玉勝間 / 七の巻 万葉集一の巻なる莫囂円隣の歌
萬葉一の卷に、幸于紀溫泉之時、額田王作歌、莫囂國隣之、霜木兄氏湯氣、吾瀨子之、射立爲兼、五可新何本とあり。莫囂は、加麻と訓べし。加麻を斯く書るよしは、古、に、人のものを云ふを制して、あなかまと云へるを、そのあなを省きて、かまとのみも云ひつらむ。そは今ノ世の俗言にも、囂しきを制して、やかましと云ふと同じ。やかましは囂しと云ふことなれば、かまと云ひて、莫囂と云ふ意なり。さてかま山と云ふは、神名帳に、紀伊ノ國名草ノ郡、竈山ノ神社、諸陵式に、同郡竈山ノ墓、と見えたる是れなり。此御墓は、神武天皇の御兄、五瀨命の御墓にて、古事記書紀にも見えたり。神社も御墓も、古への熊野道近きところにて今も有り。國隣は、夜麻と訓べし。山は、隣の國の堺なる物なれば、斯くも書べし。國字は、本には圓と有るを、一本に國と有るなり。霜ノ字、本に大相と有るは、霜の草書を、大相の二字と見て、誤れるなり。そもそも此ノ幸は、書紀ノ齊明天皇ノ卷に、四年冬十月庚戌朔甲子、幸紀溫湯と有りて、十一月までも、かの國にとどまりませりしさま見えたれば、霜の深くおく頃なり、木兄氏は、本には、木ノ字を七に誤り、或本には、土にも云にも誤り、氏ノ字は、爪に誤れり。
新字:万葉一の巻に、幸于紀温泉之時、額田王作歌、莫囂国隣之、霜木兄氏湯気、吾瀨子之、射立為兼、五可新何本とあり。莫囂は、加麻と訓べし。加麻を斯く書るよしは、古、に、人のものを云ふを制して、あなかまと云へるを、そのあなを省きて、かまとのみも云ひつらむ。そは今ノ世の俗言にも、囂しきを制して、やかましと云ふと同じ。やかましは囂しと云ふことなれば、かまと云ひて、莫囂と云ふ意なり。さてかま山と云ふは、神名帳に、紀伊ノ国名草ノ郡、竈山ノ神社、諸陵式に、同郡竈山ノ墓、と見えたる是れなり。此御墓は、神武天皇の御兄、五瀨命の御墓にて、古事記書紀にも見えたり。神社も御墓も、古への熊野道近きところにて今も有り。国隣は、夜麻と訓べし。山は、隣の国の堺なる物なれば、斯くも書べし。国字は、本には円と有るを、一本に国と有るなり。霜ノ字、本に大相と有るは、霜の草書を、大相の二字と見て、誤れるなり。そもそも此ノ幸は、書紀ノ斉明天皇ノ巻に、四年冬十月庚戌朔甲子、幸紀温湯と有りて、十一月までも、かの国にとどまりませりしさま見えたれば、霜の深くおく頃なり、木兄氏は、本には、木ノ字を七に誤り、或本には、土にも云にも誤り、氏ノ字は、爪に誤れり。
書き下し
万葉一の巻に、紀の温泉に幸せる時、額田王の作れる歌、莫囂國隣之、霜木兄氏湯氣、吾瀬子之、射立為兼、五可新何本とあり。莫囂は、かまと訓むべし。かまをかく書けるよしは、古に、人のものを云うを制して、あなかまと云えるを、そのあなを省きて、かまとのみも云いつらむ。そは今の世の俗言にも、囂しきを制して、やかましと云うと同じ。やかましは囂しと云うことなれば、かまと云いて、莫囂と云う意なり。さてかま山と云うは、神名帳に、紀伊の国名草の郡、竈山の神社、諸陵式に、同郡竈山の墓、と見えたるこれなり。この御墓は、神武天皇の御兄、五瀬命の御墓にて、古事記・書紀にも見えたり。神社も御墓も、古の熊野道近きところにて今も有り。國隣は、やまと訓むべし。山は、隣の国の境なる物なれば、かくも書くべし。國の字は、本には圓と有るを、一本に國と有るなり。霜の字、本に大相と有るは、霜の草書を、大相の二字と見て、誤れるなり。そもそもこの幸は、書紀の斉明天皇の巻に、四年冬十月庚戌朔甲子、紀の温湯に幸すと有りて、十一月までも、かの国にとどまりませりしさま見えたれば、霜の深くおく頃なり。木兄氏は、本には、木の字を七に誤り、或る本には、土にも云にも誤り、氏の字は、爪に誤れり。
現代語訳
万葉集の巻一に、「紀の温泉(牟婁の湯)に行幸された時、額田王が作った歌」として、「莫囂國隣之、霜木兄氏湯氣、吾瀬子之、射立為兼、五可新何本」とある。「莫囂」は「かま」と訓むべきである。「かま」をこのように書く理由は、古くは人がしゃべるのを制して「あなかま(ああ、やかましい)」と言ったが、その「あな」を省いて「かま」とだけ言うこともあったのだろう。それは今の世の俗語でも、騒がしいのを制して「やかまし」と言うのと同じである。「やかまし」は「囂し(かまびすし)」ということなので、「かま」と言って「囂しくするな(莫囂)」という意味になる。