玉勝間 / 七の巻 万葉集一の巻なる莫囂円隣の歌
又湯ノ字をも、謁に誤れるを、そは一本に湯と有るなり。吾瀨子とは、天智天皇の、此時皇太子にてましますをさして詠まれたり。太子も此幸シに供奉し給へる趣書紀に見えたり。さて額田ノ王は、天智天皇の娶たりし女王なること、櫻の落葉ノ卷に云へるが如し。さるによりて、わがせことはよみ給へるなり。爲兼は、須賀禰と訓べし。此句は、此度いづかしが本に、立チ給ふべき事を詠み給へるなり。然るをせりけんと訓ては、往時のことなれば、物どほし。五可新何本は、竈山ノ神社の嚴櫃之本なり。斯くて此歌は、此女王も太子に從奉りて、行給へるにて、太子の、竈山ノ社に詣テ給はむとする日の朝など、霜の深くおけるにつきて、詠み給へるさまにて、一首の意は、斯くては竈山に霜ふかくて、いづかしが本に、立ヲ給ひがたかるべければ、吾兄子が、わづらひなく立チ給ふべきために、しばし霜の消むを待ちて行けかしとなり。
新字:又湯ノ字をも、謁に誤れるを、そは一本に湯と有るなり。吾瀨子とは、天智天皇の、此時皇太子にてましますをさして詠まれたり。太子も此幸シに供奉し給へる趣書紀に見えたり。さて額田ノ王は、天智天皇の娶たりし女王なること、桜の落葉ノ巻に云へるが如し。さるによりて、わがせことはよみ給へるなり。為兼は、須賀祢と訓べし。此句は、此度いづかしが本に、立チ給ふべき事を詠み給へるなり。然るをせりけんと訓ては、往時のことなれば、物どほし。五可新何本は、竈山ノ神社の厳櫃之本なり。斯くて此歌は、此女王も太子に従奉りて、行給へるにて、太子の、竈山ノ社に詣テ給はむとする日の朝など、霜の深くおけるにつきて、詠み給へるさまにて、一首の意は、斯くては竈山に霜ふかくて、いづかしが本に、立ヲ給ひがたかるべければ、吾兄子が、わづらひなく立チ給ふべきために、しばし霜の消むを待ちて行けかしとなり。
書き下し
また湯の字をも、謁に誤れるを、そは一本に湯と有るなり。吾瀬子とは、天智天皇の、この時皇太子にてましますをさして詠まれたり。太子もこの幸に供奉し給える趣書紀に見えたり。さて額田の王は、天智天皇の娶りたりし女王なること、桜の落葉の巻に云えるがごとし。さるによりて、わがせことはよみ給えるなり。為兼は、すがねと訓むべし。この句は、この度いつかしが本に、立ち給うべき事を詠み給えるなり。然るをせりけんと訓みては、往時のことなれば、物どおし。五可新何本は、竈山の神社の厳櫃の本なり。かくてこの歌は、この女王も太子に従い奉りて、行き給えるにて、太子の、竈山の社に詣で給わむとする日の朝など、霜の深くおけるにつきて、詠み給えるさまにて、一首の意は、かくては竈山に霜ふかくて、いつかしが本に、立ち給いがたかるべければ、吾兄子が、わずらいなく立ち給うべきために、しばし霜の消えむを待ちて行けかしとなり。
現代語訳
また「湯」の字も、流布本では「謁」に誤っているが、それはある一本に「湯」とあるのに従う。「吾瀬子(わがせこ)」とは、天智天皇がこの時皇太子であられたのを指して詠まれたのである。皇太子もこの行幸にお供なさった様子が日本書紀に見える。さて額田王は天智天皇が妻とされた女王であることは、「桜の落葉」の巻(二の巻)で述べたとおりである。そのゆえに「わがせこ」とお詠みになったのである。「為兼」は「すがね」と訓むべきである。この句は、このたび厳橿(いつかし)の本にお立ちになるはずのことをお詠みになったのである。それを「せりけん」と訓んでは過ぎた昔のことになり、歌の意からかけ離れてしまう。「五可新何本」は、竈山神社の「厳橿の本」である。