玉勝間 / 八の巻 こうさく くわいどく 聞書
又聞書と云ひて、聞く聞くその趣を書きしるすわざ有リ、そは中に忘れもしぬべき節などを、をりをりはいささかづつしるし置かむは、さも有べきわざなるを、始めより師の云ふままに、一言も漏らさじと、筆はなたず、ことごとに書き續くるかし。そもそもこうさくは、よく心を鎭めて、事の心を、こまやかに聞き得べきわざなるに、此きき書すとては、聞く方よりも、遲れじと書く方に、心はいそがれて、あわたたしきに、殊によく聞くべき節も、かいまぎれて、聞き洩し、或るはあらぬすぢに、聞きひがめもするぞかし。然るに是れをしも、いみしきわざに思ひて、いかで我れこまかにしるし取らむと、唯だ是れにのみ心を入れて、務むる程に、もはら聞書のためのこうさくに成る類ひも多かるは、いといとあぢき無きならひになん有ける。
新字:又聞書と云ひて、聞く聞くその趣を書きしるすわざ有リ、そは中に忘れもしぬべき節などを、をりをりはいささかづつしるし置かむは、さも有べきわざなるを、始めより師の云ふままに、一言も漏らさじと、筆はなたず、ことごとに書き続くるかし。そもそもこうさくは、よく心を鎮めて、事の心を、こまやかに聞き得べきわざなるに、此きき書すとては、聞く方よりも、遅れじと書く方に、心はいそがれて、あわたたしきに、殊によく聞くべき節も、かいまぎれて、聞き洩し、或るはあらぬすぢに、聞きひがめもするぞかし。然るに是れをしも、いみしきわざに思ひて、いかで我れこまかにしるし取らむと、唯だ是れにのみ心を入れて、務むる程に、もはら聞書のためのこうさくに成る類ひも多かるは、いといとあぢき無きならひになん有ける。
書き下し
又聞書と云いて、聞く聞くその趣を書きしるすわざ有り、そは中に忘れもしぬべき節などを、おりおりはいささかずつしるし置かむは、さも有べきわざなるを、始めより師の云うままに、一言も漏らさじと、筆はなたず、ことごとに書き続くるかし。そもそもこうさくは、よく心を鎮めて、事の心を、こまやかに聞き得べきわざなるに、此きき書すとては、聞く方よりも、遅れじと書く方に、心はいそがれて、あわただしきに、殊によく聞くべき節も、かいまぎれて、聞き洩し、或るはあらぬすじに、聞きひがめもするぞかし。然るに是れをしも、いみじきわざに思いて、いかで我れこまかにしるし取らむと、唯だ是れにのみ心を入れて、務むる程に、もはら聞書のためのこうさくに成る類いも多かるは、いといとあじき無きならいになん有ける。
現代語訳
また「聞書(ききがき)」といって、聞きながらその趣旨を書き記すやり方がある。それは、途中で忘れてしまいそうな箇所などを、ときどき少しずつ記しておくのならば、そうあってよいことだが、始めから師の言うとおりに一言も漏らすまいと、筆を離さず、何もかも書き続けるのだ。そもそも講釈は、よく心を落ち着けて、事の意味を細やかに聞き取るべきものなのに、この聞書をしようとすると、聞くことよりも遅れまいと書くほうに心が急かされて慌ただしく、とりわけよく聞くべき箇所も紛れて聞き漏らし、あるいは見当違いの筋に聞き誤りもするのだ。それなのにこれを大したことと思って、なんとか自分は細かく書き取ろうと、ただこれにばかり心を入れて努めるうちに、もっぱら聞書のための講釈になってしまう類も多いのは、まことに情けない習いなのであった。
解説
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 こうさく くわいどく 聞書世の中に此わざするを見るに、大かた始めの程こそ、此処かしこかえさい、あげつらいなど然るべきさまに見ゆれ、度重なれば、おのずから怠りつつ、一ひらにても、多く読みもてゆかむとする程に、いかにぞや覚ゆるふしぶしをも、多くなおざりに過すならいにて、おおかたひとり居て読むにも、かわる事無ければ、殊に集いたるかいも無き中に、うい学びのともがらなどは、いささかもみずから考え得る力は無きに、是れもかれも聞えぬ事がちなるを、ことごとに問い出む事もつつましくて、聞えぬながらに、さて過ぐしやるめれば、さるともがらなどの為には、猶講釈ぞ勝りては有りける。されどこうさくも、唯だ師の云う事をのみ頼みて、己れ力入れむとも思わず、聞事をのみむねとせむは、云うかい無く口惜きわざなり。まず下見と云う事をよくして、始めより、力の限りは、みずからとかく思いめぐらし、聞えがたき所々は、殊に心を入れて、かえさい読み置けば、聞く時に、心のとまる故に、さとる事も、こよなくして、忘れぬ物なり。さて聞て、家に帰りたらむにも、やがてかえり見と云う事をして、聞きたりし趣を、思い出て味うべし。
