玉勝間 / 七の巻 もろこしに名高き物しり人の仏法を信じたりし事
佛の道は、もろこしの國にて、世世に名高き儒者などの中にも、信じ尊みたるが、あまた聞ゆるによりては、まことに捨てがたき物にこそ、と思ふ人あンめれど、かのもろこしにて、然か名高き物知り人どもの、佛を信じ尊みたるやうなるは、まことの心に信じ尊みたるは、いと少くて、多くは唯だもてあそびたるにこそ有れ。さるは彼の道の說るやう、あやしく廣く大きにして、此世のほかを、とほく深く、さとり明らめたるさま、すべての心の掟など、めづらかにおかしき物なるが故に、詩作る人などは、更にも云はず、さらぬも、是れをもてあそびて、風流のたすけにぞしたンめる。又その諸宗に、高僧と聞ゆる法師どもの中にも、實に尊み信じて、行ひたるには有らで、世の中の人に尊まれ、いさぎよくいみしき名をとどめて、後の世まで仰がれむ爲に、その道の書を深く學び、もろもろの慾をも忍び、たへがたき行ひをもして、まことしげに振舞ひたるぞ、多く見えたンめる。そもそも利のため名のためには、命をさへに、惜しまぬたぐひも有るわざなれば、何かは、其れはた怪しむべき事にも有らずかし。
新字:仏の道は、もろこしの国にて、世世に名高き儒者などの中にも、信じ尊みたるが、あまた聞ゆるによりては、まことに捨てがたき物にこそ、と思ふ人あンめれど、かのもろこしにて、然か名高き物知り人どもの、仏を信じ尊みたるやうなるは、まことの心に信じ尊みたるは、いと少くて、多くは唯だもてあそびたるにこそ有れ。さるは彼の道の説るやう、あやしく広く大きにして、此世のほかを、とほく深く、さとり明らめたるさま、すべての心の掟など、めづらかにおかしき物なるが故に、詩作る人などは、更にも云はず、さらぬも、是れをもてあそびて、風流のたすけにぞしたンめる。又その諸宗に、高僧と聞ゆる法師どもの中にも、実に尊み信じて、行ひたるには有らで、世の中の人に尊まれ、いさぎよくいみしき名をとどめて、後の世まで仰がれむ為に、その道の書を深く学び、もろもろの慾をも忍び、たへがたき行ひをもして、まことしげに振舞ひたるぞ、多く見えたンめる。そもそも利のため名のためには、命をさへに、惜しまぬたぐひも有るわざなれば、何かは、其れはた怪しむべき事にも有らずかし。
書き下し
仏の道は、もろこしの国にて、世々に名高き儒者などの中にも、信じ尊みたるが、あまた聞こゆるによりては、まことに捨てがたき物にこそ、と思う人あんめれど、かのもろこしにて、然か名高き物知り人どもの、仏を信じ尊みたるようなるは、まことの心に信じ尊みたるは、いと少なくて、多くはただもてあそびたるにこそ有れ。さるは彼の道の説けるよう、あやしく広く大きにして、この世のほかを、とおく深く、さとり明らめたるさま、すべての心の掟など、めずらかにおかしき物なるが故に、詩作る人などは、更にも云わず、さらぬも、これをもてあそびて、風流のたすけにぞしたんめる。またその諸宗に、高僧と聞こゆる法師どもの中にも、実に尊み信じて、行いたるには有らで、世の中の人に尊まれ、いさぎよくいみしき名をとどめて、後の世まで仰がれむ為に、その道の書を深く学び、もろもろの欲をも忍び、たえがたき行いをもして、まことしげに振る舞いたるぞ、多く見えたんめる。そもそも利のため名のためには、命をさえに、惜しまぬたぐいも有るわざなれば、何かは、それはた怪しむべき事にも有らずかし。
現代語訳
仏の道は、中国で代々名高い儒者などの中にも信じ尊んだ人が大勢いたと聞くので、本当に捨てがたいものなのだろう、と思う人がいるようだが、あの中国で、そのように名高い物知りたちが仏を信じ尊んだように見えるのは、本当の心から信じ尊んだ者はたいそう少なく、多くはただもてあそんでいたのである。というのも、あの道の説き方は、不思議なほど広く大きくて、この世の外のことまで遠く深く悟り明らめた様子や、すべての心のあり方の掟など、珍しく興味深いものなので、詩を作る人などは言うまでもなく、そうでない人も、これをもてあそんで風流の助けにしたようである。またその諸宗の、高僧と呼ばれる法師たちの中にも、本当に尊び信じて修行したのではなく、世の人に尊ばれ、清らかで立派な名を残して、後の世まで仰がれるために、その道の書物を深く学び、もろもろの欲も耐え忍び、耐えがたい修行もして、いかにも本当らしく振る舞った者が多く見えるようである。そもそも利益のため名声のためには、命さえも惜しまない類もあるものだから、どうして、それもまた不思議がるべきことでもないのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 世の人仏の道に心のよりやすき事ほとけの道には、さばかりさかしだちたる、今の世の人の心も、移り易きは、必ずその道よろしと、思いとれるにしも有らねど、昔よりあまねく盛りにて、おしなべて世の中の人の、皆行うわざなるに、かたえは催さるるぞ多かりける。すべてなにわざも、世にあまねく、人の皆する事には、誰れもすずろに心のより易きならいぞかし。
