説苑 / 君道
湯曰:「藥食先嘗於卑,然後至於貴;藥言先獻於貴,然後聞於卑。」故藥嘗乎卑,然後至乎貴,教也;藥言獻於貴,然後聞於卑,道也。故使人味食然後食者,其得味也多;使人味言然後聞言者,其得言也少。是以明王之言,必自他聽之,必自他聞之,必自他擇之,必自他取之,必自他聚之,必自他藏之,必自他行之;故道以數取之為明,以數行之為章,以數施之萬物為藏。是故求道者不以目而以心,取道者不以手而以耳。
新字:湯曰:「薬食先嘗於卑,然後至於貴;薬言先献於貴,然後聞於卑。」故薬嘗乎卑,然後至乎貴,教也;薬言献於貴,然後聞於卑,道也。故使人味食然後食者,其得味也多;使人味言然後聞言者,其得言也少。是以明王之言,必自他聴之,必自他聞之,必自他択之,必自他取之,必自他聚之,必自他蔵之,必自他行之;故道以数取之為明,以数行之為章,以数施之万物為蔵。是故求道者不以目而以心,取道者不以手而以耳。
書き下し
湯曰く、「薬食は先ず卑に嘗めしめ、然る後に貴に至る。薬言は先ず貴に献じ、然る後に卑に聞こゆ」と。故に薬卑に嘗めしめ、然る後に貴に至るは、教えなり。薬言貴に献じ、然る後に卑に聞こゆるは、道なり。故に人をして食を味わしめて然る後に食する者は、其の味を得ること多し。人をして言を味わしめて然る後に言を聞く者は、其の言を得ること少なし。是を以て明王の言は、必ず自ら他に之を聴かしめ、必ず自ら他に之を聞かしめ、必ず自ら他に之を択ばしめ、必ず自ら他に之を取らしめ、必ず自ら他に之を聚めしめ、必ず自ら他に之を蔵せしめ、必ず自ら他に之を行わしむ。故に道は数ば之を取るを以て明と為し、数ば之を行うを以て章と為し、数ば之を万物に施すを以て蔵と為す。是の故に道を求むる者は目を以てせずして心を以てし、道を取る者は手を以てせずして耳を以てす。
現代語訳
湯王が言った。「薬や食べ物は、まず身分の低い者に味見をさせてから、身分の高い者に渡す。薬となる忠言は、まず身分の高い者に献上してから、身分の低い者に伝わる。」だから、薬をまず身分の低い者に味見させてから貴人に渡すのは教育の方法であり、薬となる忠言をまず貴人に献上し、その後に身分の低い者に伝わるのは道の順序である。だから人に食べ物の味を確かめさせてから食べる者は、多くの美味を得られる。人に言葉の意味を確かめさせてから言葉を聞く者は、得られる言葉は少ない。だから明君の言葉は、必ず自ら他人にそれを聴かせ、必ず自ら他人にそれを聞かせ、必ず自ら他人にそれを選ばせ、必ず自ら他人にそれを取らせ、必ず自ら他人にそれを集めさせ、必ず自ら他人にそれを蔵させ、必ず自ら他人にそれを実行させる。だから道は、何度も取り入れることによって明らかになり、何度も実行することによって際立ち、何度も万物に施すことによって蓄えられる。だから道を求める者は目によってではなく心によって求め、道を取る者は手によってではなく耳によって取るのである。
解説

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『墨子』節葬下是の故に子墨子曰く、郷に吾が本と言えらく、意うに亦た其の言をして、其の謀を用いて、厚葬久喪を計るに、誠に以て貧を富まし、寡を衆くし、危を定め、亂を治む可からんか。則ち仁なり、義なり、孝子の事なり。人の為に謀る者は、勸めざる可からざるなり。意うに亦た其の言に法り、其の謀を用いて、人の若きの厚葬久喪、實に以て貧を富まし、寡を衆くし、危を定め、亂を治む可からざらんか。則ち仁に非ざるなり、義に非ざるなり、孝子の事に非ざるなり。人の為に謀る者は、沮まざる可からざるなり。是の故に以て國家を富まさんことを求むるも、甚だ貧を得たり。以て人民を衆くせんと欲するも、甚だ寡を得たり。以て刑政を治めんと欲するも、甚だ亂を得たり。以て大國の小國を攻むるを禁止せんことを求むるも、既已に不可なり。以て上帝鬼神の福を千めんと欲するも、又た禍を得たり。上、之を堯舜禹湯文武の道に稽うるに、政、之に逆らう。下、之を桀紂幽厲の事に稽うるに、猶お節を合わするがごとし。若し此を以て觀れば、則ち厚葬久喪は、其れ聖王の道に非ざるなり。
