玉勝間 / 一の巻 水茎の岡
又水ぐきの岡、近江に有りと云ふもよし無きことなり。十に、水ぐきの岡とのみにて、水門と云はざる歌あるは、前後みな大和の地名を詠める歌の中なれば、筑前には有らで、大和なるべし。高市ノ郡飛鳥の岡を、今も岡と云ひ、岡寺と云ふも有れば、此所ならむか。十二にも見えたるは、いづくにも有れ岡にて、地名にはあらざるか。又古今集大歌所の歌、水ぐきぶりに、みづぐきの岡の屋がたと詠めるは、岡屋縣にて、和名抄に、山城ノ國宇治ノ郡岡屋乎加乃也と有る所なり。後に岡ノ屋ノ關白と申ししがおはせしも、此地名なり。縣をがたと云ふは、山縣片縣などの如し。然るに是れをも、水ぐきの岡と云ふ地名と思ひ、やがたを屋形と、心得たるは、みなひがことなり。屋形と云ふ物は、船などにこそ有れ、家を屋形と云ふことは、古、には無き事なるをや。さて水ぐきぶりと云ふは、樂府にて云ふ稱にて、その歌のはじめの詞を取りてつけたる物にて、地名に限れる事には有らず。此某ぶりと云ふ名の事は、古事記傳に、ひなぶりの下に委しく云へり。さて又せうそこ書をみづぐきと云ふは、玉つさと云ふと同じくて、これもみづみづしき木と云ふ事なり。
新字:又水ぐきの岡、近江に有りと云ふもよし無きことなり。十に、水ぐきの岡とのみにて、水門と云はざる歌あるは、前後みな大和の地名を詠める歌の中なれば、筑前には有らで、大和なるべし。高市ノ郡飛鳥の岡を、今も岡と云ひ、岡寺と云ふも有れば、此所ならむか。十二にも見えたるは、いづくにも有れ岡にて、地名にはあらざるか。又古今集大歌所の歌、水ぐきぶりに、みづぐきの岡の屋がたと詠めるは、岡屋県にて、和名抄に、山城ノ国宇治ノ郡岡屋乎加乃也と有る所なり。後に岡ノ屋ノ関白と申ししがおはせしも、此地名なり。県をがたと云ふは、山県片県などの如し。然るに是れをも、水ぐきの岡と云ふ地名と思ひ、やがたを屋形と、心得たるは、みなひがことなり。屋形と云ふ物は、船などにこそ有れ、家を屋形と云ふことは、古、には無き事なるをや。さて水ぐきぶりと云ふは、楽府にて云ふ称にて、その歌のはじめの詞を取りてつけたる物にて、地名に限れる事には有らず。此某ぶりと云ふ名の事は、古事記伝に、ひなぶりの下に委しく云へり。さて又せうそこ書をみづぐきと云ふは、玉つさと云ふと同じくて、これもみづみづしき木と云ふ事なり。
書き下し
また水ぐきの岡、近江に有りと云うもよし無きことなり。十に、水ぐきの岡とのみにて、水門と云わざる歌あるは、前後みな大和の地名を詠める歌の中なれば、筑前には有らで、大和なるべし。高市の郡飛鳥の岡を、今も岡と云い、岡寺と云うも有れば、この所ならむか。十二にも見えたるは、いづくにも有れ岡にて、地名にはあらざるか。また古今集大歌所の歌、水ぐきぶりに、みづぐきの岡の屋がたと詠めるは、岡屋県にて、和名抄に、山城の国宇治の郡岡屋乎加乃也と有る所なり。後に岡の屋の関白と申ししがおわせしも、この地名なり。県をがたと云うは、山県・片県などの如し。然るに是れをも、水ぐきの岡と云う地名と思い、やがたを屋形と、心得たるは、みなひがことなり。屋形と云う物は、船などにこそ有れ、家を屋形と云うことは、古には無き事なるをや。さて水ぐきぶりと云うは、楽府にて云う称にて、その歌のはじめの詞を取りてつけたる物にて、地名に限れる事には有らず。この某ぶりと云う名の事は、古事記伝に、ひなぶりの下に委しく云えり。さてまたせうそこ書をみづぐきと云うは、玉つさと云うと同じくて、これもみづみづしき木と云う事なり。
現代語訳