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『玉勝間』十四の巻 世の人まことの道に心つかざる事もろこしの国には、道教と云うもの、世々に盛んに行われて、大かた仏道とひとしきばかりなり。この道、老子を祖とはたつれども、老子が意とはいたく異にして、ただあやしき戯れわざのようなる事にて、そのむねを極むれば、ようなきいたずら事なり。皇国に、この道のわたりもうでこざるは幸いなり。然は有れども、天の下の人の心、仏道と儒道とに、ことごとく奪われ果てたるは、又なげかしき事なり。大かた天下の人、上中下、さかしき愚かなる、おしなべて、奥山の山賤までも、仏を信ぜざるは一人も無く、その中に、角なる字をもいささか読むほどの者は、又なかば儒意をまじえて、万ずの事を思い定むめり。されば、神のまことの道を思う人は、千万人の中に、ただ一人二人にて、その余は神社につかうる人の中に、稀れ稀れさすがに己が家の業と思い得て、神の道を尊ぶもあれど、さる人も、多くは仏意儒意なり。又神の道と云うも、皆儒仏によりて説きまげたる物なれば、まことの道は、大かた絶えはてたるも同じ事なり。
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『玉勝間』七の巻 道を説く事はあだし道道の意にも世の人のとりとらざるにもかかはるまじき事道を説かむに儒にまれ、老にまれ、仏にまれ、稀れ稀れに心ばえの通える所の有るを捉えて、おのが心のひくかたにまかせて、通わぬ所をも、すべてその筋に引きよせて説きなし、或いはまた他道と同じからん事を、いといさけて、殊更にけじめを見せ、さまを変えて説かむとする、これら皆いとあじきなくしいたるわざなり似ざらむも似たらむも、異ならむも同じからむも、とにかくに異道の意には、いささかもかかわるべきわざにあらず。またかく説きたらむには、世にうけひかじ、かく云いてこそ、人は信ぜめなど、世の人の心をとりて、いささかも説き曲げむ事は、またいと有るまじく、心ぎたなきわざなり。すべて世の人の褒め謗りをも、思うべきにはあらず。たとい、あだし道々とは、うらうえのたがいあり、世にも絶えて信ずる人無からむにても、ただ神の御ふみの趣のままにこそは、説くべきわざなりけれ。
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『玉勝間』七の巻 もろこしの老子の説まことの道に似たる所ある事大かた万ずの事、おのずからこれにも彼れにも、通いて似たる事は、必ずまじる物にて、この道も、儒のおもむきと通えるところも交じり、仏の道とも似たる事はまじれれば、おのずから彼の老子とも、かたはし似たるところ通えるところは、などか交じらでは有らむ。
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『玉勝間』十四の巻 仏道仏道は、ただ悟りと迷いとをわきまえて、その悟りを得るのみにして、その余の事はみな枝葉のみなり。かくてその悟りと云う物、また無用の空論にして、露も世に益ある事無し。しかるを、世の人、その枝葉の方便にまどえるは、いかなる愚かなる心ぞや。
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『玉勝間』十四の巻 聖人を尊む事世々のもろこし人おしなべて、かの国の聖人と云う物を尊み信ずる中には、実に尊み信ずる人も有るべく、又心にはいかにぞや思う事有れども、聖人にたがいては世の人のそしりてうけぬ事なるによりて、尊み信ずるかおして、世に従えるもありげに見ゆるなり。又もろもろの聖人どもの中に、孔子は、かの国の王にあらず、もはらその道の人なるが故に、あるが中にこの人をば殊に尊み信ずめるは、これつとめてこれを褒めたてて、その道を張らむとするなり。
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