玉勝間 / 十の巻 御子左二条家冷泉家の事
上件持爲卿より末は、下ノ冷泉殿のすぢなり。爲經卿は、爲景卿の孫なり。上ノ冷泉殿は、爲尹卿の長子、中將爲之ノ朝臣の末なり。さて二條家は、御子左とも云ふ。爲氏卿の子、大納言爲世卿の子たち、中將爲通朝臣、中納言爲藤卿、中將爲冬朝臣などなほあまたおはせし。長子爲通朝臣の子、權大納言爲定卿、その子權大納言爲遠卿、その子中將爲衡朝臣なり。次男爲藤卿の子、權中納言爲明卿なり。末ノ子爲冬朝臣の子、權中納言爲重卿なり。かく爲世卿の末、三流レになりて有つるを、皆末絕て、二條家は無くなりぬ。然るに歌の道に、なほ後まで、二條家と世に云ふは、此家の歌のおきてを受け傳へられたる家家を云ふなり。その子孫と云ふにはあらず。
新字:上件持為卿より末は、下ノ冷泉殿のすぢなり。為経卿は、為景卿の孫なり。上ノ冷泉殿は、為尹卿の長子、中将為之ノ朝臣の末なり。さて二条家は、御子左とも云ふ。為氏卿の子、大納言為世卿の子たち、中将為通朝臣、中納言為藤卿、中将為冬朝臣などなほあまたおはせし。長子為通朝臣の子、権大納言為定卿、その子権大納言為遠卿、その子中将為衡朝臣なり。次男為藤卿の子、権中納言為明卿なり。末ノ子為冬朝臣の子、権中納言為重卿なり。かく為世卿の末、三流レになりて有つるを、皆末絶て、二条家は無くなりぬ。然るに歌の道に、なほ後まで、二条家と世に云ふは、此家の歌のおきてを受け伝へられたる家家を云ふなり。その子孫と云ふにはあらず。
書き下し
上の件、持為卿より末は、下の冷泉殿のすじなり。為経卿は、為景卿の孫なり。上の冷泉殿は、為尹卿の長子、中将為之の朝臣の末なり。さて二条家は、御子左とも云う。為氏卿の子、大納言為世卿の子たち、中将為通の朝臣、中納言為藤卿、中将為冬の朝臣などなおあまたおわせし。長子為通の朝臣の子、権大納言為定卿、その子権大納言為遠卿、その子中将為衡の朝臣なり。次男為藤卿の子、権中納言為明卿なり。末の子為冬の朝臣の子、権中納言為重卿なり。かく為世卿の末、三流れになりて有りつるを、皆末絶えて、二条家は無くなりぬ。然るに歌の道に、なお後まで、二条家と世に云うは、この家の歌のおきてを受け伝えられたる家々を云うなり。その子孫と云うにはあらず。
現代語訳
上の文のうち、持為卿から後は、下冷泉家の筋である。為経卿は為景卿の孫である。上冷泉家は、為尹卿の長男、中将為之朝臣の子孫である。さて二条家は御子左家ともいう。為氏卿の子、大納言為世卿の子たちには、中将為通朝臣、中納言為藤卿、中将為冬朝臣など、なお多くおられた。長男為通朝臣の子が権大納言為定卿、その子が権大納言為遠卿、その子が中将為衡朝臣である。次男為藤卿の子が権中納言為明卿である。末子為冬朝臣の子が権中納言為重卿である。このように為世卿の子孫は三つの流れになっていたが、みな子孫が絶えて、二条家は無くなってしまった。それなのに歌の道で、なお後世まで世に二条家と言うのは、この家の歌の作法を受け伝えた家々を言うのである。その子孫を言うのではない。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 御子左二条家冷泉家の事薨じて藤谷の岡に葬る、墳墓なお存す。為相、為成を生む、左兵衛督たり、早世す。弟為秀嗣ぐ、権中納言。建武の乱の後、細河・小野両荘、人の為に奪わる。為秀告げ訴うるに由無く、徒らに哀痛を抱く。為秀に二男有り、長を為邦と曰い、次を為尹と曰う。為邦は為氏の孫為明の子となり、御子左家を継ぐ。騒乱の間、その世禄を失い、ただ典籍を携えて家居し、尋いで早世す。為尹乃ち為秀の後を嗣ぎ、民部卿たり、権大納言たり。応永二十三年丙申五月十八日、将軍左大臣義持公、播州細河荘を為尹に還し付す。爾来伝えて為純に至るまで、争う者有ること無し。為尹に三子有り、長を為之と曰い、次を為員と曰い、次を持和と曰う。