玉勝間 / 八の巻 長歌の詞のつづき五七なると七五なるとの事
今の人の、ふるき長歌をよみあぐるを聞くに、多く七五七五とよみ續くめれど、萬葉の長歌の、句の運びを見るに、其詞みな、五七五七と續きて、七五と續きたる所は、いといと稀れなり、されば今これを誦むにも、詞のままに、五七五七とこそよむべきなれ。然るに古今集よりこなたの長歌は、初めの句は、五七なれども、つぎつぎは、多く七五七五と續きたり。今此けぢめを試むるに、すべて七五七五とよむかた、たよりよくて、調べもよろしきやうに覺ゆるにつきて思ふに、古今集の頃よりして、早くさ有りけむ故に、そのかみみづから詠み出る歌も、おのづから然續きたるなるべし、さて中頃の今樣と云ふ物、其後ちの物、近き世の俗たる歌のたぐひ、すべて後の物は皆、初めの句より七五なり。
新字:今の人の、ふるき長歌をよみあぐるを聞くに、多く七五七五とよみ続くめれど、万葉の長歌の、句の運びを見るに、其詞みな、五七五七と続きて、七五と続きたる所は、いといと稀れなり、されば今これを誦むにも、詞のままに、五七五七とこそよむべきなれ。然るに古今集よりこなたの長歌は、初めの句は、五七なれども、つぎつぎは、多く七五七五と続きたり。今此けぢめを試むるに、すべて七五七五とよむかた、たよりよくて、調べもよろしきやうに覚ゆるにつきて思ふに、古今集の頃よりして、早くさ有りけむ故に、そのかみみづから詠み出る歌も、おのづから然続きたるなるべし、さて中頃の今様と云ふ物、其後ちの物、近き世の俗たる歌のたぐひ、すべて後の物は皆、初めの句より七五なり。
書き下し
今の人の、ふるき長歌をよみあぐるを聞くに、多く七五七五とよみ続くめれど、万葉の長歌の、句の運びを見るに、其詞みな、五七五七と続きて、七五と続きたる所は、いといと稀れなり、されば今これを誦むにも、詞のままに、五七五七とこそよむべきなれ。然るに古今集よりこなたの長歌は、初めの句は、五七なれども、つぎつぎは、多く七五七五と続きたり。今此けじめを試むるに、すべて七五七五とよむかた、たよりよくて、調べもよろしきように覚ゆるにつきて思うに、古今集の頃よりして、早くさ有りけむ故に、そのかみみずから詠み出る歌も、おのずから然続きたるなるべし、さて中頃の今様と云う物、其後ちの物、近き世の俗たる歌のたぐい、すべて後の物は皆、初めの句より七五なり。
現代語訳
今の人が古い長歌を読み上げるのを聞くと、多くは七五・七五と区切って読み続けるようだが、万葉集の長歌の句の運びを見ると、その言葉はみな五七・五七と続いていて、七五と続いている所はきわめてまれである。だから今これを誦むにも、言葉のとおりに五七・五七と読むべきである。ところが古今集以降の長歌は、初めの句は五七であっても、その先は多く七五・七五と続いている。いまこの違いを試してみると、全体に七五・七五と読むほうが読みやすく、調べもよいように感じられることから考えるに、古今集の頃からすでにそうであったので、その当時自分で詠み出す歌も、自然とそのように続いたのであろう。さて中世の今様というもの、その後のもの、近世の俗な歌の類など、後のものはすべて、初めの句から七五である。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』八の巻 長歌の詞のつづき五七なると七五なるとの事そもそも万葉の頃までは、五七と続くかた、調べよろしかりけむを、古今集の頃よりして、七五と成りて、今もそれ宜しく覚ゆるは、古えと後の世との、おのずからの調べの変りなるべし、今の世に、万葉風を詠む人多くて、何事も、後の世をばわろしと云う者の、そのよめる長歌を見れば、そのことば、多くは七五七五と続けるは、此けじめを得知らずして、猶後の世のおのずからの調べを、得まぬかれざるなり。古今集の長歌、初めなる二首は、五七とも七五とも、交りて続けるを、後の三首は、おおかたは七五と定まれり。
-
うひ山ぶみ・注[ウ]万葉の歌の中にてもいまだその法度を示したる書などもなき故に、とかく古風家の歌は、みだりなることおほきぞかし、長歌をもよむべし、長歌は、古風のかた殊にまされり、古今集なるは、みなよくもあらず、中にいとつたなきもあり、大かた今の京になりての世には、長歌よむことは、やうやうにまれになりて、そのよみざまも、つたなくなりし也、後世にいたりては、いよいよよむことまれなりしを、万葉風の歌をよむ事おこりて、近きほどは、又皆長歌をも多くよむこととなりて、其中には、万葉集に入ルとも、をさをさはづかしかるまじきほどのも、まれには見ゆるは、いともいともめでたき大御世の栄えにぞ有ける、そもそも世の中のあらゆる諸の事の中には、歌によまんとするに、後世風にては、よみとりがたき事の多かるに、返て古風の長歌にては、よくよみとらるゝことおほし、これらにつけても、古風の長歌、必ズよみならふべきこと也、又後世風をもすてずして云々、今の世、万葉風をよむ輩は、後世の歌をば、ひたすらあしきやうに、いひ破れども、そは実によきあしきを、
-
『玉勝間』一の巻 古今集の長歌の事古今集の長歌、はじめに載せたるは、いといとつたなし。その歌に、なにしかも人をうらみむと云えること、上下にあいあづからざる事なり、この二句をのぞきて善けん。また一うたのうちに、思と云う詞九つ有りて、いと耳かしかましき中に、けなばけぬべく思えどもと云える事さえ、二所に重なりて有るはいかにぞや。思えどもと云う句は、なお今一つあり。また思いは深しと云える句、またとぢめの二句などは、ちからなく聞こえて漂よわし、次に貫之の歌、目録ならんからに、事の続きざま、むげにことわり無し。忠岑は一ふし有りて聞こゆ。躬恒、なにのふしも無し。伊勢は中によろし。そもそも斯くあげつらうは、いとおおけなけれど、なおえあらでなん。
-
『玉勝間』十三の巻 長歌は今はたやすくは詠まぬ事と云ふ事逍遥院の大臣の、きぬかずきの日記の跋に、事のついでに申し出で侍る。長歌と云う物、この頃となりて、たわやすく詠まぬ事のようになれるは、いかなる故の侍るならむ、いと覚束なき事なりと見ゆ。
-
『玉勝間』十四の巻 又たとへ歌のやうたとえ歌、古今集よりこなたのはその歌を見れば、譬えたる意あらわに知らるるように詠みたる物なり。然るに、万葉集なるは、その事にあたりて、その詠みたる人は、譬えたる心を知るべけれど、後にその歌を見たるのみにては、たとえたる意はこまかには知れ難きが多し。されば今その歌をとくに、大かたにはおしはからるれども、確かには云いがたき歌おおし。その心してとくべきなり。又万葉のたとえ歌は、その譬えたる草木鳥虫のうえの詞と、ただに恋のうえを云える詞とを、あいまじえて詠める多し。これ又心得おくべし。
-
『玉勝間』十二の巻 歌に六義と云ふ事いわゆる古注に、おおよそむくさに分かれむことは、えあるまじき事になむと云えるぞ、よくあたれる論いには有りける。この一言にて、六義の論は尽きたるべし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る