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玉勝間 / 八の巻 某屋と云ふ家の号の事

さて彼のもろこしの、某堂、某齋のたぐひは、物知り人風雅人なども、商人も、かはる事なくて、同じさまにつく事なるを、御國にてもまねびて、つく人多き。それをば、あき人の家の號に同じとて、厭ふ事なきは、からめきたるに紛るればなるべし。然るに近き頃、古、の學びするともがらは、その某堂、某齋のたぐひは、からめきたるをうるさがりて、皇國言葉もてつけむとするに、かの松屋、藤屋のたぐひは、さすがにさけむとする故に、つくべき號無くて、思ひわぶめり。或は某の屋と、の文字を添て、分むとすれども、木草などのうちに、みやびたる名は、數多からねば、ここにもかしこにも、同じ事のみ出でくめり。そもそももろこしのは、多く二字を連らねてもつくる故に、いかさまにも心にまかせて、珍らしく附くべきを、皇國言は、二つかさねては、長くなりて、呼び苦しければ、かにかくに附けにくきわざなりかし。

新字:さて彼のもろこしの、某堂、某斎のたぐひは、物知り人風雅人なども、商人も、かはる事なくて、同じさまにつく事なるを、御国にてもまねびて、つく人多き。それをば、あき人の家の号に同じとて、厭ふ事なきは、からめきたるに紛るればなるべし。然るに近き頃、古、の学びするともがらは、その某堂、某斎のたぐひは、からめきたるをうるさがりて、皇国言葉もてつけむとするに、かの松屋、藤屋のたぐひは、さすがにさけむとする故に、つくべき号無くて、思ひわぶめり。或は某の屋と、の文字を添て、分むとすれども、木草などのうちに、みやびたる名は、数多からねば、ここにもかしこにも、同じ事のみ出でくめり。そもそももろこしのは、多く二字を連らねてもつくる故に、いかさまにも心にまかせて、珍らしく附くべきを、皇国言は、二つかさねては、長くなりて、呼び苦しければ、かにかくに附けにくきわざなりかし。

書き下し

さて彼のもろこしの、某堂、某斎のたぐいは、物知り人風雅人なども、商人も、かわる事なくて、同じさまにつく事なるを、御国にてもまねびて、つく人多き。それをば、あき人の家の号に同じとて、厭う事なきは、からめきたるに紛るればなるべし。然るに近き頃、古の学びするともがらは、その某堂、某斎のたぐいは、からめきたるをうるさがりて、皇国言葉もてつけむとするに、かの松屋、藤屋のたぐいは、さすがにさけむとする故に、つくべき号無くて、思いわぶめり。或は某の屋と、の文字を添えて、分かむとすれども、木草などのうちに、みやびたる名は、数多からねば、ここにもかしこにも、同じ事のみ出でくめり。そもそももろこしのは、多く二字を連らねてもつくる故に、いかさまにも心にまかせて、珍らしく附くべきを、皇国言は、二つかさねては、長くなりて、呼び苦しければ、かにかくに附けにくきわざなりかし。

現代語訳

さてあの中国の某堂・某斎の類は、物知りや風雅の人なども、商人も、変わることなく同じように付けるものであるが、わが国でもそれにならって付ける人が多い。それを商人の家の号と同じだといって嫌うことがないのは、漢風であることに紛れるからであろう。ところが近ごろ古学をする人々は、その某堂・某斎の類は漢風であるのを嫌がって、皇国の言葉で付けようとするのだが、あの松屋・藤屋の類はさすがに避けようとするので、付けるべき号がなくて思い悩んでいるようだ。あるいは「某の屋(なにのや)」と「の」の文字を添えて区別しようとするけれども、草木などの中で雅びな名は数が多くないので、あちらにもこちらにも同じ名ばかりが出てくるようだ。そもそも中国の号は、多くは二字を連ねても付けるので、どのようにでも心のままに珍しく付けられるが、皇国の言葉は二つ重ねると長くなって呼びにくいので、とにかく付けにくいものなのだ。

解説

前段の屋号の話から、学者や文人の雅号の悩みへと話を移した段である。中国風の「某堂」「某斎」は、商人が使っても漢風の響きのおかげで卑しく見られない。ところが漢意を嫌う古学の徒は、和語で号を付けたいが、「松屋」「藤屋」では商家の屋号と変わらない。そこで「の」を入れて「某の屋」とするが、雅びな草木の名は限られ、同じ号がいくつも生まれてしまう。宣長自身の号「鈴屋(すずのや)」もまさにこの型であり、師の賀茂真淵の「県居(あがたい)」も和語の号である。宣長は同学の苦労を、半ば自分のこととして笑っているのだろう。漢字二字を自在に組み合わせられる漢語に比べ、和語は重ねると長く呼びにくいという指摘は、言葉の性質の違いへの鋭い観察である。今日の命名や商品名づくりにも通じる、和語と漢語の使い勝手の差を教える段である。

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