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玉勝間 / 九の巻 妹背山

背の山は、書紀の孝德天皇の御卷に、畿内の堺を定めらるるところに、南自紀伊兄山以來と有て、兄此云制と、訓注も有り。さて萬葉には、一の卷持統天皇の御代の歌より、始めて見えて、多く此山を越えゆくよし、端詞にも歌にも見えたり。妹山と云へる事は、同集七の卷の歌に二首と十三の卷に一首と見え、合せてひとつに、妹背の山と詠めるは、四の卷七の卷に見えたり。かくて顯昭の袖中抄に妹背山とは、紀國に、吉野川を隔てて、妹の山せの山とて、二つの山あるなりと云ひ、契沖勝地吐懷篇には、妹背山は、紀の川をへだてて、兄山は北に、妹山は南に有りと云ひ、紀の國の或書には、背山は、伊都ノ郡賀勢田ノ庄、背山村の西北に有り、妹山は、背山村の二町あまり南、紀の川の南の邊に有りと云へり。宣長つらつら思ふに、兄ノ山は、はやく孝德紀に見え、萬葉の歌によめる趣も、たしかなるを、妹山と云ふは、兄山あるにつきて、唯だ設けて云へる名にて、實に然か云ふ山在るには有らじとぞ思ふ。

新字:背の山は、書紀の孝徳天皇の御巻に、畿内の堺を定めらるるところに、南自紀伊兄山以来と有て、兄此云制と、訓注も有り。さて万葉には、一の巻持統天皇の御代の歌より、始めて見えて、多く此山を越えゆくよし、端詞にも歌にも見えたり。妹山と云へる事は、同集七の巻の歌に二首と十三の巻に一首と見え、合せてひとつに、妹背の山と詠めるは、四の巻七の巻に見えたり。かくて顕昭の袖中抄に妹背山とは、紀国に、吉野川を隔てて、妹の山せの山とて、二つの山あるなりと云ひ、契沖勝地吐懐篇には、妹背山は、紀の川をへだてて、兄山は北に、妹山は南に有りと云ひ、紀の国の或書には、背山は、伊都ノ郡賀勢田ノ庄、背山村の西北に有り、妹山は、背山村の二町あまり南、紀の川の南の辺に有りと云へり。宣長つらつら思ふに、兄ノ山は、はやく孝徳紀に見え、万葉の歌によめる趣も、たしかなるを、妹山と云ふは、兄山あるにつきて、唯だ設けて云へる名にて、実に然か云ふ山在るには有らじとぞ思ふ。

書き下し

背の山は、書紀の孝徳天皇の御巻に、畿内の堺を定めらるるところに、南は紀伊の兄山より以来と有りて、兄、此をば制と云うと、訓注も有り。さて万葉には、一の巻持統天皇の御代の歌より、始めて見えて、多くこの山を越えゆくよし、端詞にも歌にも見えたり。妹山と云える事は、同集七の巻の歌に二首と十三の巻に一首と見え、合わせてひとつに、妹背の山と詠めるは、四の巻七の巻に見えたり。かくて顕昭の袖中抄に妹背山とは、紀国に、吉野川を隔てて、妹の山せの山とて、二つの山あるなりと云い、契沖勝地吐懐篇には、妹背山は、紀の川をへだてて、兄山は北に、妹山は南に有りと云い、紀の国の或る書には、背山は、伊都の郡賀勢田の庄、背山村の西北に有り、妹山は、背山村の二町あまり南、紀の川の南の辺に有りと云えり。宣長つらつら思うに、兄の山は、はやく孝徳紀に見え、万葉の歌によめる趣も、たしかなるを、妹山と云うは、兄山あるにつきて、ただ設けて云える名にて、実に然か云う山在るには有らじとぞ思う。

現代語訳

背の山は、『日本書紀』の孝徳天皇の巻に、畿内の境を定められるところで「南は紀伊の兄山より以来」とあって、「兄、これを『せ』と云う」という訓注もある。さて『万葉集』には、巻一の持統天皇の御代の歌から初めて見えて、多くはこの山を越えて行く旨が、題詞にも歌にも見えている。妹山ということは、同じ集の巻七の歌に二首、巻十三に一首見え、両方を合わせて一つに「妹背の山」と詠んだのは、巻四と巻七に見える。こうして顕昭の『袖中抄』には、妹背山とは紀伊国に吉野川を隔てて妹の山・背の山という二つの山があるのだと言い、契沖の『勝地吐懐編』には、妹背山は紀の川を隔てて兄山は北に、妹山は南にあると言い、紀伊国のある書物には、背山は伊都郡賀勢田庄の背山村の西北にあり、妹山は背山村の二町余り南、紀の川の南岸にあると言っている。私、宣長がよくよく考えるに、兄の山は早く孝徳紀に見え、『万葉集』の歌に詠んだ様子も確かであるが、妹山というのは、兄山があることにちなんで、ただ仮に設けて言った名で、実際にそういう山があるのではあるまいと思う。

解説

名高い歌枕「妹背山」について、宣長が自説を立てた長い考証の始まりである。背の山は『日本書紀』の大化の改新の詔に畿内の南の境として見え、『万葉集』にも越えて行く山として何度も詠まれている。一方、妹山は数首に見えるだけである。顕昭、契沖、紀伊の地誌はいずれも妹山と背山の二つの山があるとし、その位置を説いてきた。宣長は、背の山は確かに実在するが、妹山は「せ(兄)」の名に対して歌の上で設けた名で、実際の山ではないと考える。先人の権威ある説がそろっていても、史料の重みを比べて異を唱える。「宣長つらつら思うに」と自ら名乗って説を出すところに、この考証への自負が表れている。

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