玉勝間 / 九の巻 紀の国の名どころども
むかし元弘元年七月三日、大地震にて、紀の國千里の濱、廿よ町がほど、たちまち陸となれる由、太平記にしるせり、三名部は、岩代の南なり、三名部村みなべ浦あり、その十町ばかり海中に、島有リ、これ鹿島なり。さて三名部の南に、堺浦と云ふ有て、郡堺なり。そこまでは日高ノ郡、それよりあなたは、牟婁ノ郡なり。磯間ノ浦は、田邊の王宿村の南、神子ノ濱續きに有り。神島は、その一里ばかり海中に有りて、かしまとも云へり。白良濱は、湯崎鉛山と、瀨戶とのあひだに在て、里人は白濱と云へり。此濱の眞砂、遠く見れば、雪のごとし。神ノ藏山は、新宮より二町ばかり東南(一書には西南)に有リ。社の說に、天照大神と、高倉下と、二神を祭ィと云へり。石の階を、六間ばかりのぼりて、上に堂有て、地藏の像を置りと云へり。それを神ノ倉權現と云ひて、其外に社は無し。かの高倉下ノ命の、神劔を得たりし地は、ここなりとぞ。熊野ノ村は、新宮に、上熊野、中熊野、下熊野とて、三村あり。三輪が崎は、新宮より那智へゆく道の海べなり。新宮より一里半ばかり有りて、けしきよき所なり。佐野は、佐野村と云ふ有て、三輪ガ崎の續きなり。佐野ノ岡は、村より七八町北に有り。
新字:むかし元弘元年七月三日、大地震にて、紀の国千里の浜、廿よ町がほど、たちまち陸となれる由、太平記にしるせり、三名部は、岩代の南なり、三名部村みなべ浦あり、その十町ばかり海中に、島有リ、これ鹿島なり。さて三名部の南に、堺浦と云ふ有て、郡堺なり。そこまでは日高ノ郡、それよりあなたは、牟婁ノ郡なり。磯間ノ浦は、田辺の王宿村の南、神子ノ浜続きに有り。神島は、その一里ばかり海中に有りて、かしまとも云へり。白良浜は、湯崎鉛山と、瀨戸とのあひだに在て、里人は白浜と云へり。此浜の真砂、遠く見れば、雪のごとし。神ノ蔵山は、新宮より二町ばかり東南(一書には西南)に有リ。社の説に、天照大神と、高倉下と、二神を祭ィと云へり。石の階を、六間ばかりのぼりて、上に堂有て、地蔵の像を置りと云へり。それを神ノ倉権現と云ひて、其外に社は無し。かの高倉下ノ命の、神剣を得たりし地は、ここなりとぞ。熊野ノ村は、新宮に、上熊野、中熊野、下熊野とて、三村あり。三輪が崎は、新宮より那智へゆく道の海べなり。新宮より一里半ばかり有りて、けしきよき所なり。佐野は、佐野村と云ふ有て、三輪ガ崎の続きなり。佐野ノ岡は、村より七八町北に有り。
書き下し
むかし元弘元年七月三日、大地震にて、紀の国千里の浜、廿よ町がほど、たちまち陸となれる由、太平記にしるせり、三名部は、岩代の南なり、三名部村みなべ浦あり、その十町ばかり海中に、島有り、これ鹿島なり。さて三名部の南に、堺浦と云う有りて、郡堺なり。そこまでは日高の郡、それよりあなたは、牟婁の郡なり。磯間の浦は、田辺の王宿村の南、神子の浜続きに有り。神島は、その一里ばかり海中に有りて、かしまとも云えり。白良浜は、湯崎鉛山と、瀬戸とのあいだに在りて、里人は白浜と云えり。この浜の真砂、遠く見れば、雪のごとし。神の蔵山は、新宮より二町ばかり東南(一書には西南)に有り。社の説に、天照大神と、高倉下と、二神を祭ると云えり。石の階を、六間ばかりのぼりて、上に堂有りて、地蔵の像を置けりと云えり。それを神の倉権現と云いて、その外に社は無し。かの高倉下の命の、神剣を得たりし地は、ここなりとぞ。熊野の村は、新宮に、上熊野、中熊野、下熊野とて、三村あり。三輪が崎は、新宮より那智へゆく道の海べなり。新宮より一里半ばかり有りて、けしきよき所なり。佐野は、佐野村と云う有りて、三輪が崎の続きなり。佐野の岡は、村より七八町北に有り。
現代語訳
