玉勝間 / 九の巻 紀の国の名どころども
玉の浦は、那智山の下なる、粉白浦と云ふ所より、十町ばかり西南に有。離小島と云へるは、玉の浦の南の海中に、ちりぢりに岩あれば、それを云へるなるべし。其外には島は無し。熊野ノ御崎は、那智山の下濱ノ宮よりゆく、海べの道を、大邊地と云ふ。その間に、上野村と云ふ有り。海中へ長くつき出たる崎にて、鹽の御崎とも、鹽崎浦とも云へり。三前神社あり、少彥名ノ命を祭る。此所の海は、のぼり潮くたり潮とて、年を重ねて、片瀨に流れて、しほの滿干にかかはらず、いと早く流るれば、海を渡る船人の、いたく恐るる所なり。有馬ノ村は、新宮より北の方へ、伊勢の方へ、五里ばかり行て、木の本と云ふ所の、廿町ばかり南に有り。そこに產田ノ神社、又花ノ窟あり。里人訛りて、大般若の窟と云ふ。此窟の山、高さ廿四五間、周三町ばかり有り。此窟は、伊邪那美ノ尊を葬奉れる所と云ふを、又或說には、いざなみの尊を葬奉れる所は、產田ノ神社にて、花ノ窟は火ノ神なりとも云へり。楯か崎は、木ノ本ノ庄二木島と云ふ所より、一里ばかり海中に有り。むかしは此所、伊勢と紀の國の堺なりしと、里人云へり。錦の浦は、長島ノ庄長島村の、一里ばかり東なり。此地、むかしは志摩ノ國なりしとぞ。
新字:玉の浦は、那智山の下なる、粉白浦と云ふ所より、十町ばかり西南に有。離小島と云へるは、玉の浦の南の海中に、ちりぢりに岩あれば、それを云へるなるべし。其外には島は無し。熊野ノ御崎は、那智山の下浜ノ宮よりゆく、海べの道を、大辺地と云ふ。その間に、上野村と云ふ有り。海中へ長くつき出たる崎にて、塩の御崎とも、塩崎浦とも云へり。三前神社あり、少彦名ノ命を祭る。此所の海は、のぼり潮くたり潮とて、年を重ねて、片瀨に流れて、しほの満干にかかはらず、いと早く流るれば、海を渡る船人の、いたく恐るる所なり。有馬ノ村は、新宮より北の方へ、伊勢の方へ、五里ばかり行て、木の本と云ふ所の、廿町ばかり南に有り。そこに産田ノ神社、又花ノ窟あり。里人訛りて、大般若の窟と云ふ。此窟の山、高さ廿四五間、周三町ばかり有り。此窟は、伊邪那美ノ尊を葬奉れる所と云ふを、又或説には、いざなみの尊を葬奉れる所は、産田ノ神社にて、花ノ窟は火ノ神なりとも云へり。楯か崎は、木ノ本ノ庄二木島と云ふ所より、一里ばかり海中に有り。むかしは此所、伊勢と紀の国の堺なりしと、里人云へり。錦の浦は、長島ノ庄長島村の、一里ばかり東なり。此地、むかしは志摩ノ国なりしとぞ。
書き下し
玉の浦は、那智山の下なる、粉白浦と云う所より、十町ばかり西南に有り。離小島と云えるは、玉の浦の南の海中に、ちりぢりに岩あれば、それを云えるなるべし。その外には島は無し。熊野の御崎は、那智山の下浜の宮よりゆく、海べの道を、大辺地と云う。その間に、上野村と云う有り。海中へ長くつき出でたる崎にて、塩の御崎とも、塩崎浦とも云えり。三前神社あり、少彦名の命を祭る。この所の海は、のぼり潮くだり潮とて、年を重ねて、片瀬に流れて、しおの満干にかかわらず、いと早く流るれば、海を渡る船人の、いたく恐るる所なり。有馬の村は、新宮より北の方へ、伊勢の方へ、五里ばかり行きて、木の本と云う所の、廿町ばかり南に有り。そこに産田の神社、又花の窟あり。里人訛りて、大般若の窟と云う。この窟の山、高さ廿四五間、周り三町ばかり有り。この窟は、伊邪那美の尊を葬り奉れる所と云うを、又或る説には、いざなみの尊を葬り奉れる所は、産田の神社にて、花の窟は火の神なりとも云えり。楯が崎は、木の本の庄二木島と云う所より、一里ばかり海中に有り。むかしはこの所、伊勢と紀の国の堺なりしと、里人云えり。錦の浦は、長島の庄長島村の、一里ばかり東なり。この地、むかしは志摩の国なりしとぞ。
現代語訳
