玉勝間 / 七の巻 御世御世の大嘗月日悠紀主基国郡
寛治元十廿二御ー、十一十九丁卯大ー、近ー甲賀ー、備中賀夜ー、御屏ー、伊房ー、鳥羽、天仁元十廿一丁酉御ー、十一廿一丁卯大ー、近ー甲賀ー、丹ー氷上ー、御屏ー、定實章綱ー、崇德、保安四十十五甲午御ー、十一十八丁卯大ー、近ー甲賀ー、備中下道ー、御屏ー、近衞、康治元十廿六乙酉御ー、十一十五癸卯大ー、近江野洲ー、丹ー氷上ー、御屏ー、定信ー、後白川、久壽二十廿九癸卯御ー、十一廿三丁卯大ー、近ー甲賀ー、丹ー氷上ー、御屏ー、朝隆ー、二條、平治元十廿一辛未御ー、十一廿三癸卯大ー、近ー坂田ー、丹ー氷上ー、御屏ー、伊行ー、六條、仁安元十廿七丁酉御ー、十一十五乙卯大ー、近ー坂田ー、丹ー多紀ー、御屏ー、伊行ー、高倉、嘉應元十、廿一己酉御ー、十一廿二辛卯大ー、近ー甲賀ー、備中賀夜ー、御屏ー、朝方伊經ー、安德、(延引初例)壽永元十御ー、十一廿四辛卯大ー、近ー野洲ー、丹ー氷上ー、御屏ー、朝方伊經ー、後鳥羽、元曆元十御ー、十一十八癸卯大ー、近ー甲賀ー、丹ー多紀ー、土御門、建久九十廿七辛卯御ー、十一廿二乙卯大ー、近ー野洲ー、備中英賀ー、順德、建曆二十廿二庚子御ー、十一十三乙卯大ー、近ー甲賀ー、丹波氷上郡。
新字:寛治元十廿二御ー、十一十九丁卯大ー、近ー甲賀ー、備中賀夜ー、御屏ー、伊房ー、鳥羽、天仁元十廿一丁酉御ー、十一廿一丁卯大ー、近ー甲賀ー、丹ー氷上ー、御屏ー、定実章綱ー、崇徳、保安四十十五甲午御ー、十一十八丁卯大ー、近ー甲賀ー、備中下道ー、御屏ー、近衛、康治元十廿六乙酉御ー、十一十五癸卯大ー、近江野洲ー、丹ー氷上ー、御屏ー、定信ー、後白川、久寿二十廿九癸卯御ー、十一廿三丁卯大ー、近ー甲賀ー、丹ー氷上ー、御屏ー、朝隆ー、二条、平治元十廿一辛未御ー、十一廿三癸卯大ー、近ー坂田ー、丹ー氷上ー、御屏ー、伊行ー、六条、仁安元十廿七丁酉御ー、十一十五乙卯大ー、近ー坂田ー、丹ー多紀ー、御屏ー、伊行ー、高倉、嘉応元十、廿一己酉御ー、十一廿二辛卯大ー、近ー甲賀ー、備中賀夜ー、御屏ー、朝方伊経ー、安徳、(延引初例)寿永元十御ー、十一廿四辛卯大ー、近ー野洲ー、丹ー氷上ー、御屏ー、朝方伊経ー、後鳥羽、元暦元十御ー、十一十八癸卯大ー、近ー甲賀ー、丹ー多紀ー、土御門、建久九十廿七辛卯御ー、十一廿二乙卯大ー、近ー野洲ー、備中英賀ー、順徳、建暦二十廿二庚子御ー、十一十三乙卯大ー、近ー甲賀ー、丹波氷上郡。
書き下し
寛治元十廿二御禊、十一十九丁卯大嘗、近江甲賀郡、備中賀夜郡、御屏風、伊房書く、鳥羽、天仁元十廿一丁酉御禊、十一廿一丁卯大嘗、近江甲賀郡、丹波氷上郡、御屏風、定実章綱書く、崇徳、保安四十十五甲午御禊、十一十八丁卯大嘗、近江甲賀郡、備中下道郡、御屏風、近衛、康治元十廿六乙酉御禊、十一十五癸卯大嘗、近江野洲郡、丹波氷上郡、御屏風、定信書く、後白川、久寿二十廿九癸卯御禊、十一廿三丁卯大嘗、近江甲賀郡、丹波氷上郡、御屏風、朝隆書く、二条、平治元十廿一辛未御禊、十一廿三癸卯大嘗、近江坂田郡、丹波氷上郡、御屏風、伊行書く、六条、仁安元十廿七丁酉御禊、十一十五乙卯大嘗、近江坂田郡、丹波多紀郡、御屏風、伊行書く、高倉、嘉応元十、廿一己酉御禊、十一廿二辛卯大嘗、近江甲賀郡、備中賀夜郡、御屏風、朝方伊経書く、安徳、(延引の初例)寿永元十御禊、十一廿四辛卯大嘗、近江野洲郡、丹波氷上郡、御屏風、朝方伊経書く、後鳥羽、元暦元十御禊、十一十八癸卯大嘗、近江甲賀郡、丹波多紀郡、土御門、建久九十廿七辛卯御禊、十一廿二乙卯大嘗、近江野洲郡、備中英賀郡、順徳、建暦二十廿二庚子御禊、十一十三乙卯大嘗、近江甲賀郡、丹波氷上郡。