こうしてこの歌は、この女王も皇太子に従って出かけられ、皇太子が竈山の社に詣でようとなさる日の朝などに、霜が深く置いていたのにつけてお詠みになった趣であって、一首の意味は、「このままでは竈山に霜が深くて、厳橿の本にお立ちになりにくいであろうから、わが背の君がさしさわりなくお立ちになれるように、しばらく霜が消えるのを待ってから行きなさい」というのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 万葉集一の巻なる莫囂円隣の歌万葉一の巻に、紀の温泉に幸せる時、額田王の作れる歌、莫囂國隣之、霜木兄氏湯氣、吾瀬子之、射立為兼、五可新何本とあり。莫囂は、かまと訓むべし。かまをかく書けるよしは、古に、人のものを云うを制して、あなかまと云えるを、そのあなを省きて、かまとのみも云いつらむ。そは今の世の俗言にも、囂しきを制して、やかましと云うと同じ。やかましは囂しと云うことなれば、かまと云いて、莫囂と云う意なり。さてかま山と云うは、神名帳に、紀伊の国名草の郡、竈山の神社、諸陵式に、同郡竈山の墓、と見えたるこれなり。この御墓は、神武天皇の御兄、五瀬命の御墓にて、古事記・書紀にも見えたり。神社も御墓も、古の熊野道近きところにて今も有り。國隣は、やまと訓むべし。山は、隣の国の境なる物なれば、かくも書くべし。國の字は、本には圓と有るを、一本に國と有るなり。霜の字、本に大相と有るは、霜の草書を、大相の二字と見て、誤れるなり。そもそもこの幸は、書紀の斉明天皇の巻に、四年冬十月庚戌朔甲子、紀の温湯に幸すと有りて、十一月までも、かの国にとどまりませりしさま見えたれば、霜の深くおく頃なり。木兄氏は、本には、木の字を七に誤り、或る本には、土にも云にも誤り、氏の字は、爪に誤れり。
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『玉勝間』二の巻 鏡ノ女王額田ノ王万葉二の巻の十のひらに、天皇の賜える御歌、御答えに奉れる歌、これ鏡女王もめされたるなり。この女王この時は、大和の国に居住まれたりと聞こえたれば、故郷の鏡の里には、これよりさき、もしは後にすまれたるなるべし。右の歌の次に、内大臣の聘い給えるは、いまだ天皇にはめされざりしほどの事か、めされたるうえの事にても有るべし。天武紀に、十二年に、天皇の、この女王の病をとい給いし事、またその薨を記されたるも、天智天皇の妃なるが故なり。さて額田の王も、はじめは天智天皇にめされたりしなり。万葉四の巻の十三のひらに、思近江天皇歌、これその証なり。その次に鏡女王の歌有り。これまたこの女王も、天智天皇に娶られたる証にて、妹の王と共に思い奉れるなり。さて天武天皇、皇太子におわしましし程より、額田の王に御心をかけられたりし事、同じく一の巻の十四のひらなる御歌にて知らる。その御歌に、人づまゆえにと詠み給えるは、天智天皇の妃なるが故なり、考の説はたがえり。さてこの御歌のこの御詞にても、額田王もはじめには、天智天皇のめしたりし事知るべし。かくて天智天皇かくれさせ給いて後に、天武天皇にはめされて、十市の皇女をうみ奉られしなり。
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『玉勝間』二の巻 鏡ノ女王額田ノ王万葉集に、鏡の女王、また額田の王とある、二人の女王の事、まぎらわし。まず鏡女王を、鏡王の女とあるは、皆誤りなること、額田の王とは別なる事などは、師の考に弁えられたるが如し。さて古は、女王をも、分けて某の女王とは云わず、男王と同じく、ただ某の王と云えり。かくて万葉の頃にいたりては、女王をば、皆女王と記せるに、この額田の王に女の字の無きは、古き物に記せりしままに記せるなるべし。鏡の女王は、父の名とまぎるる故に、古くも女王と記せるなるべし。さて右の二女王、ともに鏡の王と云いし人の女にて、鏡の女王は姉、額田の王は弟と聞こえたり。父王は、近江の国の野洲の郡の鏡の里に住居われしによりて、鏡王と云えりと見ゆ。