玉勝間 / 九の巻 黒牛潟藤白糸鹿山
黑牛潟は、今は黑江と云ひて、若山の方より、熊野に物する大路にて、黑江、干潟、名高と、つぎつぎにあひつらなりて三里、いづれも町づくりて、物うる家しげく立つゞき、にぎはゝしき里共也。皆入海のほとりにて、景色よし。黑江などは、山にもかたかけたる所なり。此わたり昔は、名草ノ郡なりしを、今は海士ノ郡と云へり。此紀の國の或書に、此黑江の磯べに、昔いと大きにて、いろ黑き石の、牛のかたちしたるが有て、潮滿つればかくれ、干ぬれば顯れけるを、いつの頃よりか、やうやうに土に埋れゆきて、見えずなりぬるを、一とせ里人どもあまたたちて、掘りあらはさむとせしかど、大きにして、つひにえ掘り出さで止みぬるを、今はそのあたりまで、里續きて、かの石は、民の家の地の下に有由しるしたり。藤白も、同じ郡なり。名高の里を離れて、南ざまに少し行けば、その坂の麓にて、ふぢしろ村と云ふ有て、そこに藤白ノ王子と申シて、御社も、道のほとりに立ヲ給へり。くま野道なる、九十九所の王子と申す中の一つにて、俗に熊野の一の鳥居とぞ云ふなる。
新字:黒牛潟は、今は黒江と云ひて、若山の方より、熊野に物する大路にて、黒江、干潟、名高と、つぎつぎにあひつらなりて三里、いづれも町づくりて、物うる家しげく立つゞき、にぎはゝしき里共也。皆入海のほとりにて、景色よし。黒江などは、山にもかたかけたる所なり。此わたり昔は、名草ノ郡なりしを、今は海士ノ郡と云へり。此紀の国の或書に、此黒江の磯べに、昔いと大きにて、いろ黒き石の、牛のかたちしたるが有て、潮満つればかくれ、干ぬれば顕れけるを、いつの頃よりか、やうやうに土に埋れゆきて、見えずなりぬるを、一とせ里人どもあまたたちて、掘りあらはさむとせしかど、大きにして、つひにえ掘り出さで止みぬるを、今はそのあたりまで、里続きて、かの石は、民の家の地の下に有由しるしたり。藤白も、同じ郡なり。名高の里を離れて、南ざまに少し行けば、その坂の麓にて、ふぢしろ村と云ふ有て、そこに藤白ノ王子と申シて、御社も、道のほとりに立ヲ給へり。くま野道なる、九十九所の王子と申す中の一つにて、俗に熊野の一の鳥居とぞ云ふなる。
書き下し
黒牛潟は、今は黒江と云いて、若山の方より、熊野に物する大路にて、黒江、干潟、名高と、つぎつぎにあいつらなりて三里、いずれも町づくりて、物うる家しげく立ちつづき、にぎわわしき里どもなり。皆入海のほとりにて、景色よし。黒江などは、山にもかたかけたる所なり。このわたり昔は、名草の郡なりしを、今は海士の郡と云えり。この紀の国の或る書に、この黒江の磯べに、昔いと大きにて、いろ黒き石の、牛のかたちしたるが有りて、潮満つればかくれ、干ぬれば顕れけるを、いつの頃よりか、ようように土に埋もれゆきて、見えずなりぬるを、一とせ里人どもあまたたちて、掘りあらわさむとせしかど、大きにして、ついにえ掘り出ださで止みぬるを、今はそのあたりまで、里続きて、かの石は、民の家の地の下に有る由しるしたり。藤白も、同じ郡なり。名高の里を離れて、南ざまに少し行けば、その坂の麓にて、ふじしろ村と云う有りて、そこに藤白の王子と申して、御社も、道のほとりに立ち給えり。くま野道なる、九十九所の王子と申す中の一つにて、俗に熊野の一の鳥居とぞ云うなる。
現代語訳