現代語訳
(堀河天皇:)寛治元年十月二十二日に御禊、十一月十九日(丁卯)に大嘗祭。悠紀は近江国甲賀郡、主基は備中国賀夜郡。御屏風は藤原伊房が書いた。鳥羽天皇:天仁元年十月二十一日(丁酉)に御禊、十一月二十一日(丁卯)に大嘗祭。悠紀は近江国甲賀郡、主基は丹波国氷上郡。御屏風は定実と章綱が書いた。崇徳天皇:保安四年十月十五日(甲午)に御禊、十一月十八日(丁卯)に大嘗祭。悠紀は近江国甲賀郡、主基は備中国下道郡。御屏風(書き手の記載なし)。近衛天皇:康治元年十月二十六日(乙酉)に御禊、十一月十五日(癸卯)に大嘗祭。悠紀は近江国野洲郡、主基は丹波国氷上郡。御屏風は藤原定信が書いた。後白河天皇:久寿二年十月二十九日(癸卯)に御禊、十一月二十三日(丁卯)に大嘗祭。悠紀は近江国甲賀郡、主基は丹波国氷上郡。御屏風は藤原朝隆が書いた。二条天皇:平治元年十月二十一日(辛未)に御禊、十一月二十三日(癸卯)に大嘗祭。悠紀は近江国坂田郡、主基は丹波国氷上郡。御屏風は藤原伊行が書いた。六条天皇:仁安元年十月二十七日(丁酉)に御禊、十一月十五日(乙卯)に大嘗祭。悠紀は近江国坂田郡、主基は丹波国多紀郡。御屏風は伊行が書いた。高倉天皇:嘉応元年十月二十一日(己酉)に御禊、十一月二十二日(辛卯)に大嘗祭。悠紀は近江国甲賀郡、主基は備中国賀夜郡。御屏風は朝方と伊経が書いた。安徳天皇:(延期の初めての例)寿永元年十月に御禊、十一月二十四日(辛卯)に大嘗祭。悠紀は近江国野洲郡、主基は丹波国氷上郡。御屏風は朝方と伊経が書いた。後鳥羽天皇:元暦元年十月に御禊、十一月十八日(癸卯)に大嘗祭。悠紀は近江国甲賀郡、主基は丹波国多紀郡。土御門天皇:建久九年十月二十七日(辛卯)に御禊、十一月二十二日(乙卯)に大嘗祭。悠紀は近江国野洲郡、主基は備中国英賀郡。順徳天皇:建暦二年十月二十二日(庚子)に御禊、十一月十三日(乙卯)に大嘗祭。悠紀は近江国甲賀郡、主基は丹波国氷上郡。
解説
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『玉勝間』七の巻 御世御世の大嘗月日悠紀主基国郡宇多、仁和四十廿八御禊、十一廿二乙卯大嘗、近江播磨、醍醐、寛平九十廿五丁卯御禊、十一廿辛卯大嘗、近江丹波、御屏風野美材書く、朱雀、承平元十廿五御禊、十一十三辛卯大嘗、近江丹波、御屏風道風書く、村上、天慶九十廿八乙酉御禊、十一十六癸卯大嘗、近江備中、御屏風、道風書く、冷泉、安和元十廿六御禊、十一廿四癸卯大嘗、近江播磨、御屏風、紀時文書く、円融、天禄元十一十七乙卯大嘗、近江丹波、御屏風、藤佐理書く、花山、永観二十廿五御禊、十一廿一辛卯大嘗、近江高島郡、丹波天田郡、御屏風、佐理書く、一条、寛和二十廿三御禊、十一十五己卯大嘗、近江野洲郡、備中下道郡、御屏風、佐理書く、三条、長和元十廿七辛卯御禊、十一廿三乙卯大嘗、近江坂田郡、丹波天田郡、御屏風、行成書く、後一条、長和五十廿三甲午御