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『玉勝間』八の巻 こうさく くわいどく 聞書いずれの道のまなびにも、講釈とて、古き書の心をとき聞するを、聞くこと常なり。中昔には、これを談義となん云いけるを、今はだんぎとは、法師の愚かなる者ども集めて、仏の道を云い聞するをのみ云いて、こうさくと云うは、さまことなり。さて此こうさくと云うわざは、師の云う事をのみ頼みて、己が心もて、考うる事無ければ、物学びのために、やく無しとて、今ようの儒者などは、宜しからぬわざとして、会読と云う事をぞすなる。そはこうさくとはよう変りて、各みずから考えて、思い得たるさまをも、云い試み、心得がたきふしをば、問い聞き、かえさいもして、かたみにあげつらい、定むるわざなれば、げに学問のために宜しきしわざとは聞えたれど、それさしも得あらず。
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『玉勝間』六の巻 書うつし物書く事ふみを写すに、同じくだりのうち、或るはならべるくだりなどに、同じ詞の有る時は、見まがえて、そのあいだなる詞どもを、写し漏らす事、常によく有るわざなり。また一ひらと思いて、二ひら重ねてかえしては、その間の一ひらを、みながら落とすことも有り。これら常に心すべきわざなり。またよく似て、見まがえやすき文字などは、殊にまがうまじく、たしかに書くべきなり。これは写しがきのみにもあらず、おおかた物書くに、心得べき事ぞ。すべて物を書くは、事のこころをしめさむとてなれば、おうなおうな文字さだかにこそ書かまほしけれ。さるをひたすら、筆のいきおいを見せむとのみしたるは、いかなる事とも、読み解きがたきが、世に多かる、あじきなきわざなり。常に書きかわす、消息文なども、文字読みがたくては、云いやるすじ、ゆきとおらず、読む人はた苦しみて、かしらかたぶけつつ、かえさい読めども、ついに読み得ずなどしては、ここ読みがたしと、かえし問わんも、さすがに無体しきようなれば、ただおしはかりに心得ては、事たがいもするぞかし。
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『玉勝間』七の巻 物書くに心すべき事古は、かたえの人も、皆心明らかなりしかば、いかに書きても、読みたがうる事無かりしかばこそ有れ、今の世は、みずからこそ心得たらめ、かたえの人は、心得たらねば、ともすれば、読みたがえ、写しひがむるたぐいのみ多かれば、いかにももの書くには、心すべきわざぞと、おのれは思いとりてぞ在る。さればおのが癖にて、つねに物書くに、読みたがえやせん、写しひがめやせんとのみ、心するほどに、もとよりいといと拙き手をいとどしじかみて、かたわには有るなり。また古言などは、殊に人の読みたがえ、誤る事多きを、いかであやまらず、正しく読ましめんとする程に、さらでも有るべき所にも、度ごとに仮字づけしなどして、心高き人には、わらわるるを、みずからも且つは知りながら、しみつきたる癖は、世に離れがたきわざになん。
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『正法眼蔵随聞記』巻六示して云く、当世学道する人、多分法を聞く時、先づ能く領解する由を知られんと思ひ、答の言ばのよからん様を思ふほどに、聞くことばが耳を過すなり、総じて詮する処道心なく吾我を存するゆゑなり、只須く先づ吾我を忘れて、人の云はんことを能く聞得て、後に静に案じて、難もあり不審もあらば、追ても難じ、心得たらば重て師に呈すべし、当座に領する由を呈せんとするは、法を能くも聞得ざるなり、
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『玉勝間』十二の巻 物学びはその道をよくえらびて入そむべき事物まなびに心ざしたらむには、まず師をよく択びて、その立てたるよう、のさまを、よく考えて、従いそむべきわざなり。さとりにぶき人は、更にも云わず、もとより、智とき人といえども、大かた始めに従いそめたるかたに、おのずから心は引かるるわざにて、その道の筋悪ろけれど、悪ろき事をえさとらず。また後にはさとりながらも、年頃のならいは、さすがに捨て難きわざなるに、我とか云う禍神さえ立ちそいて、とにかくにしいごとして、なおその筋をたすけむとする程に、終に善き事はえ物せで、世の限りひがことのみして、身をおうる類いなど、世に多し。かかる類いの人は、つとめて深く学べば、学ぶまにまに、いよいよ悪ろき事のみ盛りになりて、己れまどえるのみならず、世の人をさえにまどわす事ぞかし。かえすがえす始めより、師をよく選ぶべきわざになむ。この事は、うい山ぶみに云うべかりしを、もらしてければ、ここには云うなり。
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