玉勝間 / 十の巻 御子左二条家冷泉家の事
薨葬藤谷岡、墳墓猶存、爲相生爲成、爲左兵衛督、早世、弟爲秀嗣、權中納言、建武亂後、細河小野兩莊、爲人所奪、爲秀無由告訴、徒抱哀痛、爲秀有二男、長曰爲邦、次曰爲尹、爲邦爲爲氏孫爲明之子、繼御子左家、騒亂之間、失其世祿、唯携典籍而家居、尋早世、爲尹乃嗣爲秀後、爲民部卿、爲權大納言、應永二十三年丙申、五月十八日、將軍左大臣義持公、還付播州細河莊于爲尹、爾來傳至爲純、無有爭者、爲尹有三子、長曰爲之、次曰爲員、次曰持和、持和生而頴悟、才過二兄、故爲尹太愛之、釋氏有請以爲弟子者不聽、左大臣義持公賜持字、名持和、因爲伯父爲邦後嗣、傳奇書秘笈、襲號御子左、以采邑不給故來歸、爲尹乃分-與細河之地、號冷泉、吾家今猶井用二條之家規、本出于此、後更名持爲、權大納言、持爲生成爲、將軍左大臣義政公、初賜成字、後賜政字、因改名政爲、享德二年癸酉五月二十五日、還付江州小野莊、兼民部卿、爲權大納言、政爲生爲孝、爲侍從中納言、爲孝生爲豐侍從從三位、爲豐生爲純、參議侍從、累世住播州、歲時入朝有子數人、長曰爲勝、爲左近衛權少將、次曰〓勝、次乃先生也、幼而爲僧、旣長、常讀聖賢之書、志嚮儒術、後遂還俗、名肅字斂夫、號惺窩、詳于行狀、次曰俊久、改姓源、名有親、繼六條有孝後、次曰爲將、天正六年戊寅、
新字:薨葬藤谷岡、墳墓猶存、為相生為成、為左兵衛督、早世、弟為秀嗣、権中納言、建武乱後、細河小野両荘、為人所奪、為秀無由告訴、徒抱哀痛、為秀有二男、長曰為邦、次曰為尹、為邦為為氏孫為明之子、継御子左家、騒乱之間、失其世禄、唯携典籍而家居、尋早世、為尹乃嗣為秀後、為民部卿、為権大納言、応永二十三年丙申、五月十八日、将軍左大臣義持公、還付播州細河荘于為尹、爾来伝至為純、無有争者、為尹有三子、長曰為之、次曰為員、次曰持和、持和生而頴悟、才過二兄、故為尹太愛之、釈氏有請以為弟子者不聴、左大臣義持公賜持字、名持和、因為伯父為邦後嗣、伝奇書秘笈、襲号御子左、以采邑不給故来帰、為尹乃分-与細河之地、号冷泉、吾家今猶井用二条之家規、本出于此、後更名持為、権大納言、持為生成為、将軍左大臣義政公、初賜成字、後賜政字、因改名政為、享徳二年癸酉五月二十五日、還付江州小野荘、兼民部卿、為権大納言、政為生為孝、為侍従中納言、為孝生為豊侍従従三位、為豊生為純、参議侍従、累世住播州、歳時入朝有子数人、長曰為勝、為左近衛権少将、次曰〓勝、次乃先生也、幼而為僧、既長、常読聖賢之書、志嚮儒術、後遂還俗、名粛字斂夫、号惺窩、詳于行状、次曰俊久、改姓源、名有親、継六条有孝後、次曰為将、天正六年戊寅、
書き下し
薨じて藤谷の岡に葬る、墳墓なお存す。為相、為成を生む、左兵衛督たり、早世す。弟為秀嗣ぐ、権中納言。建武の乱の後、細河・小野両荘、人の為に奪わる。為秀告げ訴うるに由無く、徒らに哀痛を抱く。為秀に二男有り、長を為邦と曰い、次を為尹と曰う。為邦は為氏の孫為明の子となり、御子左家を継ぐ。騒乱の間、その世禄を失い、ただ典籍を携えて家居し、尋いで早世す。為尹乃ち為秀の後を嗣ぎ、民部卿たり、権大納言たり。応永二十三年丙申五月十八日、将軍左大臣義持公、播州細河荘を為尹に還し付す。爾来伝えて為純に至るまで、争う者有ること無し。為尹に三子有り、長を為之と曰い、次を為員と曰い、次を持和と曰う。持和生まれて穎悟、才二兄に過ぐ、故に為尹太だ之を愛す。釈氏請いて以て弟子と為さんとする者有れども聴さず。