黒牛潟は、今は黒江と言って、若山(和歌山)の方から熊野へ行く大道にあり、黒江、干潟、名高と次々に連なって三里あり、どれも町並みを作って、物を売る家が多く立ち続く、にぎやかな里々である。みな入り海のほとりで景色がよい。黒江などは山の斜面にもかかった所である。このあたりは昔は名草郡であったが、今は海士郡と言う。この紀伊国のある書物に、この黒江の磯辺に、昔たいそう大きな色の黒い石で、牛の形をしたものがあって、潮が満ちると隠れ、潮が干ると現れていたが、いつの頃からか次第に土に埋もれていって見えなくなった。ある年、里人たちが大勢で掘り出そうとしたが、大きいので結局掘り出せずに終わった。今はそのあたりまで里が続いて、あの石は民家の地面の下にある、と記してある。藤白も同じ郡である。名高の里を離れて南の方へ少し行くと、その坂のふもとに藤白村というのがあって、そこに藤白王子と申す御社も道のほとりに立っておられる。熊野道にある九十九王子と申す中の一つで、世間では熊野の一の鳥居と言っている。
解説
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 黒牛潟藤白糸鹿山さて十八町が程、藤白の御坂をのぼりて、たむけに寺有り、そのすこし西のかたに、御所の芝と云う有るは、いにしえ熊野御幸のおりの、頓宮の御あととなん、云い伝えたる。いと見わたしの景色よき所にぞ有りける。在田の郡なる、須佐の神社の神主、出羽の守岩橋の時倚は、おのが教え子なるを、御社にもうでがてら、とぶらいて、それが家に、一夜やどりたりし。そのゆききに、上のくだりの所々は、見たりしなり。このすさの御社は、千田と云う里の、山陰にたたせ給いて、熊野道よりは、西の方へわかれて、在田川の川ぞいを、くだり行く所なり。糸鹿山は、熊野の道の坂にて、これも在田郡なり。北の麓に、糸我の里、又糸我の王子の社と云うも有りとぞ。在田川のあたりより、この山、南のかたに、近く見えたりしかど、かしこまでは、え物せざりしを、このいとがの里の林なにがし、中山のなにがし、二人、おのが弟子になりに、かの岩はしが家にきて、初めて逢いける。この人どもぞ、かのわたりの事ども、なにくれと語りたりし。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども東西五町に、南北六町ばかり有り。この二つの島を、浦のはつ島と云う。小為手の山は、在田の郡、山保田の庄に、推手村と云う有り、これか。その村は、伊都の郡の堺にて、山のおくなり。白崎は、日高の郡、衣奈の庄衣奈浦の東南の方に、衣奈の八幡と云う有る、その社の縁起に、白崎と云うこと見えたり。三穂の岩屋は、同郡三尾村の廿五町ばかり東南の海べに在り、岩屋の中に、石の観音の像あり、熊野道のうち、日高川塩屋浦のあたりより、西の海べに、一里ばかりの長き松原有りて、和田松原と云う、この岩屋は、その西の際なり。野島阿胡根の浦は、同郡塩屋浦の南に、野島の里あり、その海べを、あこねの浦と云いて、貝の多くよりて集まる所なり。切目山は、同郡熊野道の海べにて、切目坂、切目浦、切目村あり。山は村より一里ばかり東北なり。村の北に、切目の王子の社も有り。磐代は、同郡なり。切目を過ぎて、切目川有りて、次に磐代なり。西岩代東岩代とて村有り、岩代の王子の社、海べに有り。千里の浜は、岩代の南の辺より、南部までのあいだ、一里半ばかりの所を云う。
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『玉勝間』九の巻 いそのへぢ新古今集旅の部、行尊大僧正の歌の詞書に、いそのへぢと有る所は、紀の国熊野に物するに、牟婁の郡田辺より、海べを経て、熊野に出づる道あり、これなるべし。この道伊勢まで続けり。長く磯づたいに行く路なる故に、いそのべぢとは云うなるべし。今の俗にも、大浜路と云うなり。行尊僧正の、熊野へ物せられたる歌は、これかれと集にも見えたり。又西行法師の山家集に、いせのべぢの錦の島云云と有るも、この道の事なるべしと、同じ書に云えり。