玉勝間 / 八の巻 万葉集に乎知と云ふ言
萬葉集五の卷に、わがさかりいたくくだちぬ雲にとぶ藥はむともまた遠知めやも、雲にとぶくすりはむよは京見ばいやしき我身また越知ぬべし、此二つの遠知と云ふ言、落にしては、假字もたがひ、歌の意も聞えず。昔より解えたる人無きを、おのれ考、得たり。まづ此二うたは、久しく筑紫に在て、京を戀しく思ひて詠めるにて、始めの歌の意は、わがよはひ盛り過て、いたく衰へたり、今はかのもろこしに有し、淮南王の仙藥を服とも、又若き昔にかへる事は得あらじとなり。次なるは、淮南王の藥をはまんよりは、我は、京を見たらば、又昔にかへりて、若くなるべしとなり。遠知は、何事にても、又もとへかへる意にて、此歌どもなるは、身の又若かりし昔にかへるを云へるなり。十七の卷、家持主の鷹の長歌に、手ばなれも乎知もかやすき云云、こは鷹を褒めたるにて、この乎知は、本の手へ返りくる事を云へるなり。二十の卷に、わが屋戶に咲るなてしこまひはせむゆめ花ちるないや乎知にさけ、是れも又初めへ返り返りして、いよいよ久しく咲けと云へるなり。
新字:万葉集五の巻に、わがさかりいたくくだちぬ雲にとぶ薬はむともまた遠知めやも、雲にとぶくすりはむよは京見ばいやしき我身また越知ぬべし、此二つの遠知と云ふ言、落にしては、仮字もたがひ、歌の意も聞えず。昔より解えたる人無きを、おのれ考、得たり。まづ此二うたは、久しく筑紫に在て、京を恋しく思ひて詠めるにて、始めの歌の意は、わがよはひ盛り過て、いたく衰へたり、今はかのもろこしに有し、淮南王の仙薬を服とも、又若き昔にかへる事は得あらじとなり。次なるは、淮南王の薬をはまんよりは、我は、京を見たらば、又昔にかへりて、若くなるべしとなり。遠知は、何事にても、又もとへかへる意にて、此歌どもなるは、身の又若かりし昔にかへるを云へるなり。十七の巻、家持主の鷹の長歌に、手ばなれも乎知もかやすき云云、こは鷹を褒めたるにて、この乎知は、本の手へ返りくる事を云へるなり。二十の巻に、わが屋戸に咲るなてしこまひはせむゆめ花ちるないや乎知にさけ、是れも又初めへ返り返りして、いよいよ久しく咲けと云へるなり。
書き下し
万葉集五の巻に、わがさかりいたくくだちぬ雲にとぶ薬はむともまた遠知めやも、雲にとぶくすりはむよは京見ばいやしき我身また越知ぬべし、此二つの遠知と云う言、落にしては、仮字もたがい、歌の意も聞えず。昔より解えたる人無きを、おのれ考え得たり。まず此二うたは、久しく筑紫に在りて、京を恋しく思いて詠めるにて、始めの歌の意は、わがよわい盛り過て、いたく衰えたり、今はかのもろこしに有りし、淮南王の仙薬を服とも、又若き昔にかえる事は得あらじとなり。次なるは、淮南王の薬をはまんよりは、我は、京を見たらば、又昔にかえりて、若くなるべしとなり。遠知は、何事にても、又もとへかえる意にて、此歌どもなるは、身の又若かりし昔にかえるを云えるなり。十七の巻、家持主の鷹の長歌に、手ばなれも乎知もかやすき云云、こは鷹を褒めたるにて、この乎知は、本の手へ返りくる事を云えるなり。二十の巻に、わが屋戸に咲るなでしこまいはせむゆめ花ちるないや乎知にさけ、是れも又初めへ返り返りして、いよいよ久しく咲けと云えるなり。
現代語訳
万葉集の巻五に、「わが盛りいたくくだちぬ雲に飛ぶ薬はむともまた遠知(をち)めやも(私の盛りはすっかり衰えてしまった。雲に飛ぶ仙薬を飲んだとしても、また若返ることがあろうか)」、「雲に飛ぶ薬はむよは京見ばいやしき我が身また越知(をち)ぬべし(雲に飛ぶ仙薬を飲むよりは、都を見たならば、卑しいわが身もまた若返るにちがいない)」とある。この二つの「をち」という言葉は、「落ち」としては仮名遣いも違い、歌の意味も通じない。昔から解き得た人がいないのを、私は考え得た。まずこの二首は、長く筑紫にいて都を恋しく思って詠んだものであって、初めの歌の意味は、わが年齢は盛りを過ぎてひどく衰えた、今はあの中国にあった淮南王の仙薬を飲んだとしても、また若い昔に返ることはできまい、というのである。次の歌は、淮南王の薬を飲むよりは、私は都を見たならば、また昔に返って若くなるだろう、というのである。「をち」は、何事でも、またもとへ返る意味で、これらの歌では、身がまた若かった昔に返ることを言っているのである。巻十七の家持主(大伴家持)の鷹の長歌に「手離れもをちもかやすき(手から放つのも、戻ってくるのもたやすい)」云々とあるのは、鷹をほめたもので、この「をち」はもとの手へ返ってくることを言っているのである。巻二十に「わが屋戸に咲けるなでしこ幣はせむゆめ花散るないやをちに咲け(わが家の庭に咲くなでしこよ、捧げ物をしよう、決して散るな、いよいよ若返って咲け)」とあるのも、また初めへ返り返りして、いよいよ久しく咲けと言っているのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 郭公にをちかへりとよむ言又常に郭公の歌に、をちかえり鳴と詠むも、本の所へ又かえり来て鳴くを云うなり。此詞の意、右の歌どもを引合せて、互いにあい照らして知るべし。
