玉勝間 / 十の巻 御子左二条家冷泉家の事
赤松氏旁族別所小三郞源長治、以兵襲來、略細河莊、爲純爲勝父子防之、四月一日戰死、依藤氏某聞事急來援、館舍燒亡、父子已死、某悔來遲、而立自殺、土人感其義、合葬三人、樹松三四株、名曰冷泉塚、或曰依藤塚、播人至今稱之、歷世藏書、盡爲灰燼、肅訟之平右府信長公家臣筑前守秀吉、秀吉曰、且待時運、竟不果、肅無如之何、於是齎正和二年公牒、及殘編遺書、奉母與兄弟同來京師、後弟爲將、加元服、任-叙官位、時旣失邑、家亦幾絕、肅子爲景、初奉仕後水尾帝、任圖書頭、賜號細野、取細河小野首尾字也、後光明帝正保中勅、冷泉古有兩派、可以再興、傳旨於東府、以爲景復爲冷泉、任左近衛權少將、尋轉中將、賜城州愛宕郡小山村、相樂郡林村、及小寺村三所之地、數蒙顧聞、侍講經筵、善詩歌及倭文、所著有白鷗文集若干卷、享保二年花朝前日、正二位行民部卿藤原爲經謹識と有る、これ二條家冷泉家の大かたなり。
新字:赤松氏旁族別所小三郎源長治、以兵襲来、略細河荘、為純為勝父子防之、四月一日戦死、依藤氏某聞事急来援、館舎焼亡、父子已死、某悔来遅、而立自殺、土人感其義、合葬三人、樹松三四株、名曰冷泉塚、或曰依藤塚、播人至今称之、歴世蔵書、尽為灰燼、粛訟之平右府信長公家臣筑前守秀吉、秀吉曰、且待時運、竟不果、粛無如之何、於是齎正和二年公牒、及残編遺書、奉母与兄弟同来京師、後弟為将、加元服、任-叙官位、時既失邑、家亦幾絶、粛子為景、初奉仕後水尾帝、任図書頭、賜号細野、取細河小野首尾字也、後光明帝正保中勅、冷泉古有両派、可以再興、伝旨於東府、以為景復為冷泉、任左近衛権少将、尋転中将、賜城州愛宕郡小山村、相楽郡林村、及小寺村三所之地、数蒙顧聞、侍講経筵、善詩歌及倭文、所著有白鴎文集若干巻、享保二年花朝前日、正二位行民部卿藤原為経謹識と有る、これ二条家冷泉家の大かたなり。
書き下し
赤松氏の旁族別所小三郎源長治、兵を以て襲い来たり、細河荘を略す。為純・為勝父子之を防ぎ、四月一日戦死す。依藤氏某、事の急なるを聞きて来たり援く。館舎焼亡し、父子已に死す。某来たることの遅きを悔いて、立ちどころに自殺す。土人その義に感じ、三人を合わせ葬り、松三四株を樹え、名づけて冷泉塚と曰い、或いは依藤塚と曰う。播人今に至るまで之を称す。歴世の蔵書、尽く灰燼となる。粛、之を平右府信長公の家臣筑前守秀吉に訟う。秀吉曰く、且く時運を待て、と。竟に果たさず。粛之を如何ともする無し。是に於て正和二年の公牒、及び残編遺書を齎し、母と兄弟とを奉じて同じく京師に来たる。後に弟為将、元服を加え、官位に任叙す。時に既に邑を失い、家もまた幾ど絶ゆ。粛の子為景、初め後水尾帝に奉仕し、図書頭に任じ、細野と号を賜う、細河・小野の首尾の字を取るなり。後光明帝の正保中に勅すらく、冷泉古に両派有り、以て再興すべし、と。旨を東府に伝え、為景を以て復た冷泉と為し、左近衛権少将に任じ、尋いで中将に転ず。城州愛宕郡小山村、相楽郡林村、及び小寺村三所の地を賜う。数顧聞を蒙り、経筵に侍講す。詩歌及び倭文を善くし、著す所に白鴎文集若干巻有り。享保二年花朝の前日、正二位行民部卿藤原為経謹んで識す、と有る、これ二条家冷泉家の大かたなり。
現代語訳
赤松氏の一族である別所小三郎源長治が兵を率いて襲来し、細河荘を攻め取った。為純・為勝父子はこれを防いで、四月一日に戦死した。依藤氏の某が事態の急を聞いて救援に来たが、館はすでに焼け落ち、父子はもう死んでいた。某は来るのが遅れたことを悔いて、その場で自害した。土地の人々はその義に感じ入って三人を合わせて葬り、松を三、四本植えて、冷泉塚とも依藤塚とも名付けた。播磨の人は今に至るまでそう呼んでいる。代々の蔵書はことごとく灰になった。粛(惺窩)はこのことを平右府信長公(織田信長)の家臣、筑前守秀吉(羽柴秀吉)に訴えたが、秀吉は「しばらく時運を待て」と言い、結局果たされなかった。粛にはどうすることもできなかった。