玉勝間 / 十一の巻 堀川ノ天皇神楽を多ノ近方に伝へさせ給へる事
同書ニ云〃、多ノ近方、資忠には幼くておくれにければ、神樂の道は傳へざりけるを、堀川院資忠か手より、めでたく傳へめしたりければ、近方を尋ねめして、召人の中に、此道絕なば、口惜しかるべしとて、近方をめして、近衞ノ陣にさぶらはせて、萩の戶の邊に近くめして、御みづからぞ敎へ給ひける。但シ御口うつしに物をば、仰せられずして、師時卿して、つたへ仰せられければ、彼卿も聲ぞ惡るかりけれども、此道のはかせには成りにけり。おのづから師時候はざりける時は、近方がうたひとらざりける限りは、いく度もうたひてぞ、聞かせさせおはしましける。善く成りぬとおぼしめしける時は、物をば仰せられずして、御歌をとどめさせおはしましけり。三年までよるひる近く候けるに、御口うつしにものをば一度も仰られざりけり。古體なりかしや、又くひ物無かりければ、おのづから師時卿なんどのたたう紙に飯を入れて、たびたりければ、それを僅かになめづりてぞ、二三日も過ごしける。かくしつつ十六歳になりてぞ、始めて內侍所の御神樂に、拍子とりたりければめでたくて、御門よりはじめて、譽めさせおはしましけり。
新字:同書ニ云〃、多ノ近方、資忠には幼くておくれにければ、神楽の道は伝へざりけるを、堀川院資忠か手より、めでたく伝へめしたりければ、近方を尋ねめして、召人の中に、此道絶なば、口惜しかるべしとて、近方をめして、近衛ノ陣にさぶらはせて、萩の戸の辺に近くめして、御みづからぞ教へ給ひける。但シ御口うつしに物をば、仰せられずして、師時卿して、つたへ仰せられければ、彼卿も声ぞ悪るかりけれども、此道のはかせには成りにけり。おのづから師時候はざりける時は、近方がうたひとらざりける限りは、いく度もうたひてぞ、聞かせさせおはしましける。善く成りぬとおぼしめしける時は、物をば仰せられずして、御歌をとどめさせおはしましけり。三年までよるひる近く候けるに、御口うつしにものをば一度も仰られざりけり。古体なりかしや、又くひ物無かりければ、おのづから師時卿なんどのたたう紙に飯を入れて、たびたりければ、それを僅かになめづりてぞ、二三日も過ごしける。かくしつつ十六歳になりてぞ、始めて内侍所の御神楽に、拍子とりたりければめでたくて、御門よりはじめて、誉めさせおはしましけり。
書き下し
同書に云わく、多の近方、資忠には幼くておくれにければ、神楽の道は伝えざりけるを、堀川院資忠が手より、めでたく伝えめしたりければ、近方を尋ねめして、召人の中に、この道絶えなば、口惜しかるべしとて、近方をめして、近衛の陣にさぶらわせて、萩の戸の辺に近くめして、御みずからぞ教え給いける。ただし御口うつしに物をば、仰せられずして、師時卿して、つたえ仰せられければ、かの卿も声ぞ悪るかりけれども、この道のはかせには成りにけり。おのずから師時候わざりける時は、近方がうたいとらざりける限りは、いく度もうたいてぞ、聞かせさせおわしましける。善く成りぬとおぼしめしける時は、物をば仰せられずして、御歌をとどめさせおわしましけり。三年までよるひる近く候いけるに、御口うつしにものをば一度も仰せられざりけり。古体なりかしや、またくい物無かりければ、おのずから師時卿なんどのたとう紙に飯を入れて、たびたりければ、それを僅かになめずりてぞ、二三日も過ごしける。かくしつつ十六歳になりてぞ、始めて内侍所の御神楽に、拍子とりたりければめでたくて、御門よりはじめて、誉めさせおわしましけり。
現代語訳
同じ書にこうある。多近方は、父の資忠に幼くして死に別れたので、神楽の道を伝え受けていなかった。堀河院は資忠から神楽を見事に伝え受けておられたので、近方を探し出して召され、召人(宮中に召し抱えた楽人)の中でこの道が絶えてしまっては残念であろうと、近方を召して近衛の陣に伺候させ、萩の戸のあたりに近く召して、ご自身でお教えになった。ただし口移しに直接お言葉をかけることはなさらず、源師時卿を通して伝えさせられたので、その卿も声は悪かったけれども、この道の博士になったのであった。たまたま師時が伺候していない時は、近方が歌い覚えられないうちは、何度でも歌ってお聞かせになった。よくなったとお思いになった時は、何もおっしゃらずに、お歌いになるのをおやめになった。三年間、夜も昼も近くに仕えていたが、口移しに直接お言葉をかけられたことは一度もなかった。なんとも古風なことであろうか。また近方には食べる物がなかったので、たまたま師時卿などが畳紙(懐紙)に飯を包んで与えると、それをわずかになめるようにして、二、三日も過ごしたのであった。こうして十六歳になって、初めて内侍所の御神楽で拍子を取ったところ、見事であったので、帝をはじめとして皆がお褒めになったのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十一の巻 堀川ノ天皇神楽を多ノ近方に伝へさせ給へる事神楽の曲は、すでに絶えぬべかりける事を、御門の御口より給いける。めでたかりける事なり。(私に云う、堀川院御宸筆の神楽譜、多近方に給いて、今多朝臣久時、同じく子久泰まで所持し畢んぬ。)