このほども、居住を以て呼べる名の例多し。かくてその女子も、もと父の郷に居住われしによりて、同じく鏡の王と呼べるなり。すべて地の名をもてよべるは、父子兄妹など、同じ名なる多し。そは事にふれてまぎるるおりなどは、女子の方をば、鏡の女王と書きてわかち、つね口には、京人などは、ただ鏡の王と云いしなり、これ古のなべての例なり。さてこの姉妹ともに、天智天皇に娶られたる人なり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井錦をはれるとは、かの行幸は、六年の三月なれば、桜桃などの花を云えるか。又は大宝二年十月にも、同じ天皇、参河国に行幸有りしかば、其時にてもあらむか。もし然らば行宮は、参河への道次の行宮にて、錦は紅葉なるべし。とにかくに長歌のよう、女房たちの宮づかえのさまを詠めりと聞こゆれば、必ず持統天皇なるべし。さて此あたり、今はすべて松山にて、あだし木はすくなし。かの赤人屋敷と云うは、山辺村より南の方へいささかのぼりて、高き所に在りて、たても横も半町には足らぬ程のたいらにて、今は畠なり。其西北のすみの所に、石垣と云う物も有りしを、五六十年ばかりさきに、里人の埋みしとぞ。又此所の土の中より、碁石の如くなる、小さき石に仏経の文字を彫りたるを、おりおり掘り出ること有りと云えり。さてそのあたりより、伊勢の海よく見渡されて、ここより見れば、まことに水門なすと詠めるさまなり。尾張参河の山山も、伊勢の山山島島も、よく見え、高岡川という川、村の東を流れて、ま近く見おろさるるなど、すべてかの長歌のけしきに、よくかなえる所なり。御井は、そこより南の、すこし西の方へくだりたる、谷あいの田の中に有り。
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『玉勝間』八の巻 万葉集に見えたる和気と云ふ称皇子たちなどの御名にある、某別、又姓のかばねの、某の別などの別には有らで、万葉集の歌に、一種の和気と云える称有り。そを人皆、みずからひげして云う称とのみ心得たるは、くわしからず。常に打まかせてひげして、僕など云うとは異にして、これは、人より我をさして云う詞をもうけて、そを其人に云い遣るとて、殊さらに我を賤きさまに云いなす称なり。さるはすこしたわぶれたる物にて、まことのひげには有らず。四の巻に、わが君は和気をば死ねと思えかも云云、これ人の我を死ねと思うと云う事を、もうけて、云い遣るなり。さて我を賤しめて云うから、人をば吾妹子と云うべきを、殊更にあがめたるさまに、わが君と云えるも、少したわぶれなり。同じ巻に、黒木とりかやもかりつつつかえめどいそしき和気とほめむともあらず、これも同じ事にて、人の我をいそしき者と云わむ詞を、もうけて云いやるなり。
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『玉勝間』十一の巻 万葉の歌に安礼衝と云へる詞生継と云うこと、この歌に由なく、かつ継と衝とは、久の清濁も異なるを、いかでか借り用いむ。さて六の巻なるは、天下所知食と続きたれば、この詞、天皇の御うえの事を申せるさまなれども、一の巻なるを思うに、天皇の御うえの事に申すべき言にあらず。必ず宮づかえする人のうえを云える言なれば、これも、八千年までも、百官奉仕いつきまつりて、天下をしろしめさむ、と云う意に詠めるにこそ。衝之は都伎を延べたるなり。またおもうに、之の字は、兄または衣などを誤れるにて、あれつかえにもや有らむ。つかえはつかれなり。もし然らば、天皇の御うえにて、百官にあれいつかれ給いてと云う意なり。
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