禊、十一十五己卯大嘗、近江甲賀郡、備中下道郡、御屏風、行成書く、後朱雀、長元九十廿九乙酉御禊、十一十七癸卯大嘗、近江愛智郡、丹波氷上郡、御屏風、藤定頼書く、後冷泉、寛徳二十廿辛未御禊、十一十五大嘗、近江甲賀郡、備中英賀郡、御屏風、源兼行書く、後三条、治暦四十廿八丁卯御禊、十一廿二辛卯大嘗、近江愛智郡、備中英賀郡、御屏風兼行書く、白川、承保元十卅甲午御禊、十一廿一乙卯大嘗、近江坂田郡、丹波多紀郡、御屏風、兼行、堀川、
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『玉勝間』一の巻 中臣寿詞大嘗会の中臣寿詞と云う文あり。宇治の左大臣頼長公の台記の、康治元年の大嘗会の別記に載せられたり。その文、現御神と大八島国知ろしめす大倭根子天皇が御前に、天つ神の寿詞を称辞定め奉らくと申す。高天原に神留まり坐す皇親神漏岐・神漏美の命を持ちて、八百万の神等を集え賜いて、皇孫尊は高天原に事始めて、豊葦原の瑞穂の国を安国と平らけく知ろしめして、天つ日嗣の天つ高御座に御坐して、天つ御膳を長御膳の遠御膳と、千秋の五百秋に、瑞穂を平らけく安らけくゆにわに知ろしめせと事依さし奉りて、天降り坐しし後に、中臣の遠つ祖天児屋根命、皇御孫尊の御前に仕え奉りて、天忍雲根神を天の二上に上せ奉りて、神漏岐・神漏美命の前に受け給わり申すに、皇御孫尊の御膳つ水を、うつし国の水に天つ水を加えて奉らむと申せと、事教え給いしに依りて、天忍雲根神、天の浮雲に乗りて、神漏岐・神漏美命の前に申せば、天の玉櫛を事依さし奉りて、この玉櫛を刺し立てて、夕日より朝日の照るに至るまで、天つ詔戸の太詔刀言を以ちて告れ。かく告らば、まちは弱韮にゆつ五百篁生い出でむ。その下より天の八井出でむ。これを持ちて天つ水と聞こしめせと事依さし奉りき。かく奉りし任々に聞こしめすゆにわの瑞穂を、四国の卜部等、太兆に卜事を持ちて仕え奉る、悠紀に近江国野洲、主基に丹波国氷上を斎い定めて、
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『玉勝間』一の巻 悠紀主基大嘗の悠紀主基の主基の事、書紀の私記に、師説に、斎忌に次ぐなりと云えるより、今に至るまで、人皆この意とのみ心得ためれど、ひがことなり。かの説は、天武紀に、斎忌、此をば踰既と云う、次、此をば須岐と云う、と有るによれるなれども、斎忌こそこの字の意なれ、次は借字にして、この字の意にはあらず。古はすべて言だに同じければ、字は、意にはかかわらず、借りて書けるに、次を須岐とも云えるから、言の同じきままに、借りて書きならえるを、そのままに書かれたる物なり。次の意にあらずと云うゆえは、悠紀と主基とは、何事も二方全く同じさまにして、一事もいささかのおとりまさりあること無ければ、次と云うべきよしさらに無し。天武紀なるは、借字なること、疑い無き物をや。主基は、禊の曾岐と同言にして、濯と云うことなり。みそぎも身灌にて、そそくとすすくと同じきを、共につづめて、曾岐とも須岐とも云えるなり。されば是れも、斎忌と同じさまの名にして、濯ぎ清めたるよしなるぞかし。
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