玉勝間 / 八の巻 王の鼻
又王の鼻と云ふ物、天狗面とも云ふ、これを猿田彥ノ神の御形なりと云ふなれども、これも此胡兒のかたなるべきか。貴德の舞の面またく王の鼻なり。江家次第、興福寺供養、また法勝寺御塔會などに、獅子舞の事見えたり。園大曆に、獅子舞德太男と有るは、此舞を業としたる者なり。
新字:又王の鼻と云ふ物、天狗面とも云ふ、これを猿田彦ノ神の御形なりと云ふなれども、これも此胡児のかたなるべきか。貴徳の舞の面またく王の鼻なり。江家次第、興福寺供養、また法勝寺御塔会などに、獅子舞の事見えたり。園大暦に、獅子舞徳太男と有るは、此舞を業としたる者なり。
書き下し
又王の鼻と云う物、天狗面とも云う、これを猿田彦の神の御形なりと云うなれども、これも此胡児のかたなるべきか。貴徳の舞の面またく王の鼻なり。江家次第、興福寺供養、また法勝寺御塔会などに、獅子舞の事見えたり。園大暦に、獅子舞徳太男と有るは、此舞を業としたる者なり。
現代語訳
また「王の鼻」というものは、天狗面とも言い、これを猿田彦神のお姿だと言うけれども、これもこの胡の少年の姿なのではなかろうか。貴徳の舞の面は、まったく王の鼻である。江家次第の興福寺供養や法勝寺御塔会などに、獅子舞のことが見える。園太暦に「獅子舞の徳太男」とあるのは、この舞を業とした者である。
解説
祭礼の行列の先頭に立つ、鼻の高い赤い面「王の鼻」の由来を論じた段である。この面は天狗面とも呼ばれ、神話で天孫を道案内した猿田彦神の姿だとされてきた。宣長は、それもまた前段の西涼伎に描かれる、紫のひげに深い目の胡人の少年の姿ではないかと推し、舞楽の貴徳の面がまさに王の鼻と同じ形であることを証とする。宣長は古事記伝で猿田彦神を詳しく論じた人であるが、祭の面が神の姿として伝えられていても、その形は大陸伝来の芸能の面から来たものかもしれないと、率直に疑いを差し挟んでいる。信仰の対象となった物の由来を冷静に問う姿勢は、神道を重んじた宣長だからこそ、かえって誠実なものといえる。見慣れた祭の姿の奥に、異国の人の面影が重なっていることに気づかせてくれる。
関連する章句
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