玉勝間 / 九の巻 妹背山
すべて歌に名所を詠めること、その所にいたりて見たるさまを詠めるなどこそ、後ノ世のと云へども、より所とすべきは有れ、さらぬ戀の歌などに詠めるは、古へのも、唯だ古き歌に詠める事をとりて、あやにしたること多ければ、多くは其名どころの考への證にはなり難きわざなるを、此いもせ山の事、昔より誰れも誰れも、只かの古今集の歌にのみなづみて思へるは、委しからぬ事ぞかし。又かの續古今集に、延喜の御とてのせたる歌、玉葉に篁ノ卿のとせる歌などは、いたく後のさまにて、さらにその世の歌ざまにあらず。云ひなしざま古今集なるによれる事しるし。たとひまことにその歌どもにも有れ、古今集なるは古く聞ゆれば、かれによれるは論無ければ、まして證にはいかでかなるべき。
新字:すべて歌に名所を詠めること、その所にいたりて見たるさまを詠めるなどこそ、後ノ世のと云へども、より所とすべきは有れ、さらぬ恋の歌などに詠めるは、古へのも、唯だ古き歌に詠める事をとりて、あやにしたること多ければ、多くは其名どころの考への証にはなり難きわざなるを、此いもせ山の事、昔より誰れも誰れも、只かの古今集の歌にのみなづみて思へるは、委しからぬ事ぞかし。又かの続古今集に、延喜の御とてのせたる歌、玉葉に篁ノ卿のとせる歌などは、いたく後のさまにて、さらにその世の歌ざまにあらず。云ひなしざま古今集なるによれる事しるし。たとひまことにその歌どもにも有れ、古今集なるは古く聞ゆれば、かれによれるは論無ければ、まして証にはいかでかなるべき。
書き下し
すべて歌に名所を詠めること、その所にいたりて見たるさまを詠めるなどこそ、後の世のと云えども、より所とすべきは有れ、さらぬ恋の歌などに詠めるは、古えのも、ただ古き歌に詠める事をとりて、あやにしたること多ければ、多くはその名どころの考えの証にはなり難きわざなるを、このいもせ山の事、昔より誰も誰も、ただかの古今集の歌にのみなずみて思えるは、委しからぬ事ぞかし。又かの続古今集に、延喜の御とてのせたる歌、玉葉に篁の卿のとせる歌などは、いたく後のさまにて、さらにその世の歌ざまにあらず。云いなしざま古今集なるによれる事しるし。たとい実にその歌どもにも有れ、古今集なるは古く聞こゆれば、かれによれるは論無ければ、まして証にはいかでかなるべき。
現代語訳
およそ歌に名所を詠むことについては、その場所に行って見た様子を詠んだものなどこそ、後の世のものであっても拠り所とすべきであるが、そうでない恋の歌などに詠んだものは、昔のものでも、ただ古い歌に詠んだことを取って言葉の綾にしたことが多いので、多くはその名所の考証の証拠にはなりがたいものである。それなのにこの妹背山のことを、昔から誰も彼も、ただあの『古今集』の歌にばかりこだわって考えてきたのは、詳しくないことである。またあの『続古今集』に延喜の御製として載せた歌や、『玉葉集』に篁卿の歌とした歌などは、ひどく後の時代の様子で、決してその時代の歌の風ではない。言い回しが『古今集』の歌によっていることは明らかである。たとえ本当にその人々の歌であったとしても、『古今集』の歌の方が古く聞こえるので、それによっていることは論をまたないから、まして証拠にどうしてなるだろうか。
解説
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 妹背山そは万葉三の巻に、かけまくほしき妹の名を、このせの山にかけばいかに有らむ、又このせの山を妹とはよばじ、など、兄の山と云う名につきて、妹と云う事をも詠めれば、又妹山と云うことをも、もうけて、歌のふしとせるなるべし。されば背の山の事は、たしかに詠めれど、妹山の事とては、さして詠める歌見えず。ただ妹とせの山、いもせの山、或るは妹の山せの山越えて、などのみ詠める、皆兄の山につきての詞のあやに、妹山とも云えるごと聞こえて、兄の山を云わずして、ただ妹の山をのみ詠めるは無し。七の巻に、紀道にこそ妹山有りといえと、ただ一つ詠めるも、ただ歌にこの名あるによりての事なるべし。又七の巻に、せの山にただに向かえる妹の山、ことゆるせやもうち橋わたす、と云う歌も、兄の山を越ゆる時に、谷川などに、かりそめなる橋を渡せる所を見て、そのあたりにならべる山を、かりに妹山として、かくは詠めるなるべし。かの紀路にこそと云える歌の末、二上山も妹こそ有りけれ、と詠めるも、二上山に、まことに妹と云うが有るには有らねど、峰二つ有るによりて、設けてさは詠みつるなれば、紀の国なるも兄の山と云う名につきて、さも云うべき事なり。