そこで正和二年の裁許状と焼け残った書物を携え、母と兄弟を伴って、ともに京都へ上った。のちに弟の為将は元服して官位に任じられたが、その時にはすでに領地を失い、家もほとんど絶えかけていた。粛の子の為景は、初め後水尾天皇に仕えて図書頭に任じられ、細野という号を賜った。細河・小野の頭と末の字を取ったものである。後光明天皇の正保年間に、「冷泉家は昔二派あった。再興すべきである」との勅があり、その旨を江戸の幕府に伝えて、為景を再び冷泉とし、左近衛権少将に任じ、ほどなく中将に転じた。山城国愛宕郡小山村・相楽郡林村および小寺村の三か所の地を賜った。たびたびお召しにあずかって、御進講の席に侍した。漢詩・和歌および和文に優れ、著書に白鴎文集若干巻がある。享保二年、花朝(二月十五日)の前日、正二位行民部卿藤原為経が謹んで記す」とある。これが二条家・冷泉家のおおよそである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 御子左二条家冷泉家の事薨じて藤谷の岡に葬る、墳墓なお存す。為相、為成を生む、左兵衛督たり、早世す。弟為秀嗣ぐ、権中納言。建武の乱の後、細河・小野両荘、人の為に奪わる。為秀告げ訴うるに由無く、徒らに哀痛を抱く。為秀に二男有り、長を為邦と曰い、次を為尹と曰う。為邦は為氏の孫為明の子となり、御子左家を継ぐ。騒乱の間、その世禄を失い、ただ典籍を携えて家居し、尋いで早世す。為尹乃ち為秀の後を嗣ぎ、民部卿たり、権大納言たり。応永二十三年丙申五月十八日、将軍左大臣義持公、播州細河荘を為尹に還し付す。爾来伝えて為純に至るまで、争う者有ること無し。為尹に三子有り、長を為之と曰い、次を為員と曰い、次を持和と曰う。持和生まれて穎悟、才二兄に過ぐ、故に為尹太だ之を愛す。釈氏請いて以て弟子と為さんとする者有れども聴さず。左大臣義持公、持の字を賜い、持和と名づく。因りて伯父為邦の後嗣となり、奇書秘笈を伝え、御子左の号を襲ぐ。采邑給せざるを以ての故に来たり帰る。為尹乃ち細河の地を分かち与え、冷泉と号す。吾が家今なお二条の家規を井せ用うるは、本これより出ず。後に名を持為と更む、権大納言。持為、成為を生む。将軍左大臣義政公、初め成の字を賜い、後に政の字を賜う、因りて名を政為と改む。享徳二年癸酉五月二十五日、江州小野荘を還し付す。民部卿を兼ね、権大納言たり。政為、為孝を生む、侍従中納言たり。為孝、為豊を生む、侍従従三位。為豊、為純を生む、参議侍従。累世播州に住み、歳時に入朝す。子数人有り、長を為勝と曰う、左近衛権少将たり。次を〓勝と曰う。次は乃ち先生なり。幼くして僧となり、既に長じて、常に聖賢の書を読み、儒術に志嚮し、後遂に還俗す。名は粛、字は斂夫、惺窩と号す。行状に詳らかなり。次を俊久と曰い、姓を源に改め、名は有親、六条有孝の後を継ぐ。次を為将と曰う。天正六年戊寅、
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『玉勝間』十の巻 御子左二条家冷泉家の事惺窩文集、惺窩先生系譜略に曰く、先生の系は、法性寺摂政道長公の第六男長家卿より出ず。長家、官権大納言に至り、御子左と号し、また三条と号す。長家、忠家を生む、権大納言たり、小野宮と号す。忠家、俊忠を生む、権中納言、二条院と号す。俊忠、親家を生む、初め葉室権中納言顕隆の子となり、名を顕広と改め、後に本宗に帰り、また名を俊成と改め、皇太后宮大夫たり、家は五条に居り、世に五条三位と称す。別に播州三木郡細川荘、江州坂田郡小野荘を賜う、これを倭歌所の奉邑となし、嫡子世々封を襲ぐ。俊成、定家を生む、冷泉と号し、後に京極と称す、民部卿権中納言たり、父子相継ぎて倭歌を善くし、永く世の範となる。定家、為家を生む、権大納言、民部卿を兼ね、采地嵯峨中院に住む。為家に子三人有り、長を為氏と曰う、権大納言、御子左と号す、その後裔二条家と称し、また冷泉と号す。