玉勝間 / 九の巻 紀の国の名どころども
待乳山は、大和ノ國の堺にて、紀の國伊都ノ郡なり。角田川は、待乳川の事なるべし。此川みなもとは、葛城山のうちより出て、北隅田ノ庄を流れて、きの川に落つるなり。紀の關は、和泉ノ國より、紀の國の名草ノ郡に越ゆる、雄山に在て、南のふもとなる、山口村に近し。袖中抄に、雄山の關守と有り。白鳥ノ關と云へるも此關の事なるべし。名草山は、紀三井寺の山なり。飽等濱は、海士ノ郡賀田浦の南の方に、田倉崎と云ふ所ある、是れなりと、里人の云ひ傳へたるとぞ。吹上ノ濱は、若山の西南にて、若ノ浦の北なり。雄水門は、今若山の內に、湊と云ふ所に、小野町と云ふ有て、蛭子ノ社ある、そこに雄之芝と云ふ有り。五瀨ノ命の薨ましし跡なりと云へり。小野町と云ふも、もと雄の町なりと云へり。此蛭子ノ社に吹上ノ社と云ふをも、並べ祭れり。或說には、吹上ノ社は、關戶村の矢の宮なりとも云へり。雜賀浦は、海士ノ郡にて、雜賀ノ庄とて、廣き所なる其中に、若ノ浦の西の方に、雜賀崎と云ふところ有、此わたり雜賀ノ浦なるべし。浦の初島は、同郡、濱中ノ庄椒村の八町ばかり海中に、地の島と云ふ有り、東西四町あまり、南北八町ばかりの島なり。其島の三町ばかり西に、又島有て、沖の島と云ふ。
新字:待乳山は、大和ノ国の堺にて、紀の国伊都ノ郡なり。角田川は、待乳川の事なるべし。此川みなもとは、葛城山のうちより出て、北隅田ノ庄を流れて、きの川に落つるなり。紀の関は、和泉ノ国より、紀の国の名草ノ郡に越ゆる、雄山に在て、南のふもとなる、山口村に近し。袖中抄に、雄山の関守と有り。白鳥ノ関と云へるも此関の事なるべし。名草山は、紀三井寺の山なり。飽等浜は、海士ノ郡賀田浦の南の方に、田倉崎と云ふ所ある、是れなりと、里人の云ひ伝へたるとぞ。吹上ノ浜は、若山の西南にて、若ノ浦の北なり。雄水門は、今若山の内に、湊と云ふ所に、小野町と云ふ有て、蛭子ノ社ある、そこに雄之芝と云ふ有り。五瀨ノ命の薨ましし跡なりと云へり。小野町と云ふも、もと雄の町なりと云へり。此蛭子ノ社に吹上ノ社と云ふをも、並べ祭れり。或説には、吹上ノ社は、関戸村の矢の宮なりとも云へり。雑賀浦は、海士ノ郡にて、雑賀ノ庄とて、広き所なる其中に、若ノ浦の西の方に、雑賀崎と云ふところ有、此わたり雑賀ノ浦なるべし。浦の初島は、同郡、浜中ノ庄椒村の八町ばかり海中に、地の島と云ふ有り、東西四町あまり、南北八町ばかりの島なり。其島の三町ばかり西に、又島有て、沖の島と云ふ。
書き下し
待乳山は、大和の国の堺にて、紀の国伊都の郡なり。角田川は、待乳川の事なるべし。この川みなもとは、葛城山のうちより出でて、北隅田の庄を流れて、きの川に落つるなり。紀の関は、和泉の国より、紀の国の名草の郡に越ゆる、雄山に在りて、南のふもとなる、山口村に近し。袖中抄に、雄山の関守と有り。白鳥の関と云えるもこの関の事なるべし。名草山は、紀三井寺の山なり。飽等浜は、海士の郡賀田浦の南の方に、田倉崎と云う所ある、これなりと、里人の云い伝えたるとぞ。吹上の浜は、若山の西南にて、若の浦の北なり。雄水門は、今若山の内に、湊と云う所に、小野町と云う有りて、蛭子の社ある、そこに雄之芝と云う有り。五瀬の命の薨ましし跡なりと云えり。小野町と云うも、もと雄の町なりと云えり。この蛭子の社に吹上の社と云うをも、並べ祭れり。或る説には、吹上の社は、関戸村の矢の宮なりとも云えり。雑賀浦は、海士の郡にて、雑賀の庄とて、広き所なるその中に、若の浦の西の方に、雑賀崎と云うところ有り、このわたり雑賀の浦なるべし。浦の初島は、同郡、浜中の庄椒村の八町ばかり海中に、地の島と云う有り、東西四町あまり、南北八町ばかりの島なり。その島の三町ばかり西に、又島有りて、沖の島と云う。
現代語訳