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『玉勝間』九の巻 妹背山なお妹山と云う山は、まことには無き事と思わるるは、今にいたるまで、兄山はたしかにて、背山村と云うさえ有るを、妹山は、まぎらわしくして、定かならず。その故はまず上に引ける袖中抄などは、ただ古今集の歌によりて、大よそに云えるなれば、証にはなりがたし。契沖が云えるようも、なおおおよそなるを、かの或る書に云えるは、こまやかなれど、紀の川の南の辺に在りと云えるは、いずれの山を指して云えるにか、なおまぎらわし。こは思うに、紀の川の川中に有る岩山を云えるなるべし。然るにおのれ船よりこの川を下りける時、見けるに、その山は、川中ながらも北の岸にちかき所に在りて、水は山の南の腰を流るれば、川の南の辺と云える事たがえり。そは川瀬の移りたるにやとも思えど、なおこれも古今集の歌にかなえむとて、南の辺とは、云いまぎらかし置きつるにや。又まぎらわしきは、貝原の篤信がいわく。名手の瀬の山にいたりて云云、もし妹背山この所ならば向かいは妹山なるべきに、妹山と云うべき山無し、この山は、川瀬の中に在れば、瀬の山なり、妹背山にあらずと云えり。然れば、そのころ里人なども、この川中なるをせの山と云えるにや。
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『玉勝間』九の巻 妹背山万葉に、紀の国と詠みたれども、それは名手の川中なる瀬の山を、まがえて誤れるかと云い、かの貝原なども、吉野なるを、それなりと云えるは、みな後の歌にのみなずみて、万葉をよく見ざる、ひがことなり。万葉のおもむき、紀の国なる事は、何の疑いも無し。今も吉野に、それとて有るは、古今集の歌につきて、後に似つかわしき山を、それと名附けたる物なり。そもそも古今集なる、ながれてはの歌は、かの万葉七の、せの山にただにむかえる云云、うち橋わたす、又同巻に、きの川のべの妹と背の山、など有る歌によりて、妹背の山の中に落つるとは云い、よしやと重ねん料に、紀の川を、同じ川なれば、吉野の川とも詠みなせるものなり。又その歌に、よし野の川と云い、落つるとも有るから、六帖なるは、その川を、滝とも唱え伝えたるなるべし。
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『玉勝間』九の巻 妹背山されど川中なるは、さらに畿内の堺などにせらるべき山にはあらず。又万葉の歌どもに詠めるさまも、兄の山は、背山村の西北なる山なること、しるければ、なお貝原が云えるも、ひがことなり。然はあれども、そのかみもし彼の川中なるを、妹山と云いたらむには、妹山と云うべき山無しなどは、云うまじく、又これは、妹山にはあらずなども、必ず云うべきに、さること云わざるを思えば、かれを妹山と云う事は無かりしごと思わるるを、かの或る書には妹山とはこれを云えるごと聞こゆるは、かえすがえすまぎらわし。かくのみ妹山のまぎらわしきは、もと実に然か云える山は、無きが故なるべし。又近き頃、或る紀の国人のいわく、古今集の、流れてはの歌、六帖には、よし野の滝の中に落つると有り。続古今集、延喜の御歌に、末たえぬよし野の川のみなかみやいもせの山の中をゆくらん、玉葉集に、小野篁、中にゆくよし野の川は云云、同妹かえし、いもせ山云云、これらの歌によるにこの山紀の国には有らず、吉野に有ること、決定すべし。
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『玉勝間』十四の巻 名所歌枕の国郡を論ずるに、古き歌に詠めるをよく考えて、その国郡を定むべし。後世の歌は、ただ歌の趣意により来たれる所を詠む故に、その国所をば知らずそらに詠める故に、後世の歌はさらに拠とするに足らず。題詠のみならず、後世の歌は、その所にいたりて詠めるも取りがたき事あり。いかにと云うに、古き歌枕を、中昔の書に某国にありと注せるには、いみじく誤れる事のみ多きを、後の人、その誤れる注によりて、その国にその名所をつくりかまえて、或いは万葉に詠める某山はこれなりなど云うたぐい多きを、それも年を経ればその名のひろまりて、もとよりその所の如くなれるを、他国の歌人そこに到りて、その名を聞きて詠めるたぐい多ければなり。
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『玉勝間』十二の巻 又妹背山万葉に、せの山を越ゆとあれば、かの村の山なる事明らけし。川中の島は、いかでか越ゆる事あらむ。さてまた川の南にも、岸まで出でたる山有りて、背の山と相向かいたれば、これや妹山ならむとも云うべけれど、その山は、背山よりやや高くて、山のさまも、背の山よりおおしく見えて、妹山とは云うべくもあらず。そのうえ河のあなたにて、大道にあらず。越ゆる山にあらざれば、妹の山せの山越えてと云えるにも、かなわざるをや。とにかくに妹山と云えるは、ただ背の山と云う名につきての、詞のあやのみにて、いわゆる序枕詞のたぐいにぞ有りける。
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