軍宣下の御祝儀とて家々にて能をすること詮もなきこと也、台徳院様将軍宣下のときは未た天下をしろし召さゝれは箇様のことはあるまじ、大かたは大猷院様将軍宣下の時分政宗三斎なと云ふやうなる、いきりものゝ仕始めたることが、今は作法のやうになりたるなるへし、されとも公儀を敬ふ筋なれは誰れ止むることも成らす、その仕方を見れは老中を招して喰もせぬ膳を据ゑ、親類近付きより末々出入りの医者町人まてを呼ひ集め、むさとしたる奢りをし、新に舞台を建て、その舞台をは猿楽に取せ、又猿楽に据ゑたる膳椀をかけなかしにするたくひ、きやふがりたる奢り何の益もなきことなり、是仕方あるへし、
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『玉勝間』九の巻 能と云ふ楽西宮記相撲の条に、相撲了りて能優一番と有り。能優は、猿楽のたぐいと聞こえたり。近き世に、能と云う名はこれなるべし。この能の字は、音態なるべきに、ノウと云うは、昔より誤れるにや。
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風姿花伝・序夫れ申楽延年の事、態その源を尋ぬるに、或は仏在所よりおこり、或は神代より伝はるといへども、時移り代へだたりぬれば、その風を学ぶ力及びがたし。近比万人のもてあそぶところは、推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝に仰せて、且は天下安全の為、且は諸人快楽の為、六十六番の遊宴をなして、申楽と号せしより以来、代々の人、風月の景を仮りて、このあそびの中だちとせり。その後、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日日吉の神職たり。仍て和州江州の輩、両社の神事に従ふこと、今に盛なり。されば、古を学び新を賞する中にも、全く風流をよこしまにすることなかれ。ただ言葉賤しからずして、姿幽玄ならんを承けたる達人とは申すべきか。先づこの道にいたらんと思はん者は、非道を行ずべからず。但し歌道は風月延年のかざりなれば、尤もこれを用ふべし。凡そ若年より以来、見聞き及ぶところの稽古の条々、大概注し置くところなり。一、好色、博奕、大酒、三重戒、これ古人の掟なり。一、稽古は強かれ、諍識はなかれとなり。
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風姿花伝・第四 神祇一 平の都にしては、村上天皇の御宇に、昔の上宮太子の御筆の申楽延年の記を叡覧あるに、先づ神代仏在所のはじまり、月氏晨旦日域に伝はる。狂言綺語をもて讃仏転法輪の因縁をまもり、魔縁を退け福祐をまねく。申楽舞を奏すれば、国おだやかに民しづかに寿命長遠なりと、太子の御筆あらたなるによて、村上天皇申楽をもて天下の御祈祷をなすべしとて、その比かの河勝よりこの申楽の芸を伝ふる子孫、秦氏安なり。六十六番の申楽を紫宸殿にて仕る。その比紀の権守と申す人才智の人なりけり。これはかの氏安が妹婿なり。これも相伴ひて申楽をす。その後六十六番までは一日につとめがたしとて、その中を選んで、稲積の翁、翁面代継の翁、三番申楽父助、この三つをさたむ。今の代の式三番これなり。すなはち法・報・応の三身の如来をかたどり奉るところなり。式三番の口伝別紙にあるべし。秦氏安より光太郎金春当代まで二十九代の遠孫なり。これ大和国円満井の座なり。同じく氏安より相伝へたる聖徳太子の御作の鬼面、春日の御神影、仏舎利、是三つこの家に伝ふるところなり。
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