玉の浦は、那智山の下にある粉白浦という所から、十町ばかり西南にある。「離れ小島」と言っているのは、玉の浦の南の海中に岩が点々とあるので、それを言ったのであろう。そのほかには島はない。熊野の御崎は、那智山の下の浜の宮から行く海辺の道を大辺路と言う。その間に上野村というのがある。海中へ長く突き出た岬で、潮の御崎とも潮崎浦とも言う。三前神社があり、少彦名命を祀る。この所の海は、上り潮・下り潮といって、年中一方に流れて、潮の満ち干に関わらずたいそう速く流れるので、海を渡る船人がひどく恐れる所である。有馬の村は、新宮から北の方、伊勢の方へ五里ばかり行って、木の本という所の二十町ばかり南にある。そこに産田神社と花の窟がある。里人はなまって「大般若の窟」と言う。この窟の山は高さ二十四五間、周囲三町ばかりある。この窟は伊邪那美尊を葬り申し上げた所だと言うが、また或る説には、伊邪那美尊を葬り申し上げた所は産田神社で、花の窟は火の神であるとも言う。楯が崎は、木の本庄の二木島という所から一里ばかり沖にある。昔はここが伊勢と紀伊国の境であったと里人は言う。錦の浦は、長島庄長島村の一里ばかり東である。この地は、昔は志摩国であったという。
解説
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども東西五町に、南北六町ばかり有り。この二つの島を、浦のはつ島と云う。小為手の山は、在田の郡、山保田の庄に、推手村と云う有り、これか。その村は、伊都の郡の堺にて、山のおくなり。白崎は、日高の郡、衣奈の庄衣奈浦の東南の方に、衣奈の八幡と云う有る、その社の縁起に、白崎と云うこと見えたり。三穂の岩屋は、同郡三尾村の廿五町ばかり東南の海べに在り、岩屋の中に、石の観音の像あり、熊野道のうち、日高川塩屋浦のあたりより、西の海べに、一里ばかりの長き松原有りて、和田松原と云う、この岩屋は、その西の際なり。野島阿胡根の浦は、同郡塩屋浦の南に、野島の里あり、その海べを、あこねの浦と云いて、貝の多くよりて集まる所なり。切目山は、同郡熊野道の海べにて、切目坂、切目浦、切目村あり。山は村より一里ばかり東北なり。村の北に、切目の王子の社も有り。磐代は、同郡なり。切目を過ぎて、切目川有りて、次に磐代なり。西岩代東岩代とて村有り、岩代の王子の社、海べに有り。千里の浜は、岩代の南の辺より、南部までのあいだ、一里半ばかりの所を云う。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころどもむかし元弘元年七月三日、大地震にて、紀の国千里の浜、廿よ町がほど、たちまち陸となれる由、太平記にしるせり、三名部は、岩代の南なり、三名部村みなべ浦あり、その十町ばかり海中に、島有り、これ鹿島なり。さて三名部の南に、堺浦と云う有りて、郡堺なり。そこまでは日高の郡、それよりあなたは、牟婁の郡なり。磯間の浦は、田辺の王宿村の南、神子の浜続きに有り。神島は、その一里ばかり海中に有りて、かしまとも云えり。白良浜は、湯崎鉛山と、瀬戸とのあいだに在りて、里人は白浜と云えり。この浜の真砂、遠く見れば、雪のごとし。神の蔵山は、新宮より二町ばかり東南(一書には西南)に有り。社の説に、天照大神と、高倉下と、二神を祭ると云えり。石の階を、六間ばかりのぼりて、上に堂有りて、地蔵の像を置けりと云えり。それを神の倉権現と云いて、その外に社は無し。かの高倉下の命の、神剣を得たりし地は、ここなりとぞ。熊野の村は、新宮に、上熊野、中熊野、下熊野とて、三村あり。三輪が崎は、新宮より那智へゆく道の海べなり。新宮より一里半ばかり有りて、けしきよき所なり。佐野は、佐野村と云う有りて、三輪が崎の続きなり。佐野の岡は、村より七八町北に有り。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども待乳山は、大和の国の堺にて、紀の国伊都の郡なり。角田川は、待乳川の事なるべし。この川みなもとは、葛城山のうちより出でて、北隅田の庄を流れて、きの川に落つるなり。紀の関は、和泉の国より、紀の国の名草の郡に越ゆる、雄山に在りて、南のふもとなる、山口村に近し。袖中抄に、雄山の関守と有り。白鳥の関と云えるもこの関の事なるべし。名草山は、紀三井寺の山なり。飽等浜は、海士の郡賀田浦の南の方に、田倉崎と云う所ある、これなりと、里人の云い伝えたるとぞ。