さて「かま山」というのは、神名帳(延喜式神名帳)に「紀伊国名草郡、竈山神社」、諸陵式に「同郡、竈山墓」と見えるのがこれである。この御墓は神武天皇の兄君、五瀬命の御墓で、古事記・日本書紀にも見える。神社も御墓も、昔の熊野道に近いところに今もある。「國隣」は「やま」と訓むべきである。山は隣の国との境になるものだから、このようにも書けるのである。「國」の字は、流布本には「圓」とあるが、ある一本に「國」とあるのに従った。「霜」の字が流布本に「大相」とあるのは、霜の草書を「大」「相」の二字と見て誤ったのである。そもそもこの行幸は、日本書紀の斉明天皇の巻に「四年冬十月庚戌朔甲子(十五日)、紀の温湯に行幸された」とあって、十一月までもその国にとどまっておられた様子が見えるから、霜の深く置く頃である。「木兄氏」は、流布本では「木」の字を「七」に誤り、ある本では「土」にも「云」にも誤り、「氏」の字は「爪」に誤っている。
解説
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 万葉集一の巻なる莫囂円隣の歌また湯の字をも、謁に誤れるを、そは一本に湯と有るなり。吾瀬子とは、天智天皇の、この時皇太子にてましますをさして詠まれたり。太子もこの幸に供奉し給える趣書紀に見えたり。さて額田の王は、天智天皇の娶りたりし女王なること、桜の落葉の巻に云えるがごとし。さるによりて、わがせことはよみ給えるなり。為兼は、すがねと訓むべし。この句は、この度いつかしが本に、立ち給うべき事を詠み給えるなり。然るをせりけんと訓みては、往時のことなれば、物どおし。五可新何本は、竈山の神社の厳櫃の本なり。かくてこの歌は、この女王も太子に従い奉りて、行き給えるにて、太子の、竈山の社に詣で給わむとする日の朝など、霜の深くおけるにつきて、詠み給えるさまにて、一首の意は、かくては竈山に霜ふかくて、いつかしが本に、立ち給いがたかるべければ、吾兄子が、わずらいなく立ち給うべきために、しばし霜の消えむを待ちて行けかしとなり。
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『玉勝間』二の巻 鏡ノ女王額田ノ王万葉二の巻の十のひらに、天皇の賜える御歌、御答えに奉れる歌、これ鏡女王もめされたるなり。この女王この時は、大和の国に居住まれたりと聞こえたれば、故郷の鏡の里には、これよりさき、もしは後にすまれたるなるべし。右の歌の次に、内大臣の聘い給えるは、いまだ天皇にはめされざりしほどの事か、めされたるうえの事にても有るべし。天武紀に、十二年に、天皇の、この女王の病をとい給いし事、またその薨を記されたるも、天智天皇の妃なるが故なり。さて額田の王も、はじめは天智天皇にめされたりしなり。万葉四の巻の十三のひらに、思近江天皇歌、これその証なり。その次に鏡女王の歌有り。これまたこの女王も、天智天皇に娶られたる証にて、妹の王と共に思い奉れるなり。さて天武天皇、皇太子におわしましし程より、額田の王に御心をかけられたりし事、同じく一の巻の十四のひらなる御歌にて知らる。その御歌に、人づまゆえにと詠み給えるは、天智天皇の妃なるが故なり、考の説はたがえり。さてこの御歌のこの御詞にても、額田王もはじめには、天智天皇のめしたりし事知るべし。かくて天智天皇かくれさせ給いて後に、天武天皇にはめされて、十市の皇女をうみ奉られしなり。
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『玉勝間』二の巻 鏡ノ女王額田ノ王万葉集に、鏡の女王、また額田の王とある、二人の女王の事、まぎらわし。まず鏡女王を、鏡王の女とあるは、皆誤りなること、額田の王とは別なる事などは、師の考に弁えられたるが如し。さて古は、女王をも、分けて某の女王とは云わず、男王と同じく、ただ某の王と云えり。かくて万葉の頃にいたりては、女王をば、皆女王と記せるに、この額田の王に女の字の無きは、古き物に記せりしままに記せるなるべし。鏡の女王は、父の名とまぎるる故に、古くも女王と記せるなるべし。さて右の二女王、ともに鏡の王と云いし人の女にて、鏡の女王は姉、額田の王は弟と聞こえたり。父王は、近江の国の野洲の郡の鏡の里に住居われしによりて、鏡王と云えりと見ゆ。このほども、居住を以て呼べる名の例多し。かくてその女子も、もと父の郷に居住われしによりて、同じく鏡の王と呼べるなり。すべて地の名をもてよべるは、父子兄妹など、同じ名なる多し。そは事にふれてまぎるるおりなどは、女子の方をば、鏡の女王と書きてわかち、つね口には、京人などは、ただ鏡の王と云いしなり、これ古のなべての例なり。さてこの姉妹ともに、天智天皇に娶られたる人なり。