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史記 扁鵲倉公列伝潘満如の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切するに深く小さく弱く、其の卒然として合合するなり。是れ脾気なり。右の脈口の気至ること緊小にして、瘕気を見るなり。次を以て相乗ず。故に三十日にして死す。三陰倶に摶つ者は、法の如し。倶には摶たざる者は、決は急期に在り。一たび摶ち一たび代はる者は、近し。故に其の三陰摶ち、血を溲すること前の如くして止む。陽虚侯の相趙章病み、臣意を召す。衆医皆以て寒中と為す。臣意其の脈を診して曰く、「迵風なり」と。迵風なる者は、飲食嗌を下りて輒ち出でて留まらず。法に曰く、「五日にして死す」と。而るに後十日にして乃ち死す。病は之を酒に得たり。趙章の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切するに、脈来ること滑なり。是れ内風の気なり。飲食嗌を下りて輒ち出でて留まらざる者は、法として五日にして死す。皆前の分界の法なり。後十日にして乃ち死し、期を過ぐる所以の者は、其の人粥を嗜む。故に中蔵実す。中蔵実す、故に期を過ぐ。師言ひて曰く、「穀に安んずる者は期を過ぎ、穀に安んぜざる者は期に及ばず」と。済北王病み、臣意を召して其の脈を診せしむ。曰く、「風蹶して胸満つ」と。即ち為に薬酒を為る。三石を尽くして、病已ゆ。之を汗出でて地に伏すに得たり。済北王の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切する時、風気なり、心脈濁る。病法に「過ぎて其の陽に入り、陽気尽きて陰気入る」と。陰気入りて張れば、則ち寒気上りて熱気下る。故に胸満つ。汗出でて地に伏す者は、其の脈を切するに、気陰なり。陰気なる者は、病必ず中に入り、出づること瀺水に及ぶなり。斉の北宮司空の命婦出於病む。衆医皆以て風中に入り、病は主として肺に在りと為し、其の足の少陽の脈を刺す。臣意其の脈を診して曰く、「病は気疝にして、膀胱に客たり。前後に溲するに難くして、溺赤し。病寒気を見れば則ち遺溺し、人をして腹腫れしむ」と。出於の病は之を溺せんと欲して得ず、因りて以て接内するに得たり。
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史記 孝武本紀泰一の用ゐる所は、雍の一畤の物の如く、而して醴棗脯の属を加へ、一犛牛を殺して以て俎豆の牢具と為す。而して五帝は独り俎豆醴の進有り。其の下の四方の地は、餟食の為に群神の従者及び北斗を云ふ。已に祠れば、胙の余は皆之を燎く。其の牛の色は白、鹿其の中に居り、彘鹿の中に在り、水にて之を洎(ひた)す。日を祭るに牛を以てし、月を祭るに羊彘特を以てす。泰一の祝宰は則ち紫及び繡を衣る。五帝は各々其の色の如くし、日は赤、月は白。十一月辛已朔旦冬至、昧爽、天子始めて郊して泰一を拝す。朝に日を朝し、夕に月を夕すれば、則ち揖す。而して泰一に見ゆること雍の礼の如くす。其の贊饗に曰く、「天始めて宝鼎神筴を以て皇帝に授く、朔にして又朔、終はりて復た始まる、皇帝敬ひて拝し焉に見ゆ。」と。而して衣は黄を上ぶ。其の祠火を列ねて壇に満たし、壇の旁に烹炊の具あり。有司云ふ「祠上に光有り」と。公卿言ふ「皇帝始めて泰一に雲陽に郊見す、有司瑄玉嘉牲を奉じて薦饗す。是の夜美光有り、昼に及びて、黄気上りて天に属す。」