待乳山は大和国との境で、紀伊国伊都郡である。角田川は待乳川のことであろう。この川の水源は葛城山の中から出て、北隅田庄を流れて紀の川に注ぐ。紀の関は、和泉国から紀伊国名草郡へ越える雄山にあって、南のふもとの山口村に近い。『袖中抄』に「雄山の関守」とある。白鳥の関と言っているのもこの関のことであろう。名草山は紀三井寺の山である。飽等の浜は、海士郡賀田浦の南の方に田倉崎という所があるのがそれだと、里人が言い伝えているという。吹上の浜は若山(和歌山)の西南で、若の浦の北である。雄水門は、今の若山の中の湊という所に小野町というのがあって、蛭子の社がある、そこに雄之芝というのがある。五瀬命がお亡くなりになった跡だと言っている。小野町というのも、もとは雄の町だと言っている。この蛭子の社に、吹上の社というのも並べて祀っている。ある説には、吹上の社は関戸村の矢の宮だとも言う。雑賀浦は海士郡で、雑賀庄という広い所の中に、若の浦の西の方に雑賀崎という所があり、このあたりが雑賀の浦であろう。浦の初島は、同じ郡の浜中庄椒村から八町ばかり沖に地の島というのがあり、東西四町余り、南北八町ばかりの島である。その島の三町ばかり西にまた島があって、沖の島と言う。
解説
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども東西五町に、南北六町ばかり有り。この二つの島を、浦のはつ島と云う。小為手の山は、在田の郡、山保田の庄に、推手村と云う有り、これか。その村は、伊都の郡の堺にて、山のおくなり。白崎は、日高の郡、衣奈の庄衣奈浦の東南の方に、衣奈の八幡と云う有る、その社の縁起に、白崎と云うこと見えたり。三穂の岩屋は、同郡三尾村の廿五町ばかり東南の海べに在り、岩屋の中に、石の観音の像あり、熊野道のうち、日高川塩屋浦のあたりより、西の海べに、一里ばかりの長き松原有りて、和田松原と云う、この岩屋は、その西の際なり。野島阿胡根の浦は、同郡塩屋浦の南に、野島の里あり、その海べを、あこねの浦と云いて、貝の多くよりて集まる所なり。切目山は、同郡熊野道の海べにて、切目坂、切目浦、切目村あり。山は村より一里ばかり東北なり。村の北に、切目の王子の社も有り。磐代は、同郡なり。切目を過ぎて、切目川有りて、次に磐代なり。西岩代東岩代とて村有り、岩代の王子の社、海べに有り。千里の浜は、岩代の南の辺より、南部までのあいだ、一里半ばかりの所を云う。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども玉の浦は、那智山の下なる、粉白浦と云う所より、十町ばかり西南に有り。離小島と云えるは、玉の浦の南の海中に、ちりぢりに岩あれば、それを云えるなるべし。その外には島は無し。熊野の御崎は、那智山の下浜の宮よりゆく、海べの道を、大辺地と云う。その間に、上野村と云う有り。海中へ長くつき出でたる崎にて、塩の御崎とも、塩崎浦とも云えり。三前神社あり、少彦名の命を祭る。この所の海は、のぼり潮くだり潮とて、年を重ねて、片瀬に流れて、しおの満干にかかわらず、いと早く流るれば、海を渡る船人の、いたく恐るる所なり。有馬の村は、新宮より北の方へ、伊勢の方へ、五里ばかり行きて、木の本と云う所の、廿町ばかり南に有り。そこに産田の神社、又花の窟あり。里人訛りて、大般若の窟と云う。この窟の山、高さ廿四五間、周り三町ばかり有り。この窟は、伊邪那美の尊を葬り奉れる所と云うを、又或る説には、いざなみの尊を葬り奉れる所は、産田の神社にて、花の窟は火の神なりとも云えり。楯が崎は、木の本の庄二木島と云う所より、一里ばかり海中に有り。むかしはこの所、伊勢と紀の国の堺なりしと、里人云えり。錦の浦は、長島の庄長島村の、一里ばかり東なり。この地、むかしは志摩の国なりしとぞ。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども上の件磯間の浦よりこなたは、皆むろの郡なり。そもそもこの紀の国は、古き名どころども多くして、万葉集にも、殊に多く見えたるを、世の人は、いずれの郡にありとだに、え知らぬ所々の多かるを、この国にては、かくれ無くて、皆人よく知れるなど、又さらぬも、書どもには、皆記るしたるが、見過しがたくて、その大かたを写し置きつる中に、確かならぬさまに聞こゆるをば、皆漏らして、さも有りぬべく覚ゆるかぎりを、それかれとえりいでて、記るせる程に、この巻は、すずろに紀の国の名所集のようにぞ成りぬる。