玉勝間 / 十の巻 京極ノ中納言の墓又時雨の亭の事
同じ人の、ひえの山にまうでたる詞にいはく。貫之のぬしの塚は、かしこのしかしか聞ゆる所に有と云ひたるを、定かに知れるも無くて、見ずなりにけるぞ、いといと名殘りがちに、ほい無くなん。定家卿のも有りと云へれど、それはひがことにて、まことは九重のかたはら、柳原のほとり、今の相國寺のうちに、時雨の亭も有しとぞ。長祿の頃ほひ、年每の八月廿日には、すいたる人人、秋のなかばも過ぬべしと云ふ句を、一もじづつ初めに置きて、歌よみとぶらひしも、此所なるべし。
新字:同じ人の、ひえの山にまうでたる詞にいはく。貫之のぬしの塚は、かしこのしかしか聞ゆる所に有と云ひたるを、定かに知れるも無くて、見ずなりにけるぞ、いといと名残りがちに、ほい無くなん。定家卿のも有りと云へれど、それはひがことにて、まことは九重のかたはら、柳原のほとり、今の相国寺のうちに、時雨の亭も有しとぞ。長禄の頃ほひ、年毎の八月廿日には、すいたる人人、秋のなかばも過ぬべしと云ふ句を、一もじづつ初めに置きて、歌よみとぶらひしも、此所なるべし。
書き下し
同じ人の、ひえの山にもうでたる詞にいわく。貫之のぬしの塚は、かしこのしかしか聞ゆる所に有りと云いたるを、定かに知れるも無くて、見ずなりにけるぞ、いといと名残りがちに、ほい無くなん。定家卿のも有りと云えれど、それはひがことにて、まことは九重のかたわら、柳原のほとり、今の相国寺のうちに、時雨の亭も有りしとぞ。長禄の頃おい、年毎の八月廿日には、すいたる人々、秋のなかばも過ぎぬべしと云う句を、一もじずつ初めに置きて、歌よみとぶらいしも、この所なるべし。
現代語訳
同じ人(長嘯子)が比叡山に参詣したときの文にいう。「紀貫之の墓は、あそこの何々と聞こえる所にあると言っていたが、はっきり知っている者もなくて、見ずに終わってしまったのが、まことに心残りで、残念である。定家卿の墓もあると言うけれども、それは誤りで、本当は宮中のそば、柳原のあたり、今の相国寺の中にあり、時雨の亭(しぐれのちん)もそこにあったということだ。長禄の頃、毎年八月二十日(定家の忌日)には、風流を好む人々が『秋のなかばも過ぎぬべし』という句を一文字ずつ歌の初めに置いて、歌を詠んで弔ったというのも、この場所であろう。」
解説
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