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『玉勝間』八の巻 万葉集に見えたる和気と云ふ称次に家持の卿のかえしに、わが君にわけはこうらし給いたるつばなをくえどいややせにやす、此わけは、ただに我を云うに似たれども、然らず。女郎がたわぶれをうけて、その和気とのたまえる我はと云う意なり。かなたの戯の詞を受けて、そのままに云いかえす事、今の世にも有る事なり。又これも、必ず吾妹子と云うべきを、わが君にと云えるも、女郎が、こなたを和気と云えるを、打返して、あがめたるたわぶれなり、心をつくべし。上の件の和気の事、斯くまぎらわしき歌ある故に、昔よりよく解得たる人無きを、右の如く心得る時は、皆明らかにして、まぎれ無く、戯奴と書る由も、よく聞えたり。
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『玉勝間』八の巻 万葉集に見えたる和気と云ふ称皇子たちなどの御名にある、某別、又姓のかばねの、某の別などの別には有らで、万葉集の歌に、一種の和気と云える称有り。そを人皆、みずからひげして云う称とのみ心得たるは、くわしからず。常に打まかせてひげして、僕など云うとは異にして、これは、人より我をさして云う詞をもうけて、そを其人に云い遣るとて、殊さらに我を賤きさまに云いなす称なり。さるはすこしたわぶれたる物にて、まことのひげには有らず。四の巻に、わが君は和気をば死ねと思えかも云云、これ人の我を死ねと思うと云う事を、もうけて、云い遣るなり。さて我を賤しめて云うから、人をば吾妹子と云うべきを、殊更にあがめたるさまに、わが君と云えるも、少したわぶれなり。同じ巻に、黒木とりかやもかりつつつかえめどいそしき和気とほめむともあらず、これも同じ事にて、人の我をいそしき者と云わむ詞を、もうけて云いやるなり。
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『玉勝間』十三の巻 万葉集に不ノ字を略きて書る例万葉集七の巻に、「青みずら、依網の原に、人も逢わぬかも、石走る、淡海県の物語せむ」、この二三の句、よさみの原に人もあわぬかもと訓むべし。あわぬかもは、あえかしとねがう例の言なり。九の巻に「雲隠る、雁鳴く時は、秋山の黄葉片待つ、時はすぎねど」、この結句、時はすぎねどと訓までは、聞こえぬ歌なり。十の巻に、「霞立つ、春の永日を、恋い暮らし、夜の更けゆけば、妹に逢わぬかも」この結句も、あわぬかもと訓までは聞こえず。同巻に、「五月山、卯の花月夜、ほととぎす、聞けども飽かず、又鳴かぬかも」これもなかぬかもにて、又なけかしの意なり。十一の巻に、「我が背子は、幸く座すと、遍く来て我に告げ来む、人も来ぬかも」、これもこぬかもにて、来かしと待つ意なり。同巻に、「日並べば、人知りぬべし、今日の日の、千歳のごとく有らぬかも」、同巻に、「かくしつつ、吾が待つしるし、有らぬかも、世の人皆の、常にあらなくに」、三の句あらぬかもにて、あれかしの意なり。又同巻に、「しきたえの、枕動きて寝ねらえず、物念うこの夕、急く明けぬかも」、これも同じ。件の歌どもみな、不の字を省きて書けるものなり。この例なお引きもらせるも有らむか、なぞらえて知るべし。いずれも本の訓はひがことなり。然るを、ぬと訓までかなわぬことを考え得て、不の字を脱せるかとまでは、心づける人も有れども、そを略ける例なる事をさとれる人は、いまだあらず。一つ二つのみならず、かくあまた例あるにて、たまたま落ちたるにはあらざる事をさとるべし。
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『玉勝間』十一の巻 万葉集をよむこころばへ然れども誤字なるを知らずして、本のままに訓めるなどには、強いたる事多く、そのほかすべての訓みざまも、なおよからざること多きを、その後またこの集の事、いよいよ委しくなりもてきぬるまにまに、訓もいと善くなれれども、なおいまだ〓く直りはてたりとは云いがたし。まず誤字のことごとく知られざる程は、訓もことごとくよろしくは直り難きわざなり。誤字のなおいと多かるを、その字のままに訓まむとせむには、かえりてしい言になるたぐい多かるべきをよく心得べし。またすべての訓みざま、仮字書きの所をよく考えて、その例をもてよむべきなり。おおかたこれら、この集をよむに、むねと心得べき事どもなりかし。
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『玉勝間』十の巻 千鳥にをちかへりと詠める歌おちかえりと云う事は、大かた郭公ならでは詠まぬようなるに、拾遺集雑上に能宣、「暁のねさめの千鳥たがためか佐保の川原におちかえりなく、と有り。続後拾遺集冬にも、六条の内大臣、「明石がたとわたる千鳥おちかえりいく浦浪をかけて鳴らん、これは拾遺なる歌によりて、詠み給えるにや。右の歌どもの外にも有るべきか、今は見あたりたるを出せるのみなり。閏五月郭公と云う題にて、俊頼の朝臣、「やよやまたきなけみそらの時鳥五月だにこそおちかえりつれ、新勅撰集に入れり。これは郭公によりたれど、五月をおちかえりと詠めり。
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