玉勝間 / 八の巻 又
一代要記にも、建曆元年四月廿三日、以一萬五千人僧侶、一日一切經書寫供養、導師前大僧正雅緣。
新字:一代要記にも、建暦元年四月廿三日、以一万五千人僧侶、一日一切経書写供養、導師前大僧正雅縁。
書き下し
一代要記にも、建暦元年四月二十三日、一万五千人の僧侶を以て、一日に一切経を書写し供養す、導師は前大僧正雅縁。
現代語訳
一代要記にも「建暦元年四月二十三日、一万五千人の僧侶によって、一日で一切経を書写し供養した。導師は前大僧正雅縁」とある。
解説
前段の一日一切経の記事に、もう一つの例を補った段である。題の「又」は、同じ主題の続きであることを示す。一代要記は、歴代天皇ごとに出来事を記した年代記で、鎌倉時代の建暦元年に、一万五千人の僧が一日で一切経を書写して供養したことを伝える。導師を務めた雅縁は興福寺の高僧である。前段の平安時代の例が京の人々の書写だったのに対し、こちらは多くの僧を動員した大寺の法会であり、一日で一切経を写すことが一度きりの奇事ではなく、功徳を積む営みとして繰り返されたことが分かる。宣長は一つの珍しい事例を見つけると、同じ類の記録を他の書から探して並べ、その事柄が特殊なのか習いとしてあったのかを確かめる。一例で判断せず、類例を集めて見通すという考証の基本が、わずか一行の補足にも表れている。
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 一日のほどに一切経を写せし事中右記に云う、嘉保三年三月十八日、今日京中上下万人、一日の中に、一切経を書写す、是れ一聖人有りて、夢想の告を得、人々を進め催して、各家に於て書写せしめ、則ち供養し了りて、聖人の許に送る者なり、大善根たるに依りて、聊か記し置く所なりと有り。これ数万人して物せむには、たやすかるべきわざながら、さばかりの物を、一日が程に、写しおえけむは、猶珍らしきわざなれば、我も記し置くなり。
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『玉勝間』二の巻 行成記書写の事同記に云う、久安五年十一月廿六日、召しに依りて早く鳥羽殿に参る、法皇北殿に御す、権弁以下執筆の輩十余人、同じく召しに応じて参候するなり、権大納言行成の記、正暦以後五十余巻、御所の近辺に於て之を書写せらる、時時御簾の中に出〓して、叡覧を経、終日書写す、或いは晩頭に退出す、下官本新共に御所に返上して退出し了んぬ、廿七日、早旦鳥羽殿に参る云云、今日下官十五枚書き了んぬ、返上す、晩頭に帰京す、廿八日、早朝鳥羽殿に参る、書写の功昨日の如し云云。
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『玉勝間』二の巻 忌日祥月年忌の事園大暦に云う、貞和三年九月廿五日、今日は竹林院入道左大臣の卅三回の忌辰なり、茲に因りて広義門院、西園寺無量光院の壇場に就きて、御仏事を修せらる、件の朞月の仏事、先規未だ詳らかならず云云、手〓〓を取るに、更に所見無し云云、然れども或いはまた此の事を営む人有るか、予が先妣の此の忌辰、相営む事有り、所詮幽霊の追福、遠近懇志を尽くすの条、孝子の道に叶うべきか、とあり、この論おだやかなり。
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『玉勝間』七の巻 百箇日同書に、延文三年八月九日、天晴る、伝え聞く、贈左府百箇日の仏事、今日等持寺に於て之を修すと云々と有り。贈左府は尊氏の卿なり。
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『玉勝間』八の巻 東宮御炙治増鏡に、後宇多の天皇の、いまだ東宮におわしましける程、御病の時、くすしの申すによりて、御灸治の事有べき由を云える所に、いまだ例無き事は、いかが有べきと、定めかねらる。位にては、ただ一たびためし有けり。春宮にては、いまださるためし無かりけれど、いかがはせむとて、おぼし定むと有り。高倉の天皇厳島御幸の記に、御灸の事見えて、さきの巻に引出たり。ただ一たびためし有とは、是れを申せるにや。されどこれは、御位のほどには有らず、おりいさせ給いて後なり。
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『玉勝間』十三の巻 神社にてほうしをして仏の経をよましむる事同紀に、斉衡元年四月、伝灯大法師位智戒興智真秀、伝灯法師位明昭玄永、伝灯満位僧基蔵基秀を遣わし、七道諸国の名神社に向かい、般若を転読せしむ、民の福を祈るなり。また同三年九月、僧を賀茂松尾大神社に請い、金剛般若経を読ましむ、三日を限りて訖う。また天安元年五月にも、同じ事あり。すべてかかるたぐいの事は、いかなる事にか有りけむ。
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