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玉勝間 / 六の巻 万葉集にてしと云ふ辞に義之また大王と書る事

斯かれば彼の義之と、此大王とを相照して、共にテシと訓べき事、又ともに王羲之なる事をさとるべし。師の說には、義之をテシと訓〓は、義は篆の誤りなり、又大王をもテシと訓むは、天子の意なり、と云はれしかど、篆を假字に用ひたる例無く、又義之とつづけるのみにて、義と一字はなして書る所も無ければ、必ズ義之とつづけたる意なる事しるし。又大王若し天子の意ならば、直に天子と書る所も有るべく、天皇なども書べきに、いつれも唯だ大王とのみ書けるは、其意にあらざるなり。そのうへ天子の意ならば、字音なるを、他字の訓に用ひむこと、有ルべくも覺えず。

新字:斯かれば彼の義之と、此大王とを相照して、共にテシと訓べき事、又ともに王羲之なる事をさとるべし。師の説には、義之をテシと訓〓は、義は篆の誤りなり、又大王をもテシと訓むは、天子の意なり、と云はれしかど、篆を仮字に用ひたる例無く、又義之とつづけるのみにて、義と一字はなして書る所も無ければ、必ズ義之とつづけたる意なる事しるし。又大王若し天子の意ならば、直に天子と書る所も有るべく、天皇なども書べきに、いつれも唯だ大王とのみ書けるは、其意にあらざるなり。そのうへ天子の意ならば、字音なるを、他字の訓に用ひむこと、有ルべくも覚えず。

書き下し

かかれば彼の義之と、この大王とを相照らして、共にてしと訓むべき事、またともに王羲之なる事をさとるべし。師の説には、義之をてしと訓むは、義は篆の誤りなり、また大王をもてしと訓むは、天子の意なり、と云われしかど、篆を仮字に用いたる例無く、また義之とつづけるのみにて、義と一字はなして書ける所も無ければ、必ず義之とつづけたる意なる事しるし。また大王もし天子の意ならば、直に天子と書ける所も有るべく、天皇なども書くべきに、いずれもただ大王とのみ書けるは、その意にあらざるなり。そのうえ天子の意ならば、字音なるを、他字の訓に用いむこと、有るべくも覚えず。

現代語訳

そうであるから、あの「義之」とこの「大王」とを照らし合わせて、ともに「てし」と訓むべきこと、またともに王羲之のことであることを悟るべきである。師(賀茂真淵)の説では、「義之」を「てし」と訓むのは「義」が「篆」の誤りであり、また「大王」を「てし」と訓むのは「天子」の意味である、と言われたが、「篆」を仮名に用いた例はなく、また「義之」と続けたものばかりで、「義」を一字離して書いた所もないので、必ず「義之」と続けた意味であることは明らかである。また「大王」がもし天子の意味ならば、そのまま「天子」と書いた所もあるはずで、「天皇」などとも書くはずなのに、どれもただ「大王」とだけ書いているのは、その意味ではないのである。そのうえ天子の意味ならば字音であるのに、それを他の字の訓に用いるということは、ありそうにも思われない。

解説

前段の説を補い、師賀茂真淵の説を名指しで退けた一段である。真淵は、「義」は「篆」の誤りで、「大王」は「天子」の意味で「てし」と読むのだと説いた。宣長は、篆を仮名に使った例はない、義を一字で使った例もない、天子の意味なら天子や天皇と書いた例もあるはずだ、字音を訓に当てるのも不自然だ、と用例と表記の理屈から一つずつ反論する。玉勝間には、師の説にこだわるな、師の誤りは言え、と弟子に説いた段がある。ここはその教えを宣長自身が師に対して実践した場面である。師への敬意と、師の説への遠慮とは別のものだ。根拠を並べて師を正すことが、師から受け継いだ学問を前に進めることになる。

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