昔、元弘元年(1331)七月三日に大地震があって、紀伊国の千里の浜が二十余町ほど、たちまち陸地になったことが『太平記』に記されている。三名部は岩代の南である。三名部村と、みなべ浦がある。その十町ばかり沖に島があり、これが鹿島である。さて三名部の南に堺浦というのがあって、郡の境である。そこまでは日高郡、それより先は牟婁郡である。磯間の浦は、田辺の王宿村の南、神子の浜に続いてある。神島はその一里ばかり沖にあって、「かしま」とも言う。白良の浜は、湯崎の鉛山と瀬戸との間にあって、里人は白浜と言う。この浜の砂は、遠くから見ると雪のようである。神の蔵山は、新宮から二町ばかり東南(ある書には西南)にある。社の説では、天照大神と高倉下の二神を祀ると言う。石段を六間ばかり上ると上に堂があり、地蔵の像を置いていると言う。それを神の倉権現と言って、そのほかに社はない。あの高倉下命が神剣を得た地はここだという。熊野の村は、新宮に上熊野・中熊野・下熊野という三つの村がある。三輪が崎は、新宮から那智へ行く道の海辺である。新宮から一里半ばかりで、景色のよい所である。佐野は佐野村というのがあって、三輪が崎の続きである。佐野の岡は、村から七八町北にある。
解説
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども東西五町に、南北六町ばかり有り。この二つの島を、浦のはつ島と云う。小為手の山は、在田の郡、山保田の庄に、推手村と云う有り、これか。その村は、伊都の郡の堺にて、山のおくなり。白崎は、日高の郡、衣奈の庄衣奈浦の東南の方に、衣奈の八幡と云う有る、その社の縁起に、白崎と云うこと見えたり。三穂の岩屋は、同郡三尾村の廿五町ばかり東南の海べに在り、岩屋の中に、石の観音の像あり、熊野道のうち、日高川塩屋浦のあたりより、西の海べに、一里ばかりの長き松原有りて、和田松原と云う、この岩屋は、その西の際なり。野島阿胡根の浦は、同郡塩屋浦の南に、野島の里あり、その海べを、あこねの浦と云いて、貝の多くよりて集まる所なり。切目山は、同郡熊野道の海べにて、切目坂、切目浦、切目村あり。山は村より一里ばかり東北なり。村の北に、切目の王子の社も有り。磐代は、同郡なり。切目を過ぎて、切目川有りて、次に磐代なり。西岩代東岩代とて村有り、岩代の王子の社、海べに有り。千里の浜は、岩代の南の辺より、南部までのあいだ、一里半ばかりの所を云う。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども玉の浦は、那智山の下なる、粉白浦と云う所より、十町ばかり西南に有り。離小島と云えるは、玉の浦の南の海中に、ちりぢりに岩あれば、それを云えるなるべし。その外には島は無し。熊野の御崎は、那智山の下浜の宮よりゆく、海べの道を、大辺地と云う。その間に、上野村と云う有り。海中へ長くつき出でたる崎にて、塩の御崎とも、塩崎浦とも云えり。三前神社あり、少彦名の命を祭る。この所の海は、のぼり潮くだり潮とて、年を重ねて、片瀬に流れて、しおの満干にかかわらず、いと早く流るれば、海を渡る船人の、いたく恐るる所なり。有馬の村は、新宮より北の方へ、伊勢の方へ、五里ばかり行きて、木の本と云う所の、廿町ばかり南に有り。そこに産田の神社、又花の窟あり。里人訛りて、大般若の窟と云う。この窟の山、高さ廿四五間、周り三町ばかり有り。この窟は、伊邪那美の尊を葬り奉れる所と云うを、又或る説には、いざなみの尊を葬り奉れる所は、産田の神社にて、花の窟は火の神なりとも云えり。楯が崎は、木の本の庄二木島と云う所より、一里ばかり海中に有り。むかしはこの所、伊勢と紀の国の堺なりしと、里人云えり。錦の浦は、長島の庄長島村の、一里ばかり東なり。この地、むかしは志摩の国なりしとぞ。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども上の件磯間の浦よりこなたは、皆むろの郡なり。