持和生まれて穎悟、才二兄に過ぐ、故に為尹太だ之を愛す。釈氏請いて以て弟子と為さんとする者有れども聴さず。左大臣義持公、持の字を賜い、持和と名づく。因りて伯父為邦の後嗣となり、奇書秘笈を伝え、御子左の号を襲ぐ。采邑給せざるを以ての故に来たり帰る。為尹乃ち細河の地を分かち与え、冷泉と号す。吾が家今なお二条の家規を井せ用うるは、本これより出ず。後に名を持為と更む、権大納言。持為、成為を生む。将軍左大臣義政公、初め成の字を賜い、後に政の字を賜う、因りて名を政為と改む。享徳二年癸酉五月二十五日、江州小野荘を還し付す。民部卿を兼ね、権大納言たり。政為、為孝を生む、侍従中納言たり。為孝、為豊を生む、侍従従三位。為豊、為純を生む、参議侍従。累世播州に住み、歳時に入朝す。子数人有り、長を為勝と曰う、左近衛権少将たり。次を〓勝と曰う。次は乃ち先生なり。幼くして僧となり、既に長じて、常に聖賢の書を読み、儒術に志嚮し、後遂に還俗す。名は粛、字は斂夫、惺窩と号す。行状に詳らかなり。次を俊久と曰い、姓を源に改め、名は有親、六条有孝の後を継ぐ。次を為将と曰う。天正六年戊寅、
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『玉勝間』十の巻 御子左二条家冷泉家の事惺窩文集、惺窩先生系譜略に曰く、先生の系は、法性寺摂政道長公の第六男長家卿より出ず。長家、官権大納言に至り、御子左と号し、また三条と号す。長家、忠家を生む、権大納言たり、小野宮と号す。忠家、俊忠を生む、権中納言、二条院と号す。俊忠、親家を生む、初め葉室権中納言顕隆の子となり、名を顕広と改め、後に本宗に帰り、また名を俊成と改め、皇太后宮大夫たり、家は五条に居り、世に五条三位と称す。別に播州三木郡細川荘、江州坂田郡小野荘を賜う、これを倭歌所の奉邑となし、嫡子世々封を襲ぐ。俊成、定家を生む、冷泉と号し、後に京極と称す、民部卿権中納言たり、父子相継ぎて倭歌を善くし、永く世の範となる。定家、為家を生む、権大納言、民部卿を兼ね、采地嵯峨中院に住む。為家に子三人有り、長を為氏と曰う、権大納言、御子左と号す、その後裔二条家と称し、また冷泉と号す。次を為教と曰う、左兵衛督、京極と号す。季を為相と曰う、権中納言、冷泉と号す。三家鼎峙して、各門戸を立つ。正元年中、書券を以て播州細河荘を為氏に付す。爾後為氏に不孝の事数有り、為家之を悔い、文永十年癸酉七月二十四日、十一年甲戌六月二十四日、文券両通を以て、為相に付す。建治元年乙亥五月一日、為家薨ず、嵯峨中院に葬る。為相なお幼し、故に為氏強いて細河荘を奪う。為相の母北林禅尼、鎌倉に赴き、将軍惟康親王に訴う。為氏もまたその事を告ぐ。獄久しく決せず。為氏・為世父子、為相と論争して已まず、また将軍守邦親王に訴う。執権相模守平熙時、曲直を判じ、正和二年癸丑七月二十日を以て、公牒一通を為相に賜い、その本邑を復す。その牒今吾が家に存す。後に鎌倉に住み藤谷と号す。
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『玉勝間』十の巻 御子左二条家冷泉家の事赤松氏の旁族別所小三郎源長治、兵を以て襲い来たり、細河荘を略す。為純・為勝父子之を防ぎ、四月一日戦死す。依藤氏某、事の急なるを聞きて来たり援く。館舎焼亡し、父子已に死す。某来たることの遅きを悔いて、立ちどころに自殺す。土人その義に感じ、三人を合わせ葬り、松三四株を樹え、名づけて冷泉塚と曰い、或いは依藤塚と曰う。播人今に至るまで之を称す。歴世の蔵書、尽く灰燼となる。粛、之を平右府信長公の家臣筑前守秀吉に訟う。秀吉曰く、且く時運を待て、と。竟に果たさず。粛之を如何ともする無し。是に於て正和二年の公牒、及び残編遺書を齎し、母と兄弟とを奉じて同じく京師に来たる。後に弟為将、元服を加え、官位に任叙す。