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玉勝間 / 九の巻 黒牛潟藤白糸鹿山

さて十八町が程、藤白の御坂をのぼりて、たむけに寺有り、そのすこし西のかたに、御所ノ芝と云ふ有るは、いにしへ熊野御幸のをりの、頓宮の御あととなん、云ひ傳へたる。いと見わたしの景色よき所にぞ有ける。在田ノ郡なる、須佐ノ神社の神主、出羽ノ守岩橋ノ時倚は、おのが敎へ子なるを、御社にもまうでがてら、とぶらひて、それが家に、一夜やどりたりし。そのゆききに、上のくだりの所所は、見たりしなり。此すさの御社は、千田と云ふ里の、山陰にたたせ給ひて、熊野道よりは、西の方へわかれて、在田川の川そひを、くだり行く所なり。糸鹿山は、熊野の道の坂にて、これも在田郡なり。北の麓に、糸我の里、又糸我ノ王子ノ社と云ふも有リとぞ。在田川のあたりより、此山、南のかたに、近く見えたりしかど、かしこまでは、え物せざりしを、此いとがの里の林なにがし、中山ノなにがし、二人、おのが弟子になりに、かの岩はしが家にきて、初めて逢ひける。此人どもぞ、かのわたりの事ども、なにくれと語りたりし。

新字:さて十八町が程、藤白の御坂をのぼりて、たむけに寺有り、そのすこし西のかたに、御所ノ芝と云ふ有るは、いにしへ熊野御幸のをりの、頓宮の御あととなん、云ひ伝へたる。いと見わたしの景色よき所にぞ有ける。在田ノ郡なる、須佐ノ神社の神主、出羽ノ守岩橋ノ時倚は、おのが教へ子なるを、御社にもまうでがてら、とぶらひて、それが家に、一夜やどりたりし。そのゆききに、上のくだりの所所は、見たりしなり。此すさの御社は、千田と云ふ里の、山陰にたたせ給ひて、熊野道よりは、西の方へわかれて、在田川の川そひを、くだり行く所なり。糸鹿山は、熊野の道の坂にて、これも在田郡なり。北の麓に、糸我の里、又糸我ノ王子ノ社と云ふも有リとぞ。在田川のあたりより、此山、南のかたに、近く見えたりしかど、かしこまでは、え物せざりしを、此いとがの里の林なにがし、中山ノなにがし、二人、おのが弟子になりに、かの岩はしが家にきて、初めて逢ひける。此人どもぞ、かのわたりの事ども、なにくれと語りたりし。

書き下し

さて十八町が程、藤白の御坂をのぼりて、たむけに寺有り、そのすこし西のかたに、御所の芝と云う有るは、いにしえ熊野御幸のおりの、頓宮の御あととなん、云い伝えたる。いと見わたしの景色よき所にぞ有りける。在田の郡なる、須佐の神社の神主、出羽の守岩橋の時倚は、おのが教え子なるを、御社にもうでがてら、とぶらいて、それが家に、一夜やどりたりし。そのゆききに、上のくだりの所々は、見たりしなり。このすさの御社は、千田と云う里の、山陰にたたせ給いて、熊野道よりは、西の方へわかれて、在田川の川ぞいを、くだり行く所なり。糸鹿山は、熊野の道の坂にて、これも在田郡なり。北の麓に、糸我の里、又糸我の王子の社と云うも有りとぞ。在田川のあたりより、この山、南のかたに、近く見えたりしかど、かしこまでは、え物せざりしを、このいとがの里の林なにがし、中山のなにがし、二人、おのが弟子になりに、かの岩はしが家にきて、初めて逢いける。この人どもぞ、かのわたりの事ども、なにくれと語りたりし。

現代語訳

さて十八町ほど藤白の坂を上ると、峠に寺がある。その少し西の方に「御所の芝」という所があるのは、昔の熊野御幸の折の行在所の跡だと言い伝えている。たいそう見晴らしのよい所であった。在田(有田)郡にある須佐神社の神主、出羽守岩橋時倚は私の教え子なので、その御社に参詣がてら訪ねて、彼の家に一晩泊まった。その行き帰りに、右に述べたあたりの所々を見たのである。この須佐の御社は、千田という里の山陰に立っておられ、熊野道からは西の方へ分かれて、有田川の川沿いを下って行く所である。糸鹿山は熊野道の坂で、これも有田郡である。北のふもとに糸我の里、また糸我王子の社というのもあるという。有田川のあたりからこの山が南の方に近く見えたが、そこまでは行けなかった。この糸我の里の林なにがし、中山なにがしの二人が、私の弟子になりに、あの岩橋の家に来て、初めて会った。この人たちが、あのあたりのことをあれこれと語ってくれたのである。

解説

前の段の見聞がどのような旅から得られたかを、宣長自身が明かした段である。紀伊の有田郡にある須佐神社の神主岩橋時倚は宣長の門人で、宣長はその社に参詣がてら訪ねて一夜泊まり、その行き帰りに藤白坂や黒江を見た。藤白坂を上った所には熊野御幸の行在所の跡と伝える御所の芝がある。行けなかった糸鹿山のことは、ちょうど入門しに来た土地の二人から話を聞いた。宣長の学問は、各地の門人の網の目に支えられていた。門人の家を訪ね、そこへ新たな入門者が集まり、その人々が土地の知識をもたらす。弟子を教えることと、弟子から学ぶことが、一つの旅の中で重なっている。

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