玉勝間 / 二の巻 水無瀨川
そは類聚國史に、延曆弘仁の頃、天皇水成野に遊獵有し事、たびたび見えて、水成村ともあり、すなはち今の水無瀬なり。然れば此地ノ名によりて、後にかの川の名にも成れるなりけり。さて水成と書るは、みなしとよむべきなり。萬葉に水無川と書るも、然よむべし。成無などは、なせとは讀みがたければなり。されどかの地ノ名も、又川に云へるもともに、古、よりみなしとも、みなせとも、通はし云へりと聞えたり。
新字:そは類聚国史に、延暦弘仁の頃、天皇水成野に遊猟有し事、たびたび見えて、水成村ともあり、すなはち今の水無瀬なり。然れば此地ノ名によりて、後にかの川の名にも成れるなりけり。さて水成と書るは、みなしとよむべきなり。万葉に水無川と書るも、然よむべし。成無などは、なせとは読みがたければなり。されどかの地ノ名も、又川に云へるもともに、古、よりみなしとも、みなせとも、通はし云へりと聞えたり。
書き下し
そは類聚国史に、延暦弘仁の頃、天皇水成野に遊猟有りし事、たびたび見えて、水成村ともあり、すなわち今の水無瀬なり。然ればこの地の名によりて、後にかの川の名にも成れるなりけり。さて水成と書けるは、みなしとよむべきなり。万葉に水無川と書けるも、然よむべし。成無などは、なせとは読みがたければなり。されどかの地の名も、また川に云えるもともに、古よりみなしとも、みなせとも、通わし云えりと聞こえたり。
現代語訳
それは、『類聚国史』に、延暦・弘仁のころ(八世紀末から九世紀初め)、天皇が水成野で狩りをされた事がたびたび見え、水成村ともあって、これがすなわち今の水無瀬である。そうであれば、この土地の名によって、後にあの川の名にもなったのである。さて「水成」と書いたのは「みなし」と読むべきである。『万葉集』に「水無川」と書いたのも、そう読むべきである。「成」や「無」などは「なせ」とは読みにくいからである。けれどもあの土地の名も、また川について言うのも、ともに古くから「みなし」とも「みなせ」とも、通わせて言っていたようである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 水無瀨川古にみなせ川と云いしは、一つの川の名には有らず、いずれにまれ、水の無き川と云う事にて、あるは砂の下を水はとおりて、うわべに水無き川をも云えり。万葉四に、「恋にもぞ人は死にする水瀬川下ゆわれ痩す月に日に気に、十一に、「こちたくは中はよどませ水無河たゆとうことをありこすなゆめ。また「うらぶれてものは思わじ水無瀬川有りても水はゆくちう物を。古今集恋二に「ことに出でて云わぬばかりぞみなせ川下に通いて恋しき物を。恋五に、「逢い見ねば恋こそまされ水無瀬河なににふかめて思いそめけむ。また「みなせ川有りてゆく水なくはこそつひに我身をたえぬと思わめなどある、皆その意なり。また万葉十に、「久かたの天のしるしと水無河へだてておきし神代し恨めし。これは天の川を云えるにて、まさしく水の無きよしなり。然るに右の歌どもを皆、かの山崎のあなたなる水無瀬川と心得たるは、ひが事なり。山ざきのあなたなるは、古は山崎川とも、立田川とも云えりしこと、上の件に云えるが如くにて、みなせ河と云うは、古今集などの頃よりは後の名なり。
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『玉勝間』九の巻 水無瀨殿造りかへ御わたまし同書に、建保五年正月十日、上皇水無瀬殿の新御所に移徙し給う、これ本の御所、去年大風洪水の時、顛倒流失するの間、更に他所を点じて、造営せらるるなり、十二日水無瀬殿より還御す。
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『玉勝間』二の巻 又立田川然るに今水無瀬の里を過ぎて、はるかにあなたに、神内村と云う有りて、そのほとりに、ちいさき森のかたも有りて、これなむ神なびの杜なると云うなれど、そこにては、古の歌どもにかなわず、その近きほどには川も無し。思うに神内と云うは、後に地をうつして、古の名をのこしたる物にやあらん。かの森のかたは、さて後につくりたるにも有るべし。古今集の詞書に、山崎より神なびのもりまで云云とあるは、山崎をはなれて、あなたなるように聞こゆるは同じ山ざきの内ながら、その里よりかの森までと云うなるべし。
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『玉勝間』二の巻 又立田川立田川と云うは、前の巻にいえる如く、山崎川の事なるを、そは今いずれの川ならむ。かのわたりの事、よくも知らで、年ごろいぶかしかりつるを、ことし寛政五年三月、京より大坂に下れるかえるさまに、山ざきのきしに船よせておりて、そのあたり見めぐりて、この川をも尋ねけるに、大かた山崎よりあなたには、水無瀬川をおきては、川ひとつも無し。さてつらつら考うるに、水無瀬川と云うは、後の名にて、この河ぞ古の立田川なるべき。この川、山崎と水無瀬とのさかいにあり。山城の国と津の国との堺は、川よりすこしこなたにて、川は津の国島の上の郡になん有りける。今は狭き河なれど、かなたこなたの堤高くて、水はよろしきほどの流れなるを思うに、古はややひろく流れけむを、後に堤を高くつきて、今のごとせばくは成しつるなるべし。さて立田川に詠み合わせたる、神なび山神なびの杜は、神名帳なる、山城の国乙訓の郡、玉手より祭り来る酒解神社、(名神大月次新嘗)これを続後紀また臨時祭式などに、山崎の神ともあれば、この神社によりたる名にて、すなわち山崎山の事にぞあるべき。この社は、すなわち今の山崎天王なりとも云えり。
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『玉勝間』九の巻 紫の名高ノ浦名高の浦は、名草の郡にて、今はそのわたり、海士の郡に入れり。今も名高とも、名方とも云う里にて、藤白のすこし北の方なり。ある時若山にて、人々物語しけるついでに、一人が云うよう。名高の里中に、むらさき川と云うちいさき川の有るなりと云う。そはいとおかしき事なるを、もし万葉の歌によりて、事好む者の、つけたる名には有らじか、なおたしかに問いきかまほしき事なりと、おのれ云いければ、又一人、おのれかのあたりは、しばしば行き通う所なれば、今よくあない問い聞きてんと云えるが、後に又来たりしおり、語りけるは、一日名高のわたり物せしに、かの川の事、里のわらわべの遊びいたりしに、この里に、むらさき川と云う川や有ると問いしかば、よく知りいて、ちいさき流れに、橋かけたる所を、これなんそれと、教えつ、とぞ語りける。しかわらわべまでよく知れるは、つくり言にはあらざんめるを、もしこれ古き名ならば、かの万葉に、むらさきの名高と続けたるは、古えこのわたりを、村崎など云いて、そこなる名高の浦と云えるには有らじか。されどかの川の事、なお人づてなれば、たしかには云いがたきを、かしこに物せむ人、なおよくたずね給え。
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『玉勝間』三の巻 つつのみたけ拾遺集の物の名の、つつみのたけは、つつのみたけなり。肥後の国古戦場記と云う物に、かの国に、つつのたけと云う山有り、それなるべし、と云えり。
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