時に既に邑を失い、家もまた幾ど絶ゆ。粛の子為景、初め後水尾帝に奉仕し、図書頭に任じ、細野と号を賜う、細河・小野の首尾の字を取るなり。後光明帝の正保中に勅すらく、冷泉古に両派有り、以て再興すべし、と。旨を東府に伝え、為景を以て復た冷泉と為し、左近衛権少将に任じ、尋いで中将に転ず。城州愛宕郡小山村、相楽郡林村、及び小寺村三所の地を賜う。数顧聞を蒙り、経筵に侍講す。詩歌及び倭文を善くし、著す所に白鴎文集若干巻有り。享保二年花朝の前日、正二位行民部卿藤原為経謹んで識す、と有る、これ二条家冷泉家の大かたなり。
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うひ山ぶみ・注[オ]後世風の中にもさまざまよきあしきふりさのみいひてやむべきにもあらず、よくしたゝめなば、まねび得ることも、などかは絶てなからん、さて又玉葉風雅の二ツの集は、為兼卿流の集なるが、彼卿の流の歌は、皆ことやうなるものにして、いといやしくあしき風なり、されば此一流は、其時代よりして、異風と定めしこと也、さて件ンの二集と、新古今とをのぞきて外は、千載集より、廿一代のをはり新続古今集までのあひだ、格別にかはれることなく、おしわたして大抵同じふりなる物にて、中古以来世間普通の歌のさまこれなり、さるは世の中こぞりて、俊成卿定家卿の教ヘをたふとみ、他門の人々とても、大抵みなその掟を守りてよめる故に、よみかた大概に同じやうになりて、世々を経ても、さのみ大きにかはれる事はなく、定まれるやうになれるなるべし、世に二條家の正風体といふすがた是也、此ノ代々の集の内にも、すこしづゝは、勝劣も風のかはりもあれども、大抵はまづ同じこと也、さて初学の輩の、よむべき手本には、いづれをとるべきぞといふに、上にいへるごとく、
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『玉勝間』十一の巻 堯孝大僧都の事同四年七月五日、後に聞く、常光院権大僧都堯孝法師、今日卒去す。年六十五と云云。頓阿以来、代々の歌人なり。殊に当代家を興す。先年新続古今撰ばるるの時、和歌所の開闔たる者なり。而るに実子無きに依りて清水谷中将実久朝臣を以て養子と為し、家を継がしむ。なお歌道に於いては、兼ねて相続の仁無く、女子(尼衆)を以て吾が道の口伝を授け、形の如くこれを残し置くと云云。世のため道のためこれを惜しむべし。
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御古今集に、二条の后の、東宮のみやすん所と聞えける時云云、いせ物語に、昔、東宮の女御の御方の云云と有る。まず二条の后は、清和天皇の中宮なり。貞観八年に、女御となり給い、同十年に、貞明親王を生み奉り給い、同十一年に、その親王皇太子に立たせ給う。これ陽成天皇におわします。これよりして、元慶元年に、中宮となり給うまでのあいだ、女御にて、皇太子の御母にましますを以て、東宮の女御とも、東宮の御息所とも申せること、契沖が余材抄、勢語臆断などに云えるがごとし。東宮の御母女御、御母御息所と云うことなり。御息所と申す称は、女御にまれ更衣にまれ、皇子皇女を生み奉り給える人を申す称なり。その趣源氏物語などを見て知るべし。かの物語に、桐壺の更衣などをも光源氏の君を生み奉られたる後は、御息所と云えること有り。その外も皆然かなり。然るを後の世に至りて、これを誤りて、御息所と申すを、東宮の妃の御事と心得たるから、この古今集いせ物語なるをも、清和天皇の東宮にて、ましましける時の御息所なり、と云う注あるは、いみじきひが事なり。東宮の妃を御息所と申すは、いたく後の世の俗称にこそあれ、古えにはかつて無き事なり。
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