また、水茎の岡が近江にあると言うのも根拠のないことである。万葉集巻十に「水茎の岡」とだけあって「水門」と言わない歌があるのは、前後がみな大和の地名を詠んだ歌の中にあるので、筑前ではなく大和であろう。高市郡の飛鳥の岡を今も岡と言い、岡寺というのもあるから、この所であろうか。巻十二にも見えるのは、どこであれ岡のことで、地名ではないのではないか。また古今集の大歌所の歌の水茎ぶりに「水茎の岡の屋形」と詠んでいるのは岡屋県(おかのやあがた)で、和名抄に「山城国宇治郡岡屋、乎加乃也(おかのや)」とある所である。後に岡屋関白と申し上げた方がおられたのも、この地名である。県を「がた」と言うのは、山県・片県などと同じである。それなのに、これをも「水茎の岡」という地名と思い、「やがた」を屋形と理解したのは、みな誤りである。屋形というものは船などにこそあれ、家を屋形と言うことは古にはなかったのである。さて「水茎ぶり」というのは大歌所で言う名称で、その歌の初めの言葉を取って付けたものであり、地名に限ったことではない。この「何々ぶり」という名のことは、古事記伝の「ひなぶり」の条に詳しく述べた。さてまた、手紙を「みずぐき」と言うのは「玉梓(たまずさ)」と言うのと同じで、これもみずみずしい木ということである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 水茎の岡水茎の岡とつづきたる水茎は、みな岡の枕詞にして、地の名にはあらず。然るを昔より、枕詞なることを知れる人無くして、あるいは筑前、あるいは近江の地名と心得来つるは、ひがことなり。水ぐきは、みづみづしき茎と云うことにて、草木の茎なり。さてくきと云えば、すなわち木の事にも、草のことにもなれり。木の神を久久能智と云うにて心得べし。さて岡とつづくるは、稚の意なり。わとおと通う例、わななく、おののく、わかづる、おこづる、たわやめ、たおやめなど、なお多き中に、神楽の取り物の歌に、天にますとよ岡姫のと有るをとりて、源氏物語のおとめの巻の歌には、天にますとよわか姫と詠める、これ正しく岡と若と通う例なり。さればみづみづしき木の稚しと云う意にて、みづぐきの岡とは続くるなり。また万葉六に、水城と続けたるは、やがてみづみづしき茎のみづ木と、重ねたるなり。七に水茎の崗水門と詠めるは、筑前の国遠賀郡にて、風土記に塢舸水門と見えて、ただ岡と云う地名なり。この歌の外に、筑前に水ぐきの岡と云うこと、古書に見えたること無し。仲哀紀に洞の海と云う有るを思いて、洞を、水ぐきと一つかと思うも、ひがことなり。洞の海は、おかのみなととは別所なり。
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『玉勝間』一の巻 水茎の岡そはまづ上古には、人の許へ使をやるには、梓木に玉をつけたるを持たせて、使のしるしとせしなり。玉梓の使とつねに云うはこの事なり。それよりうつりて、せうそこ文をも、同じく玉梓と云い、またかの玉つけたる梓をさして、みづみづしき木と云う意にて、みづぐきと云えるより、これもうつりて書をも然か云えるなり。かくてまたうつりては、必ずしも人の許へやる書ならでも、手跡の事をも、水ぐきと云う事となれるなり。
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『玉勝間』八の巻 万葉集に見えたる和気と云ふ称皇子たちなどの御名にある、某別、又姓のかばねの、某の別などの別には有らで、万葉集の歌に、一種の和気と云える称有り。そを人皆、みずからひげして云う称とのみ心得たるは、くわしからず。常に打まかせてひげして、僕など云うとは異にして、これは、人より我をさして云う詞をもうけて、そを其人に云い遣るとて、殊さらに我を賤きさまに云いなす称なり。さるはすこしたわぶれたる物にて、まことのひげには有らず。四の巻に、わが君は和気をば死ねと思えかも云云、これ人の我を死ねと思うと云う事を、もうけて、云い遣るなり。さて我を賤しめて云うから、人をば吾妹子と云うべきを、殊更にあがめたるさまに、わが君と云えるも、少したわぶれなり。同じ巻に、黒木とりかやもかりつつつかえめどいそしき和気とほめむともあらず、これも同じ事にて、人の我をいそしき者と云わむ詞を、もうけて云いやるなり。