左大臣義持公、持の字を賜い、持和と名づく。因りて伯父為邦の後嗣となり、奇書秘笈を伝え、御子左の号を襲ぐ。采邑給せざるを以ての故に来たり帰る。為尹乃ち細河の地を分かち与え、冷泉と号す。吾が家今なお二条の家規を井せ用うるは、本これより出ず。後に名を持為と更む、権大納言。持為、成為を生む。将軍左大臣義政公、初め成の字を賜い、後に政の字を賜う、因りて名を政為と改む。享徳二年癸酉五月二十五日、江州小野荘を還し付す。民部卿を兼ね、権大納言たり。政為、為孝を生む、侍従中納言たり。為孝、為豊を生む、侍従従三位。為豊、為純を生む、参議侍従。累世播州に住み、歳時に入朝す。子数人有り、長を為勝と曰う、左近衛権少将たり。次を〓勝と曰う。次は乃ち先生なり。幼くして僧となり、既に長じて、常に聖賢の書を読み、儒術に志嚮し、後遂に還俗す。名は粛、字は斂夫、惺窩と号す。行状に詳らかなり。次を俊久と曰い、姓を源に改め、名は有親、六条有孝の後を継ぐ。次を為将と曰う。天正六年戊寅、
現代語訳
為相は亡くなって藤谷の岡に葬られ、墓は今も残っている。為相は為成を生み、為成は左兵衛督となったが早世した。弟の為秀が跡を継ぎ、権中納言となった。建武の乱の後、細河・小野の両荘は他人に奪われたが、為秀には訴え出るすべもなく、むなしく悲しみを抱くばかりだった。為秀には二人の男子があり、長男を為邦、次男を為尹といった。為邦は為氏の孫である為明の子となって御子左家を継いだが、騒乱の間にその家禄を失い、ただ典籍を携えて家に籠り、ほどなく早世した。そこで為尹が為秀の跡を継ぎ、民部卿となり、権大納言となった。応永二十三年(丙申)五月十八日、将軍左大臣足利義持公が播磨の細河荘を為尹に返し与えた。それ以来、伝わって為純に至るまで、争う者はいなかった。為尹には三人の子があり、長男を為之、次男を為員、三男を持和といった。持和は生まれつき聡明で、才能が二人の兄にまさっていたので、為尹はたいへん彼を愛した。僧侶の中に弟子にしたいと願い出る者があったが許さなかった。左大臣義持公が「持」の字を与え、持和と名付けた。そこで伯父為邦の跡継ぎとなり、珍しい書物や秘蔵の文書を伝え、御子左の号を継いだ。しかし領地が与えられなかったので、実家に戻ってきた。為尹はそこで細河の地を分け与え、冷泉と号させた。わが家が今もなお二条家の家法をあわせ用いているのは、もとはここから出ている。のちに名を持為と改め、権大納言となった。持為は成為を生んだ。将軍左大臣足利義政公が初め「成」の字を与え、のちに「政」の字を与えたので、名を政為と改めた。享徳二年(癸酉)五月二十五日、近江の小野荘が返し与えられ、民部卿を兼ね、権大納言となった。政為は為孝を生み、為孝は侍従・中納言となった。為孝は為豊を生み、為豊は侍従・従三位となった。為豊は為純を生み、為純は参議・侍従となった。代々播磨に住み、季節ごとに朝廷に参上した。為純には子が数人あり、長男を為勝といい、左近衛権少将となった。次男を某勝という。その次がすなわち先生である。幼くして僧となり、成長すると、常に聖賢の書を読んで儒学に志し、のちについに還俗した。名は粛、字は斂夫、惺窩と号した。詳しくは行状にある。その次を俊久といい、姓を源に改め、名を有親として、六条有孝の跡を継いだ。その次を為将という。天正六年(戊寅)、