そもそもこの紀の国は、古き名どころども多くして、万葉集にも、殊に多く見えたるを、世の人は、いずれの郡にありとだに、え知らぬ所々の多かるを、この国にては、かくれ無くて、皆人よく知れるなど、又さらぬも、書どもには、皆記るしたるが、見過しがたくて、その大かたを写し置きつる中に、確かならぬさまに聞こゆるをば、皆漏らして、さも有りぬべく覚ゆるかぎりを、それかれとえりいでて、記るせる程に、この巻は、すずろに紀の国の名所集のようにぞ成りぬる。なお式にのれる神社どもの御事をも、ことごとく記るしたるも有るを、そは又別にも記るしてむと思えば、ここにはみな漏らしつ。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども待乳山は、大和の国の堺にて、紀の国伊都の郡なり。角田川は、待乳川の事なるべし。この川みなもとは、葛城山のうちより出でて、北隅田の庄を流れて、きの川に落つるなり。紀の関は、和泉の国より、紀の国の名草の郡に越ゆる、雄山に在りて、南のふもとなる、山口村に近し。袖中抄に、雄山の関守と有り。白鳥の関と云えるもこの関の事なるべし。名草山は、紀三井寺の山なり。飽等浜は、海士の郡賀田浦の南の方に、田倉崎と云う所ある、これなりと、里人の云い伝えたるとぞ。吹上の浜は、若山の西南にて、若の浦の北なり。雄水門は、今若山の内に、湊と云う所に、小野町と云う有りて、蛭子の社ある、そこに雄之芝と云う有り。五瀬の命の薨ましし跡なりと云えり。小野町と云うも、もと雄の町なりと云えり。この蛭子の社に吹上の社と云うをも、並べ祭れり。或る説には、吹上の社は、関戸村の矢の宮なりとも云えり。雑賀浦は、海士の郡にて、雑賀の庄とて、広き所なるその中に、若の浦の西の方に、雑賀崎と云うところ有り、このわたり雑賀の浦なるべし。浦の初島は、同郡、浜中の庄椒村の八町ばかり海中に、地の島と云う有り、東西四町あまり、南北八町ばかりの島なり。その島の三町ばかり西に、又島有りて、沖の島と云う。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の鳴滝新古今集神祇の部に、思うこと身にあまるまでなる滝の云云と云える歌の、なる滝は、紀の国名草の郡、園部村の奥に在りて、いにしえ修験道の一場にして、名高き所なり。役の小角開基と云えり。熊野の神の、夢に告げ給えること、よし有り、今の世に、本宮の辺に、鳴滝とてあるは、かの歌によりて、後につけたる名なりと、これも同書に云えり。
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『玉勝間』九の巻 黒牛潟藤白糸鹿山さて十八町が程、藤白の御坂をのぼりて、たむけに寺有り、そのすこし西のかたに、御所の芝と云う有るは、いにしえ熊野御幸のおりの、頓宮の御あととなん、云い伝えたる。いと見わたしの景色よき所にぞ有りける。在田の郡なる、須佐の神社の神主、出羽の守岩橋の時倚は、おのが教え子なるを、御社にもうでがてら、とぶらいて、それが家に、一夜やどりたりし。そのゆききに、上のくだりの所々は、見たりしなり。このすさの御社は、千田と云う里の、山陰にたたせ給いて、熊野道よりは、西の方へわかれて、在田川の川ぞいを、くだり行く所なり。糸鹿山は、熊野の道の坂にて、これも在田郡なり。北の麓に、糸我の里、又糸我の王子の社と云うも有りとぞ。在田川のあたりより、この山、南のかたに、近く見えたりしかど、かしこまでは、え物せざりしを、このいとがの里の林なにがし、中山のなにがし、二人、おのが弟子になりに、かの岩はしが家にきて、初めて逢いける。この人どもぞ、かのわたりの事ども、なにくれと語りたりし。
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