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『玉勝間』十三の巻 万葉集に山ノ字を玉に誤れる例万葉集に、山の字を玉に誤れる例多し。草書にては、山と玉とよく似たる故なり。二の巻に、「三吉野の玉松が枝は」云云、十五の巻に、やままつかげにともあり。玉は山を誤れることしるし。然るを後の歌に、玉松と詠めるは、この歌によれるにて、皆ひがことなり。玉松と云うことは、有る事無し。又同じ二の巻に、「人はよし思いやむとも玉かずら影に見えつつ」云云、こは山かずらは、日かげかずらのことにて、影の枕詞に置けるなり。山かずら日かげとつづく意にて、十四の巻に、あしひきの山かずらかげと詠めるかげに同じ。十八の巻にも、かずらかげと有り、みなかげは日かげのかずらの事なり。然るを後の世に、この玉かずらを、山かずらの誤りなる事を知らずして、影と続きたるを、懸の意と心得たるは、ひがことなり。又十三の巻に、「斎串立て」云云「雲聚の玉蔭見ればともしも」、こはうずに垂れたる日かげのかずらなり。十六の巻に、「あしひきの玉かずらの児」とあるは、あしひきのとあれば、山なること論無し。即ち「玉久世の清き河原」云云と云う歌も、ならべる歌には、山かずらの児とあり。さて件の例どもによりて思えば、十一の巻に、山代の久世の河原なりけむを、山を玉に、能を清に誤り、代を脱せるにこそ。玉久世と云うことは、有るべくも覚えず。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井そもそも古の御井は、此二つのうち、いずれならん、定めがたし。赤人の硯水と云い伝えたるは、初めに云える方なり。ただし百三四十年ばかりもさきに、或人の、此国の事どもしるせる、勢陽雑記という物には、かの赤人の屋敷の事を云いて、その麓に清水有り、赤人の硯水なり、と云い伝えたりとしるせるは、後のかたを云えるように聞こえたり。後のかたは、かの麓というべき所、はじめのかたは、ややさかりて、かの麓とは云うまじき所なればなり。されどこは、たしかにみずから行き見てしるせるか、はた里人の語れるを聞きて、大かたに云えるか、知りがたければ、頼みがたし。そはとまれかくまれ、五十師の原山の辺は、うたがい無く此ところにて、赤人屋敷と云う地ぞ、行宮の御跡なるべく、又御井も、かの二つのうちははずるべからずとぞ思わるる。然るを師の万葉考には、五十師原を、五十鈴の原と改めて、かの長歌を、大御神の宮づかえの事に説きなして、鈴鹿の郡の山辺なりと云うを破りて、くさぐさ論ぜられたれども、其説ことごとくあたらぬ事なり。
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『玉勝間』一の巻 立田川たとい歌はひが心得して詠む事も有りとも、さる詞書までを作るべき物かは。そもそも大和の立田は、万葉集の歌に、十四五首も見えたれど、いづれもいづれも山をのみ詠みて、川を詠めるは一つも見えず。その外の古書にも、立田は山とのみこそ有れ、川はあること無し。立田川と詠めるは、みな今の京になりての歌にて、右に云う山崎のあなたなるなり。「もみじみだれて流るめり、の歌は、もしまことに奈良の帝の御(歌脱か)ならば、平城天皇なるべし。また「もみじ葉ながる神なびの、と云う歌は、飛鳥川と有るかた正しくて、大和なるべし。かの山崎のあなたなるは神なびとは云えど、みむろの山とは云うまじければなり。然るに拾遺集物の名の歌に、「神なびのみむろのきしやくづるらん立田の川の水のにごれる、と有るは、早くかの古今集の歌どもによりて、大和のとまぎれて、斯くは詠み合わせたんめり。その後々の歌どもはさらなり。
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