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 御子左二条家冷泉家の事惺窩文集、惺窩先生系譜略に曰く、先生の系は、法性寺摂政道長公の第六男長家卿より出ず。長家、官権大納言に至り、御子左と号し、また三条と号す。長家、忠家を生む、権大納言たり、小野宮と号す。忠家、俊忠を生む、権中納言、二条院と号す。俊忠、親家を生む、初め葉室権中納言顕隆の子となり、名を顕広と改め、後に本宗に帰り、また名を俊成と改め、皇太后宮大夫たり、家は五条に居り、世に五条三位と称す。別に播州三木郡細川荘、江州坂田郡小野荘を賜う、これを倭歌所の奉邑となし、嫡子世々封を襲ぐ。俊成、定家を生む、冷泉と号し、後に京極と称す、民部卿権中納言たり、父子相継ぎて倭歌を善くし、永く世の範となる。定家、為家を生む、権大納言、民部卿を兼ね、采地嵯峨中院に住む。為家に子三人有り、長を為氏と曰う、権大納言、御子左と号す、その後裔二条家と称し、また冷泉と号す。次を為教と曰う、左兵衛督、京極と号す。季を為相と曰う、権中納言、冷泉と号す。三家鼎峙して、各門戸を立つ。正元年中、書券を以て播州細河荘を為氏に付す。爾後為氏に不孝の事数有り、為家之を悔い、文永十年癸酉七月二十四日、十一年甲戌六月二十四日、文券両通を以て、為相に付す。建治元年乙亥五月一日、為家薨ず、嵯峨中院に葬る。為相なお幼し、故に為氏強いて細河荘を奪う。為相の母北林禅尼、鎌倉に赴き、将軍惟康親王に訴う。為氏もまたその事を告ぐ。獄久しく決せず。為氏・為世父子、為相と論争して已まず、また将軍守邦親王に訴う。執権相模守平熙時、曲直を判じ、正和二年癸丑七月二十日を以て、公牒一通を為相に賜い、その本邑を復す。その牒今吾が家に存す。後に鎌倉に住み藤谷と号す。
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『玉勝間』十の巻 御子左二条家冷泉家の事赤松氏の旁族別所小三郎源長治、兵を以て襲い来たり、細河荘を略す。為純・為勝父子之を防ぎ、四月一日戦死す。依藤氏某、事の急なるを聞きて来たり援く。館舎焼亡し、父子已に死す。某来たることの遅きを悔いて、立ちどころに自殺す。土人その義に感じ、三人を合わせ葬り、松三四株を樹え、名づけて冷泉塚と曰い、或いは依藤塚と曰う。播人今に至るまで之を称す。歴世の蔵書、尽く灰燼となる。粛、之を平右府信長公の家臣筑前守秀吉に訟う。秀吉曰く、且く時運を待て、と。竟に果たさず。粛之を如何ともする無し。是に於て正和二年の公牒、及び残編遺書を齎し、母と兄弟とを奉じて同じく京師に来たる。後に弟為将、元服を加え、官位に任叙す。時に既に邑を失い、家もまた幾ど絶ゆ。粛の子為景、初め後水尾帝に奉仕し、図書頭に任じ、細野と号を賜う、細河・小野の首尾の字を取るなり。後光明帝の正保中に勅すらく、冷泉古に両派有り、以て再興すべし、と。旨を東府に伝え、為景を以て復た冷泉と為し、左近衛権少将に任じ、尋いで中将に転ず。城州愛宕郡小山村、相楽郡林村、及び小寺村三所の地を賜う。数顧聞を蒙り、経筵に侍講す。詩歌及び倭文を善くし、著す所に白鴎文集若干巻有り。享保二年花朝の前日、正二位行民部卿藤原為経謹んで識す、と有る、これ二条家冷泉家の大かたなり。
