玉勝間 / 九の巻 新勅撰集の事
同書に、文曆元年十一月九日、中納言入道(定家卿)於前關白家、搜-覽新勅撰(先院御時被奏覽)兩殿下監、頗有用捨事、被切弃百首云云、又有被入之人云云。
新字:同書に、文暦元年十一月九日、中納言入道(定家卿)於前関白家、捜-覧新勅撰(先院御時被奏覧)両殿下監、頗有用捨事、被切弃百首云云、又有被入之人云云。
書き下し
同書に、文暦元年十一月九日、中納言入道(定家卿)前関白家に於て、新勅撰(先院の御時奏覧せらる)を捜覧す、両殿下監せらる、頗る用捨の事有り、百首を切り棄てらると云云、又入れらるるの人有りと云云。
現代語訳
同じ書(『百練抄』)に、文暦元年(1234)十一月九日、中納言入道(藤原定家卿)が前関白(九条道家)の邸で、『新勅撰和歌集』(先の院の御代に奏覧されたもの)を点検した。両殿下が立ち会われ、かなりの取捨があった。百首が切り捨てられたという。また新たに入れられた人もあったという。
解説
藤原定家が撰んだ『新勅撰和歌集』の成立の裏側を伝える記事である。この集は後堀河天皇の命で定家が撰び、奏覧まで進んだが、天皇はその直後に亡くなった。記事は、そのあと九条家の邸で両殿下の立ち会いのもと、百首もの歌が切り捨てられたことを記す。承久の乱で流された後鳥羽院や順徳院らの歌が、鎌倉幕府をはばかって除かれたと伝えられる出来事である。勅撰集は歌の正統を示すものだが、その中身は時の政治の力で動かされた。歌の歴史を重んじた宣長は、名高い歌集がどのような事情で今の形になったかを、史書の一行から確かめようとしている。書物の成り立ちを疑って読む姿勢がここにある。
関連する章句
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