導師導古典を学びたいすべての人に

玉勝間 / 十の巻 御子左二条家冷泉家の事

惺窩文集、惺窩先生系譜略、曰、先生系、出于法性寺攝政道長公第六男長家卿、長家官至權大納言、號御子左、又號三條、長家生忠家、爲權大納言、號小野宮、忠家生俊忠、權中納言、號二條院、俊忠生親家、初爲葉室權中納言顯隆子、改名顯廣、後歸本宗、又改名俊成、爲皇太后宮大夫、家居五條、世稱五條三位、別賜播州三木郡細川莊、江州坂田郡小野莊、是爲倭歌所奉邑、嫡子世世襲封、俊成生定家、號冷泉、後稱京極、爲民部卿權中納言、父子相繼善倭歌、永爲世範、定家生爲家、權大納言、兼民部卿、住采地嵯峨中院、爲家有子三人、長曰爲氏、權大納言、號御子左、其後裔稱二條家、又號冷泉、次曰爲敎、左兵衛督、號京極、季曰爲相、權中納言、號冷泉、三家鼎峙、各立門戶、正元年中、以書劵付播州細河莊於爲氏、爾後爲氏有不孝數事、爲家悔之、文永十年癸酉、七月二十四日、十一年甲戌、六月二十四日、以文劵兩通、付爲相、建治元年乙亥、五月一日、爲家薨、葬嵯峨中院、爲相尙幼、故爲氏强奪細河莊、爲相母北林禪尼赴鎌倉、訴將軍惟康親王、爲氏亦告其事、獄久不決、爲氏爲世父子、與爲相、論爭不已、又訴將軍守邦親王、執權相模守平熙時判曲直、以正和二年癸丑、七月二十日、賜公牒一通於爲相、復其本邑、其牒今存于吾家、後住鎌倉號藤谷、

新字:惺窩文集、惺窩先生系譜略、曰、先生系、出于法性寺摂政道長公第六男長家卿、長家官至権大納言、号御子左、又号三条、長家生忠家、為権大納言、号小野宮、忠家生俊忠、権中納言、号二条院、俊忠生親家、初為葉室権中納言顕隆子、改名顕広、後帰本宗、又改名俊成、為皇太后宮大夫、家居五条、世称五条三位、別賜播州三木郡細川荘、江州坂田郡小野荘、是為倭歌所奉邑、嫡子世世襲封、俊成生定家、号冷泉、後称京極、為民部卿権中納言、父子相継善倭歌、永為世範、定家生為家、権大納言、兼民部卿、住采地嵯峨中院、為家有子三人、長曰為氏、権大納言、号御子左、其後裔称二条家、又号冷泉、次曰為教、左兵衛督、号京極、季曰為相、権中納言、号冷泉、三家鼎峙、各立門戸、正元年中、以書劵付播州細河荘於為氏、爾後為氏有不孝数事、為家悔之、文永十年癸酉、七月二十四日、十一年甲戌、六月二十四日、以文劵両通、付為相、建治元年乙亥、五月一日、為家薨、葬嵯峨中院、為相尚幼、故為氏強奪細河荘、為相母北林禅尼赴鎌倉、訴将軍惟康親王、為氏亦告其事、獄久不決、為氏為世父子、与為相、論争不已、又訴将軍守邦親王、執権相模守平熙時判曲直、以正和二年癸丑、七月二十日、賜公牒一通於為相、復其本邑、其牒今存于吾家、後住鎌倉号藤谷、