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『神皇正統記』巻五 第七十三代 堀河院第七十三代、第四十世、堀河院。諱は善仁、白河第二の子。御母中宮賢子、右大臣源顕房の女、関白師実のおとゞの猶子也。丙寅の年即位、丁卯に改元。このみかど和漢の才ましましけり。ことに管絃・郢曲・舞楽の方あきらかにまします。神楽の曲などは今の世まで地下につたへたるもこの御説也。天下を治給こと二十一年。二十九歳おましましき。
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『玉勝間』十一の巻 又神楽の調子同書に、資忠云わく、上代は神楽は無調なり、しかるに近来すべて壱越調を以てこれを為す、我が世に相替わる事これなりと云えり。さきに、しるせると異なるはいかにぞや。今思うに、この説まことに然るべし。さきの、神楽はもと平調なりと云える説は、ひがことなるべし。これに我が世云云と云えるは、この資忠と云いし人の世の程に、かく変わりぬる由なり。
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『玉勝間』十一の巻 舞楽の伝はり来つる次第すなわち六十六代一条院の御時、寛弘七年、左方の一者に補せられにしかば、公私の諸役を奉行しき。およそ嫡家〓の光近を、野田の判官と云い、三男の流れ則近を、辻子の判官と云う。よってかの両人の流れを呼んで、野田辻子と申すなり。
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『玉勝間』十二の巻 武徳殿前競馬のまけわざの時に神楽を奏せし事同じ紀に、仁和元年十月廿三日甲戌、天皇紫宸殿に御す。右近衛・右衛門・右兵衛の三府、并びに右馬寮、物を献ず、これ去る五月六日、武徳殿前の競走馬の輸物なり。親王及び太政大臣已下、出居・侍従已上、殿上に侍し、音楽種々の散楽を奏す、日暮れて、親王已下殿を降り、玉階の前に於て神楽を奏す、歌舞歓を極む。諸衛の官人・内竪等の、能く歌う者を喚びてこれに預からしむ、次侍従已上に禄を賜うこと、各差有り、と見えたり。かかるおりに、神楽を奏せしめ給えるは、珍しき事なり。
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『玉勝間』十一の巻 肥後国の神楽歌地誉歌。むかしより世をはじめ給うおお太子よのよきことをおきてはじめん、御手幣を手にとりもちておがめば、四方の神も花とよむらん、よき馬によきくらしきて手綱かけ朝日にむいて神をしょうせん、神の父いずくにますぞ幣さしてとおりにまいる神をしょうせん、神の母いずくにますぞみくまもり出雲にまいる神をしょうせん、神しょうし磯をぞまわるあまおぶねかいかじそろえ船子さだめん。高所。たんなんたいらの神棚にかおよき女体おわします、おっとはたれぞととい(ひ)たれば松のうら葉のとみ男、おさなききんだちみやしろに学問せよとてあけたれば、うめと桜にたわむれて五葉の松とぞなり給う、われらが植木のせきようはつくつくぼうしをなべすえて、あゆみ給えばあとごとに七本蓮花の花ひらく、南おもてのひろ縁にいとげの車やりすえて、南面の泉水にようある鳥こそきていたり、この殿のみかどのまえにはよしうえてまいれる人によしといわせん、この殿の十二の柱はかねよたたおせどもひけどもなびかざらまし、この殿をあたらし殿とたれかなづく九国のとののふるやなるもの、酒殿に酒はつくりつももはらやちはらの酒ぞ神はめすらん、酒殿に風の吹かしさらさらとしげ木が本を宿とさだめん、酒殿に入り来るとみのかえらんばおかの子共と物語せん。
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