と。太史公・祠官寛舒等曰く、「神霊の休、祐福兆祥なり、宜しく此の地の光域に因りて泰畤の壇を立て以て応を明らかにすべし。太祝をして領せしめ、(祀)[秋]及び臘の間に祠らしめん。三歳に天子一たび郊見せん。」と。其の秋、南越を伐たんが為に、泰一に告禱し、牡荊を以て幡に日月北斗登龍を画き、以て天一三星に象り、泰一の鋒と為し、名づけて「霊旗」と曰ふ。兵の為に禱れば、則ち太史奉じて以て伐つ所の国を指す。而して五利将軍使ひして敢へて海に入らず、泰山に之きて祠る。上人をして微かに随ひて験せしむるに、実に見る所無し。五利妄りに其の師を見たりと言ふ、其の方尽き、多く讎(あた)らず。上乃ち五利を誅す。其の冬、公孫卿神を河南に候ひ、僊人の跡を緱氏城の上に見る、物有り雉の若く、城上を往来す。天子親ら緱氏城に幸して跡を視る。卿に問ふ、「文成・五利に効ふこと毋きを得んや。」と。
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荀子・大略篇語に曰く、「流丸(りゅうがん)は甌臾(おうゆ)に止まり、流言は知者に止まる」と。此れ家言(かげん)邪説の儒者を悪(にく)む所以(ゆゑん)なり。是非疑はしければ、則ち之を度(はか)るに遠き事を以てし、之を験(ため)すに近き物を以てし、之に参(まじ)ふるに平らかなる心を以てす。流言焉(ここ)に止まり、悪言焉に死す。
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史記 扁鵲倉公列伝之を別つ所以の者は、臣意の受くる所の師の方適々成りて、師死す。故を以て診する所を表籍し、期もて死生を決し、失ふ所得る所の者を観て脈法に合はす。故を以て今に至るまで之を知る」と。臣意に問ひて曰く、「期する所の病、死生を決して、或いは期に応ぜざるは、何の故ぞ」と。対へて曰く、「此れ皆飲食喜怒節あらず、或いは当に薬を飲むべからざるに、或いは当に鍼灸すべからざるに、故を以て期に中らずして死するなり」と。臣意に問ふ、「意の方能く病の死生を知り、薬の用ふる所の宜しきを論ず。諸侯王大臣嘗て意に問ふ者有りや不や。文王の病む時に及びて、意に診治を求めざりしは、何の故ぞ」と。対へて曰く、「趙王・膠西王・済南王・呉王皆人をして来りて臣意を召さしむるも、臣意敢へて往かず。文王の病む時、臣意家貧しく、人の為に病を治せんと欲するも、誠に吏以て臣意を除拘せんことを恐る。故に名数を移し、左右して家生を修めず、出でて国中を行游し、善く方数を為す者を問ひて之に事ふること久し。事ふる数師に見え、悉く其の要事を受け、其の方書の意を尽くし、及び之を解論す。身は陽虚侯の国に居り、因りて侯に事ふ。侯入朝し、臣意之に従ひて長安に之く。故を以て安陵の項処等の病を診するを得たるなり」と。臣意に問ふ、「文王の病を得て起たざる所以の状を知るか」と。臣意対へて曰く、「文王の病を見ず。然れども竊かに文王喘を病み、頭痛み、目明らかならずと聞く。臣意心に之を論じ、以て病に非ずと為す。以為へらく、肥えて精を蓄へ、身体揺るぐを得ず、骨肉相任へず、故に喘す。当に医治すべからずと。脈法に曰く、『年二十にして脈気当に趨るべく、年三十にして当に疾歩すべく、年四十にして当に安坐すべく、年五十にして当に安臥すべく、年六十已上にして気当に大いに董むべし』と。文王年未だ二十に満たず、方に脈気の趨るべきに之を徐にす。天道四時に応ぜず。後に医之に灸して即ち篤しと聞く。此れ病を論ずるの過なり。
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論語・衛霊公篇子曰く、吾の人に於けるや、誰をか毀り誰をか誉めん。如し誉むる所有らば、其れ試みる所有らん。斯の民や、三代の直道にして行いし所以なり。