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども待乳山は、大和の国の堺にて、紀の国伊都の郡なり。角田川は、待乳川の事なるべし。この川みなもとは、葛城山のうちより出でて、北隅田の庄を流れて、きの川に落つるなり。紀の関は、和泉の国より、紀の国の名草の郡に越ゆる、雄山に在りて、南のふもとなる、山口村に近し。袖中抄に、雄山の関守と有り。白鳥の関と云えるもこの関の事なるべし。名草山は、紀三井寺の山なり。飽等浜は、海士の郡賀田浦の南の方に、田倉崎と云う所ある、これなりと、里人の云い伝えたるとぞ。吹上の浜は、若山の西南にて、若の浦の北なり。雄水門は、今若山の内に、湊と云う所に、小野町と云う有りて、蛭子の社ある、そこに雄之芝と云う有り。五瀬の命の薨ましし跡なりと云えり。小野町と云うも、もと雄の町なりと云えり。この蛭子の社に吹上の社と云うをも、並べ祭れり。或る説には、吹上の社は、関戸村の矢の宮なりとも云えり。雑賀浦は、海士の郡にて、雑賀の庄とて、広き所なるその中に、若の浦の西の方に、雑賀崎と云うところ有り、このわたり雑賀の浦なるべし。浦の初島は、同郡、浜中の庄椒村の八町ばかり海中に、地の島と云う有り、東西四町あまり、南北八町ばかりの島なり。その島の三町ばかり西に、又島有りて、沖の島と云う。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども上の件磯間の浦よりこなたは、皆むろの郡なり。そもそもこの紀の国は、古き名どころども多くして、万葉集にも、殊に多く見えたるを、世の人は、いずれの郡にありとだに、え知らぬ所々の多かるを、この国にては、かくれ無くて、皆人よく知れるなど、又さらぬも、書どもには、皆記るしたるが、見過しがたくて、その大かたを写し置きつる中に、確かならぬさまに聞こゆるをば、皆漏らして、さも有りぬべく覚ゆるかぎりを、それかれとえりいでて、記るせる程に、この巻は、すずろに紀の国の名所集のようにぞ成りぬる。なお式にのれる神社どもの御事をも、ことごとく記るしたるも有るを、そは又別にも記るしてむと思えば、ここにはみな漏らしつ。
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『玉勝間』九の巻 紫の名高ノ浦名高の浦は、名草の郡にて、今はそのわたり、海士の郡に入れり。今も名高とも、名方とも云う里にて、藤白のすこし北の方なり。ある時若山にて、人々物語しけるついでに、一人が云うよう。名高の里中に、むらさき川と云うちいさき川の有るなりと云う。そはいとおかしき事なるを、もし万葉の歌によりて、事好む者の、つけたる名には有らじか、なおたしかに問いきかまほしき事なりと、おのれ云いければ、又一人、おのれかのあたりは、しばしば行き通う所なれば、今よくあない問い聞きてんと云えるが、後に又来たりしおり、語りけるは、一日名高のわたり物せしに、かの川の事、里のわらわべの遊びいたりしに、この里に、むらさき川と云う川や有ると問いしかば、よく知りいて、ちいさき流れに、橋かけたる所を、これなんそれと、教えつ、とぞ語りける。しかわらわべまでよく知れるは、つくり言にはあらざんめるを、もしこれ古き名ならば、かの万葉に、むらさきの名高と続けたるは、古えこのわたりを、村崎など云いて、そこなる名高の浦と云えるには有らじか。されどかの川の事、なお人づてなれば、たしかには云いがたきを、かしこに物せむ人、なおよくたずね給え。
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