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『玉勝間』十の巻 御子左二条家冷泉家の事上の件、持為卿より末は、下の冷泉殿のすじなり。為経卿は、為景卿の孫なり。上の冷泉殿は、為尹卿の長子、中将為之の朝臣の末なり。さて二条家は、御子左とも云う。為氏卿の子、大納言為世卿の子たち、中将為通の朝臣、中納言為藤卿、中将為冬の朝臣などなおあまたおわせし。長子為通の朝臣の子、権大納言為定卿、その子権大納言為遠卿、その子中将為衡の朝臣なり。次男為藤卿の子、権中納言為明卿なり。末の子為冬の朝臣の子、権中納言為重卿なり。かく為世卿の末、三流れになりて有りつるを、皆末絶えて、二条家は無くなりぬ。然るに歌の道に、なお後まで、二条家と世に云うは、この家の歌のおきてを受け伝えられたる家々を云うなり。その子孫と云うにはあらず。
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『玉勝間』十の巻 歌会同じ記に云う、嘉吉二年九月十八日、今日冷泉中将持和朝臣の宿所に参る、(近衛室町の辺なり)去月この宿所に移住す云々。一盞分撓し、之より雑談に及ぶ。和歌の懐紙の書き様、また会の座に懐紙を置く様、講師已下の条々の作法、具に之を口伝せらる、記録に遑あらざる者なり、云々。同日今夜、飯尾新左衛門尉為数の亭にて和歌会なり、云々。常光院大僧都堯孝題を出すなり。今夜読師たり。蜷川新右衛門入道智蘊講師たり、云々。今夜新右衛門講師の時、堯孝が短冊には、大僧都とよめり。懐紙もまた之に同じ、その外は皆実名、官途実名なり。聊か思惟有るべきか、如何。実名の中、ちと然るべきの輩、微音なり。その験有り、愚存もまたかくの如し。先ず懐紙を講じて後、次に短冊を披講す。
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『玉勝間』十一の巻 堯孝大僧都の事同四年七月五日、後に聞く、常光院権大僧都堯孝法師、今日卒去す。年六十五と云云。頓阿以来、代々の歌人なり。殊に当代家を興す。先年新続古今撰ばるるの時、和歌所の開闔たる者なり。而るに実子無きに依りて清水谷中将実久朝臣を以て養子と為し、家を継がしむ。なお歌道に於いては、兼ねて相続の仁無く、女子(尼衆)を以て吾が道の口伝を授け、形の如くこれを残し置くと云云。世のため道のためこれを惜しむべし。
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『神皇正統記』巻四 第六十八代 後一条院第六十八代、後一条院。諱は敦成、一条第二の子。御母皇后藤原彰子、摂政道長の大臣の女也。丙辰年即位、丁巳に改元。外祖道長のおとゞ摂政せられしが、のちに摂政をば嫡子頼通の内大臣におはせしにゆづり、猶太政大臣にて、天皇御元服の日、加冠・理髪父子ならびて勤仕せられしこそめづらしく侍しか。冷泉・円融の両流かはるがはるしらせ給ひしに、三条院かくれ給てのち、御子敦明の御子、太子にゐ給しが、心とのがれて院号かうぶりて小一条院と申き。これより冷泉の御流はたえにけり。冷泉はこのかみにて御すゑも正統とこそ申べかりしに、昔天暦御時元方の民部卿のむすめ御息所、一のみこ広平親王をうみたてまつる。九条殿の女御まゐり給て、第二の皇子いでき玉ひし比より、悪霊になりてこのみこも邪気になやまされましき。花山院の俄に世をのがれ、三条院の御目のくらく、此東宮のかくみづからしりぞき給ぬるも怨霊のゆゑなりとぞ。
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