次を為教と曰う、左兵衛督、京極と号す。季を為相と曰う、権中納言、冷泉と号す。三家鼎峙して、各門戸を立つ。正元年中、書券を以て播州細河荘を為氏に付す。爾後為氏に不孝の事数有り、為家之を悔い、文永十年癸酉七月二十四日、十一年甲戌六月二十四日、文券両通を以て、為相に付す。建治元年乙亥五月一日、為家薨ず、嵯峨中院に葬る。為相なお幼し、故に為氏強いて細河荘を奪う。為相の母北林禅尼、鎌倉に赴き、将軍惟康親王に訴う。為氏もまたその事を告ぐ。獄久しく決せず。為氏・為世父子、為相と論争して已まず、また将軍守邦親王に訴う。執権相模守平熙時、曲直を判じ、正和二年癸丑七月二十日を以て、公牒一通を為相に賜い、その本邑を復す。その牒今吾が家に存す。後に鎌倉に住み藤谷と号す。
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『玉勝間』十の巻 御子左二条家冷泉家の事上の件、持為卿より末は、下の冷泉殿のすじなり。為経卿は、為景卿の孫なり。上の冷泉殿は、為尹卿の長子、中将為之の朝臣の末なり。さて二条家は、御子左とも云う。為氏卿の子、大納言為世卿の子たち、中将為通の朝臣、中納言為藤卿、中将為冬の朝臣などなおあまたおわせし。長子為通の朝臣の子、権大納言為定卿、その子権大納言為遠卿、その子中将為衡の朝臣なり。次男為藤卿の子、権中納言為明卿なり。末の子為冬の朝臣の子、権中納言為重卿なり。かく為世卿の末、三流れになりて有りつるを、皆末絶えて、二条家は無くなりぬ。然るに歌の道に、なお後まで、二条家と世に云うは、この家の歌のおきてを受け伝えられたる家々を云うなり。その子孫と云うにはあらず。
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『玉勝間』十の巻 玄旨法印の忌日同じ集、玄旨法印をかなしめる詞にいわく。五条のもうちぎみより、京極の黄門の一ながれ、その末絶えずして、この法印まで、正しきすじを伝え来たり給えりとぞ。まことに仰ぐべく、とうとまざらむやは。過ぎにし八月廿日に、かくれ給いぬれば、定家卿の正忌にさえあたりにけり。さるべき契や有りけむ云々。「かわらずよ高きその名もおぐら山秋の廿日にきえし月影。
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『玉勝間』十の巻 歌会同じ記に云う、嘉吉二年九月十八日、今日冷泉中将持和朝臣の宿所に参る、(近衛室町の辺なり)去月この宿所に移住す云々。一盞分撓し、之より雑談に及ぶ。和歌の懐紙の書き様、また会の座に懐紙を置く様、講師已下の条々の作法、具に之を口伝せらる、記録に遑あらざる者なり、云々。同日今夜、飯尾新左衛門尉為数の亭にて和歌会なり、云々。常光院大僧都堯孝題を出すなり。今夜読師たり。蜷川新右衛門入道智蘊講師たり、云々。今夜新右衛門講師の時、堯孝が短冊には、大僧都とよめり。懐紙もまた之に同じ、その外は皆実名、官途実名なり。聊か思惟有るべきか、如何。実名の中、ちと然るべきの輩、微音なり。その験有り、愚存もまたかくの如し。先ず懐紙を講じて後、次に短冊を披講す。
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『玉勝間』十一の巻 堯孝大僧都の事同四年七月五日、後に聞く、常光院権大僧都堯孝法師、今日卒去す。年六十五と云云。頓阿以来、代々の歌人なり。殊に当代家を興す。先年新続古今撰ばるるの時、和歌所の開闔たる者なり。而るに実子無きに依りて清水谷中将実久朝臣を以て養子と為し、家を継がしむ。なお歌道に於いては、兼ねて相続の仁無く、女子(尼衆)を以て吾が道の口伝を授け、形の如くこれを残し置くと云云。世のため道のためこれを惜しむべし。
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