なお式にのれる神社どもの御事をも、ことごとく記るしたるも有るを、そは又別にも記るしてむと思えば、ここにはみな漏らしつ。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころどもむかし元弘元年七月三日、大地震にて、紀の国千里の浜、廿よ町がほど、たちまち陸となれる由、太平記にしるせり、三名部は、岩代の南なり、三名部村みなべ浦あり、その十町ばかり海中に、島有り、これ鹿島なり。さて三名部の南に、堺浦と云う有りて、郡堺なり。そこまでは日高の郡、それよりあなたは、牟婁の郡なり。磯間の浦は、田辺の王宿村の南、神子の浜続きに有り。神島は、その一里ばかり海中に有りて、かしまとも云えり。白良浜は、湯崎鉛山と、瀬戸とのあいだに在りて、里人は白浜と云えり。この浜の真砂、遠く見れば、雪のごとし。神の蔵山は、新宮より二町ばかり東南(一書には西南)に有り。社の説に、天照大神と、高倉下と、二神を祭ると云えり。石の階を、六間ばかりのぼりて、上に堂有りて、地蔵の像を置けりと云えり。それを神の倉権現と云いて、その外に社は無し。かの高倉下の命の、神剣を得たりし地は、ここなりとぞ。熊野の村は、新宮に、上熊野、中熊野、下熊野とて、三村あり。三輪が崎は、新宮より那智へゆく道の海べなり。新宮より一里半ばかり有りて、けしきよき所なり。佐野は、佐野村と云う有りて、三輪が崎の続きなり。佐野の岡は、村より七八町北に有り。
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『玉勝間』九の巻 妹背山背の山は、書紀の孝徳天皇の御巻に、畿内の堺を定めらるるところに、南は紀伊の兄山より以来と有りて、兄、此をば制と云うと、訓注も有り。さて万葉には、一の巻持統天皇の御代の歌より、始めて見えて、多くこの山を越えゆくよし、端詞にも歌にも見えたり。妹山と云える事は、同集七の巻の歌に二首と十三の巻に一首と見え、合わせてひとつに、妹背の山と詠めるは、四の巻七の巻に見えたり。かくて顕昭の袖中抄に妹背山とは、紀国に、吉野川を隔てて、妹の山せの山とて、二つの山あるなりと云い、契沖勝地吐懐篇には、妹背山は、紀の川をへだてて、兄山は北に、妹山は南に有りと云い、紀の国の或る書には、背山は、伊都の郡賀勢田の庄、背山村の西北に有り、妹山は、背山村の二町あまり南、紀の川の南の辺に有りと云えり。宣長つらつら思うに、兄の山は、はやく孝徳紀に見え、万葉の歌によめる趣も、たしかなるを、妹山と云うは、兄山あるにつきて、ただ設けて云える名にて、実に然か云う山在るには有らじとぞ思う。
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『玉勝間』九の巻 妹背山なお妹山と云う山は、まことには無き事と思わるるは、今にいたるまで、兄山はたしかにて、背山村と云うさえ有るを、妹山は、まぎらわしくして、定かならず。その故はまず上に引ける袖中抄などは、ただ古今集の歌によりて、大よそに云えるなれば、証にはなりがたし。契沖が云えるようも、なおおおよそなるを、かの或る書に云えるは、こまやかなれど、紀の川の南の辺に在りと云えるは、いずれの山を指して云えるにか、なおまぎらわし。こは思うに、紀の川の川中に有る岩山を云えるなるべし。然るにおのれ船よりこの川を下りける時、見けるに、その山は、川中ながらも北の岸にちかき所に在りて、水は山の南の腰を流るれば、川の南の辺と云える事たがえり。そは川瀬の移りたるにやとも思えど、なおこれも古今集の歌にかなえむとて、南の辺とは、云いまぎらかし置きつるにや。又まぎらわしきは、貝原の篤信がいわく。名手の瀬の山にいたりて云云、もし妹背山この所ならば向かいは妹山なるべきに、妹山と云うべき山無し、この山は、川瀬の中に在れば、瀬の山なり、妹背山にあらずと云えり。然れば、そのころ里人なども、この川中なるをせの山と云えるにや。
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