書き下し

惺窩文集、惺窩先生系譜略に曰く、先生の系は、法性寺摂政道長公の第六男長家卿より出ず。長家、官権大納言に至り、御子左と号し、また三条と号す。長家、忠家を生む、権大納言たり、小野宮と号す。忠家、俊忠を生む、権中納言、二条院と号す。俊忠、親家を生む、初め葉室権中納言顕隆の子となり、名を顕広と改め、後に本宗に帰り、また名を俊成と改め、皇太后宮大夫たり、家は五条に居り、世に五条三位と称す。別に播州三木郡細川荘、江州坂田郡小野荘を賜う、これを倭歌所の奉邑となし、嫡子世々封を襲ぐ。俊成、定家を生む、冷泉と号し、後に京極と称す、民部卿権中納言たり、父子相継ぎて倭歌を善くし、永く世の範となる。定家、為家を生む、権大納言、民部卿を兼ね、采地嵯峨中院に住む。為家に子三人有り、長を為氏と曰う、権大納言、御子左と号す、その後裔二条家と称し、また冷泉と号す。次を為教と曰う、左兵衛督、京極と号す。季を為相と曰う、権中納言、冷泉と号す。三家鼎峙して、各門戸を立つ。正元年中、書券を以て播州細河荘を為氏に付す。爾後為氏に不孝の事数有り、為家之を悔い、文永十年癸酉七月二十四日、十一年甲戌六月二十四日、文券両通を以て、為相に付す。建治元年乙亥五月一日、為家薨ず、嵯峨中院に葬る。為相なお幼し、故に為氏強いて細河荘を奪う。為相の母北林禅尼、鎌倉に赴き、将軍惟康親王に訴う。為氏もまたその事を告ぐ。獄久しく決せず。為氏・為世父子、為相と論争して已まず、また将軍守邦親王に訴う。執権相模守平熙時、曲直を判じ、正和二年癸丑七月二十日を以て、公牒一通を為相に賜い、その本邑を復す。その牒今吾が家に存す。後に鎌倉に住み藤谷と号す。

現代語訳

『惺窩文集』の「惺窩先生系譜略」にいう。「先生(藤原惺窩)の家系は、法性寺摂政道長公(藤原道長)の第六男、長家卿から出ている。長家は官が権大納言に至り、御子左と号し、また三条とも号した。長家は忠家を生み、忠家は権大納言となり、小野宮と号した。忠家は俊忠を生み、俊忠は権中納言で、二条院と号した。俊忠は親家を生んだ。親家は初め葉室権中納言顕隆の子となって名を顕広と改め、のちに本家に帰って、また名を俊成と改め、皇太后宮大夫となった。家は五条にあり、世に五条三位と称された。別に播磨国三木郡の細川荘と近江国坂田郡の小野荘を賜り、これを和歌所の領地とし、嫡子が代々その領地を継いだ。俊成は定家を生んだ。定家は冷泉と号し、のちに京極と称し、民部卿・権中納言となった。父子相継いで和歌に優れ、長く世の手本となった。定家は為家を生んだ。為家は権大納言で民部卿を兼ね、領地の嵯峨中院に住んだ。為家には三人の子があった。長男を為氏といい、権大納言で御子左と号し、その子孫は二条家と称し、また冷泉とも号した。次男を為教といい、左兵衛督で京極と号した。末子を為相といい、権中納言で冷泉と号した。三家が鼎のように並び立ち、それぞれ門戸を構えた。正元年間、為家は証文によって播磨の細河荘を為氏に譲った。その後為氏に不孝のことがたびたびあったので、為家はこれを悔い、文永十年(癸酉)七月二十四日と十一年(甲戌)六月二十四日に、二通の証文で為相に譲った。建治元年(乙亥)五月一日、為家が亡くなり、嵯峨中院に葬られた。為相はまだ幼かったので、為氏が強引に細河荘を奪った。為相の母、北林禅尼(阿仏尼)は鎌倉に赴いて将軍惟康親王に訴え、為氏もまたその件を申し立てた。訴訟は長く決着せず、為氏・為世父子は為相と論争してやまず、さらに将軍守邦親王に訴えた。執権の相模守平熙時(北条熙時)が理非を判じ、正和二年(癸丑)七月二十日、公の裁許状一通を為相に下して、その本来の領地を戻した。その裁許状は今もわが家にある。為相はのち鎌倉に住み、藤谷と号した。

解説

藤原惺窩の家系を記した「惺窩先生系譜略」を、宣長がほぼそのまま写し取った長い段の始まりである。江戸儒学の祖とされる惺窩は、実は和歌の家、冷泉家の出だった。ここでは道長の子長家に始まる御子左家が俊成・定家・為家と続き、為家の三子から二条・京極・冷泉の三家が分かれた経緯が語られる。続いて、為家が播磨の細河荘をいったん為氏に譲りながら末子為相へ譲り直し、為相の母阿仏尼が鎌倉に下って訴え、ついに執権の裁許で為相に戻った相続争いが記される。十六夜日記の背景として知られる訴訟である。歌道の家々の由来は、中世の歌学を読む宣長にとって基礎知識であり、それを冷泉家の側の記録で押さえておこうとしたのである。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る