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玉勝間 / 九の巻 八百万ノ神と云ふを書紀に八十万ノ神と記されたる事

もろもろの神たちを、すべて云ふには、古事記をはじめて、そのほかの古き書どもにも、皆、八百萬ノ神と云へるぞ常なるに、唯だ書紀にのみは、いづこにもいづこにも、八十萬ノ神とのみ有りて、八百萬神とある所は見えず。こは如何さまにも、撰者の心あることと見えたり。神の御名に、日高と申すをも、彼ノ紀には、皆かへて、彥としるされたるは、當代の天皇の御名をさけられたりとおぼしきを、此ノ八十萬ノ神は、如何なる由にか有らむ、いまだ思ひえず。さてかやうの類ひも、神の御名の文字なども、何も後の世の書どもは、おほかた書紀にのみ由れるを、たまたま此稱は書紀に由らず、今の世にいたるまでも、八百萬ノ神とのみ云ひならへるは、めづらし。

新字:もろもろの神たちを、すべて云ふには、古事記をはじめて、そのほかの古き書どもにも、皆、八百万ノ神と云へるぞ常なるに、唯だ書紀にのみは、いづこにもいづこにも、八十万ノ神とのみ有りて、八百万神とある所は見えず。こは如何さまにも、撰者の心あることと見えたり。神の御名に、日高と申すをも、彼ノ紀には、皆かへて、彦としるされたるは、当代の天皇の御名をさけられたりとおぼしきを、此ノ八十万ノ神は、如何なる由にか有らむ、いまだ思ひえず。さてかやうの類ひも、神の御名の文字なども、何も後の世の書どもは、おほかた書紀にのみ由れるを、たまたま此称は書紀に由らず、今の世にいたるまでも、八百万ノ神とのみ云ひならへるは、めづらし。

書き下し

もろもろの神たちを、すべて云うには、古事記をはじめて、そのほかの古き書どもにも、皆、八百万の神と云えるぞ常なるに、ただ書紀にのみは、いずこにもいずこにも、八十万の神とのみ有りて、八百万神とある所は見えず。こはいかさまにも、撰者の心あることと見えたり。神の御名に、日高と申すをも、彼の紀には、皆かえて、彦としるされたるは、当代の天皇の御名をさけられたりとおぼしきを、この八十万の神は、いかなる由にか有らむ、いまだ思いえず。さてかようの類いも、神の御名の文字なども、何も後の世の書どもは、おおかた書紀にのみ由れるを、たまたまこの称は書紀に由らず、今の世にいたるまでも、八百万の神とのみ云いならえるは、めづらし。

現代語訳

もろもろの神々をすべてまとめて言うには、『古事記』をはじめ、そのほかの古い書物にも、みな「八百万の神」と言うのが常であるのに、ただ『日本書紀』だけは、どこもかしこも「八十万の神」とばかりあって、「八百万神」とある所は見えない。これはどう見ても、撰者に意図があってのことと思われる。神の御名で「日高」と申すのをも、あの書紀ではみな改めて「彦」と記されているのは、当代の天皇の御名を避けられたのだと思われるが、この「八十万の神」はどういう理由であろうか、まだ思いつかない。さてこのような類いも、神の御名の文字なども、何事も後の世の書物はおおかた書紀にばかり拠っているのに、たまたまこの呼び名は書紀に拠らず、今の世に至るまでも「八百万の神」とばかり言い慣わしているのは、珍しい。

解説

神々の総称が、古事記では「八百万の神」、日本書紀では一貫して「八十万の神」となっていることに注目した段である。宣長は、これは撰者の意図による書き換えだと見る。書紀が「日高」を「彦」に改めたのは、編纂当時の天皇の名を避けたのだと考えられる。書紀の完成は元正天皇の代で、その名は氷高(ひだか)であった。しかし八十万に改めた理由は、まだ思い当たらないと正直に記す。さらに、後の世は何事も書紀に拠るのに、この呼び名だけは古事記の「八百万」が今も生きているのは珍しいと言う。わからないことをわからないと書き、なお問いとして残す姿勢は、宣長の考証の誠実さをよく示している。

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