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『玉勝間』十三の巻 万葉集なる藤原ノ宮之役民作歌上の「らむ」と、この「見れば」とを、相照らして心得べし。さて難波の海に出だし、紀の川をのぼすと云う事は、見えざれども、巨勢道よりと云えるにて、然聞こえたり。巨勢道は、紀の国にゆきかう道なればなり。又「筏に造り泝すらむ」と云えるにても、かの川をさかのぼらせたる事しるし。然らざればこの言聞こえず。大かたそのかみ、近江山城などより伐り出だす材を大和へのぼすには、必ず件の如く、難波の海より、紀の川に入れて泝すが、定まれる事なりし故に、その事は云わでも、然聞こえしなりけり。さて「知らぬ国依る」は、異国の帰り来るよしにて、依るまでは、ただ巨勢の序なり。異国までもなびき従いて、帰り来と云う寿詞をもて、序としたる物なり。されば知らぬ国は、五言の句、依る巨勢道よりは、七言の句にて、おとめらが袖ふる山などの類なり。上の依るは、自の意にはあらず。また「我が国は」より、「新代と」まで五句は、これも寿詞をもて、泉の序とせるにて、出ずとつづく意なり。そもそもこの歌の意、上の件の如くなれば、巨勢道よりと云えるは、即ち上の田上山の材なり。又別に巨勢道よりものぼすにはあらず。又知らぬ国よりも、材をのぼすと云うにあらず。思いまがうべからず。
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『玉勝間』十三の巻 万葉集に不ノ字を略きて書る例万葉集七の巻に、「青みずら、依網の原に、人も逢わぬかも、石走る、淡海県の物語せむ」、この二三の句、よさみの原に人もあわぬかもと訓むべし。あわぬかもは、あえかしとねがう例の言なり。九の巻に「雲隠る、雁鳴く時は、秋山の黄葉片待つ、時はすぎねど」、この結句、時はすぎねどと訓までは、聞こえぬ歌なり。十の巻に、「霞立つ、春の永日を、恋い暮らし、夜の更けゆけば、妹に逢わぬかも」この結句も、あわぬかもと訓までは聞こえず。同巻に、「五月山、卯の花月夜、ほととぎす、聞けども飽かず、又鳴かぬかも」これもなかぬかもにて、又なけかしの意なり。十一の巻に、「我が背子は、幸く座すと、遍く来て我に告げ来む、人も来ぬかも」、これもこぬかもにて、来かしと待つ意なり。同巻に、「日並べば、人知りぬべし、今日の日の、千歳のごとく有らぬかも」、同巻に、「かくしつつ、吾が待つしるし、有らぬかも、世の人皆の、常にあらなくに」、三の句あらぬかもにて、あれかしの意なり。又同巻に、「しきたえの、枕動きて寝ねらえず、物念うこの夕、急く明けぬかも」、これも同じ。件の歌どもみな、不の字を省きて書けるものなり。この例なお引きもらせるも有らむか、なぞらえて知るべし。いずれも本の訓はひがことなり。然るを、ぬと訓までかなわぬことを考え得て、不の字を脱せるかとまでは、心づける人も有れども、そを略ける例なる事をさとれる人は、いまだあらず。一つ二つのみならず、かくあまた例あるにて、たまたま落ちたるにはあらざる事をさとるべし。
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『玉勝間』十一の巻 万葉の歌に安礼衝と云へる詞生継と云うこと、この歌に由なく、かつ継と衝とは、久の清濁も異なるを、いかでか借り用いむ。さて六の巻なるは、天下所知食と続きたれば、この詞、天皇の御うえの事を申せるさまなれども、一の巻なるを思うに、天皇の御うえの事に申すべき言にあらず。必ず宮づかえする人のうえを云える言なれば、これも、八千年までも、百官奉仕いつきまつりて、天下をしろしめさむ、と云う意に詠めるにこそ。衝之は都伎を延べたるなり。またおもうに、之の字は、兄または衣などを誤れるにて、あれつかえにもや有らむ。つかえはつかれなり。もし然らば、天皇の御うえにて、百官にあれいつかれ給いてと云う意なり。
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