吹上の浜は、若山の西南にて、若の浦の北なり。雄水門は、今若山の内に、湊と云う所に、小野町と云う有りて、蛭子の社ある、そこに雄之芝と云う有り。五瀬の命の薨ましし跡なりと云えり。小野町と云うも、もと雄の町なりと云えり。この蛭子の社に吹上の社と云うをも、並べ祭れり。或る説には、吹上の社は、関戸村の矢の宮なりとも云えり。雑賀浦は、海士の郡にて、雑賀の庄とて、広き所なるその中に、若の浦の西の方に、雑賀崎と云うところ有り、このわたり雑賀の浦なるべし。浦の初島は、同郡、浜中の庄椒村の八町ばかり海中に、地の島と云う有り、東西四町あまり、南北八町ばかりの島なり。その島の三町ばかり西に、又島有りて、沖の島と云う。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども上の件磯間の浦よりこなたは、皆むろの郡なり。そもそもこの紀の国は、古き名どころども多くして、万葉集にも、殊に多く見えたるを、世の人は、いずれの郡にありとだに、え知らぬ所々の多かるを、この国にては、かくれ無くて、皆人よく知れるなど、又さらぬも、書どもには、皆記るしたるが、見過しがたくて、その大かたを写し置きつる中に、確かならぬさまに聞こゆるをば、皆漏らして、さも有りぬべく覚ゆるかぎりを、それかれとえりいでて、記るせる程に、この巻は、すずろに紀の国の名所集のようにぞ成りぬる。なお式にのれる神社どもの御事をも、ことごとく記るしたるも有るを、そは又別にも記るしてむと思えば、ここにはみな漏らしつ。
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『玉勝間』十一の巻 志摩国の名どころしまの国の事をしるせる、志陽略志と云う物に、苧生浦、今浦村と称す。釈円位曰く、鳥羽より以東二里に、江村有り、今の浦本浦と謂う、その本浦は、苧生浦なりと云云。この地に七絶有り、曰く麻を蒔かず、曰く蛙鳴かず、曰く蔣を刈らず、曰く片枝の梨、曰く石面の鏡、曰く逆流の川、曰く四季の桜、(桜崎に在り)これなり。或いは曰く四季の鷺なりと、未だ孰れか是なるを知らず。また伊良湖崎、伊良湖村に在り。この地は、三河国渥美郡なり。この地神島を去ること二里、近きを以て志摩国に混ず。今その海は、志州の有なり。また磯良崎、桃取村に在り、円位曰く、この島の南に突き出づる所、礒良崎と曰うなるか。また佐堤崎、坂手村を謂うなり。或いは曰く、倭姫世記に所謂佐加太伎島は、今の坂手村なり。
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『玉勝間』九の巻 玉津島の神おのれ一とせ、紀の国に物して、若山にしばしありし程、かの国の名所どもの事、しるしたる書ども、これかれと、かしこの人の見せけるを、見たりし中に、岩橋の甚右衛門秀栄と云いし人の、あらわせる物の中に、玉津島の神の考え有り。それにいわく、玉津島を、衣通姫なりと云う事、袋草子、又北畠の親房の卿の、古今の序注に引かれたる、或抄などに見えたれど、拠なき事なり。又近き世に稚日女尊なりと云う説も有れど、それは若の浦と云う地の名によりての、おしあてなるべし。今ひそかに按ずるに、玉津島の神は、神功皇后なるべし。その故は、まず摂津の国住吉の神社四座の中に、第四は、神功皇后なるを、一説に、玉津島と云えり。袖中抄に、故左京亮申されて云う、住吉の神主国基云う。住吉は本三社なり、第四の社は、玉津嶋明神、即ち衣通姫なり。後にいわわれ給う、依て和歌を好み給うと云えり。かく住吉の神主津守の国基の説に、第四の社を、玉津島明神なりと云えるは、玉津島神功皇后なる故に、この伝説有りしなり。然るを即ち衣通姫なりと云えるは、世間の妄説によりて、誤れるなり。さて又玉津嶋を、和歌の神と申すは、もと若の浦の神と云う事なるべし。かの地の名を、若と云えばなり。
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