玉勝間 / 六の巻 筑紫ノ君石井が事
昔つくしの國に、筑紫ノ君石井と云へる國造有りけり。君と云ふは、上の件に云へる、國造の中の一色なる君なり。書紀には、すなはち國造としるされたり。されど其子の葛子と云ひしをば、筑紫ノ君と記されたれば、君にてぞ有ける。繼體天皇の御世に、皇朝にそむきて、无禮かりければ、討手の使を遣はして、ほろぼし給ひき。いけりし世に、かねて墓をなん造りまうけたりける。その構への、いみしく大きに、いかめしかりける事、筑後ノ國の風土記にしるせるやう、上妻縣、縣南二里、有筑紫君磐井之墓墳、高七丈、周六丈、墓田南北各六十丈、東西各册丈、石人石盾各六十枚、交陳成行、周匝四面、當東北角、有一別區、號曰衞頭、其中有一石人、從容立地、號曰解部、前有一人、裸形伏地、號曰偷人、側有石猪四頭、號賊物、彼處亦有石馬三匹、石殿三間、石藏二間、古老傳云、當雄大迹天皇之世、筑紫君磐井、豪强暴虐、不偃皇風、生平之時、豫造此墓、俄而官軍動發、欲襲之間、知勢不勝、獨自遁于豐前國上膳縣、終于南山峻嶺之曲、於是官軍、追尋失蹤、士怒未泄、擊折石人之手、打障石馬之頭、古老傳云、上妻縣多有篤疾、蓋由玆歟、としるしたり。
新字:昔つくしの国に、筑紫ノ君石井と云へる国造有りけり。君と云ふは、上の件に云へる、国造の中の一色なる君なり。書紀には、すなはち国造としるされたり。されど其子の葛子と云ひしをば、筑紫ノ君と記されたれば、君にてぞ有ける。継体天皇の御世に、皇朝にそむきて、无礼かりければ、討手の使を遣はして、ほろぼし給ひき。いけりし世に、かねて墓をなん造りまうけたりける。その構への、いみしく大きに、いかめしかりける事、筑後ノ国の風土記にしるせるやう、上妻県、県南二里、有筑紫君磐井之墓墳、高七丈、周六丈、墓田南北各六十丈、東西各册丈、石人石盾各六十枚、交陳成行、周匝四面、当東北角、有一別区、号曰衛頭、其中有一石人、従容立地、号曰解部、前有一人、裸形伏地、号曰偸人、側有石猪四頭、号賊物、彼処亦有石馬三匹、石殿三間、石蔵二間、古老伝云、当雄大迹天皇之世、筑紫君磐井、豪強暴虐、不偃皇風、生平之時、予造此墓、俄而官軍動発、欲襲之間、知勢不勝、独自遁于豊前国上膳県、終于南山峻嶺之曲、於是官軍、追尋失蹤、士怒未泄、撃折石人之手、打障石馬之頭、古老伝云、上妻県多有篤疾、蓋由玆歟、としるしたり。
書き下し
昔つくしの国に、筑紫の君石井と云える国造有りけり。君と云うは、上の件に云える、国造の中の一色なる君なり。書紀には、すなわち国造としるされたり。されどその子の葛子と云いしをば、筑紫の君と記されたれば、君にてぞ有りける。継体天皇の御世に、皇朝にそむきて、無礼かりければ、討手の使を遣わして、ほろぼし給いき。いけりし世に、かねて墓をなん造りもうけたりける。その構えの、いみしく大きに、いかめしかりける事、筑後の国の風土記にしるせるよう、上妻県、県の南二里に、筑紫君磐井の墓墳有り、高さ七丈、周り六丈、墓田は南北各六十丈、東西各四十丈、石人・石盾各六十枚、交陳して行を成し、四面を周匝す。東北の角に当たりて、一つの別区有り、号して衛頭と曰う。その中に一石人有り、従容として地に立つ、号して解部と曰う。前に一人有り、裸形にして地に伏す、号して偸人と曰う。側らに石猪四頭有り、賊物と号す。彼の処にまた石馬三匹、石殿三間、石蔵二間有り。古老伝えて云う、雄大迹天皇の世に当たりて、筑紫君磐井、豪強暴虐にして、皇風に偃わず、生平の時、予めこの墓を造る。俄にして官軍動発し、これを襲わんと欲するの間、勢いの勝たざるを知り、独り自ら豊前国上膳県に遁れ、南山の峻嶺の曲に終わる。ここに於て官軍、追い尋ねて蹤を失う。士の怒り未だ泄れず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕とす。古老伝えて云う、上妻県に多く篤疾有るは、蓋しこれに由るか、としるしたり。
現代語訳
昔、筑紫の国に筑紫君石井(磐井)という国造がいた。「君」というのは、前の段で述べた国造の中の一種である君である。日本書紀にはすなわち国造と記されている。しかしその子の葛子という者を筑紫君と記しておられるので、君であったのである。継体天皇の御代に朝廷に背いて無礼であったので、討伐の使いを遣わして滅ぼしなさった。生きていたころに、あらかじめ墓を造っておいたのである。その構えがたいそう大きく、いかめしかったことは、筑後国風土記に記すところでは、「上妻県。県の南二里に筑紫君磐井の墓がある。高さ七丈、周り六丈。墓域は南北各六十丈、東西各四十丈。石人と石盾が各六十枚、互い違いに並んで列をなし、四方をめぐっている。東北の角に当たって一つの別区があり、衛頭という。その中に一体の石人があり、ゆったりと地に立っている。解部という。その前に一人がいて、裸で地に伏している。偸人(盗人)という。そばに石の猪が四頭あり、賊物(盗品)という。そこにはまた石馬三匹、石殿三間、石蔵二間がある。古老が伝えて言う。雄大迹天皇(継体天皇)の世に当たって、筑紫君磐井は豪強暴虐で、天皇の徳化に従わなかった。生前にあらかじめこの墓を造った。にわかに官軍が発動して襲おうとしたとき、勢いの勝てないことを知り、ひとり豊前国上膳県に逃れ、南の山の険しい峰の奥で死んだ。そこで官軍は追い尋ねたが行方を見失った。兵士の怒りはおさまらず、石人の手を打ち折り、石馬の頭を打ち落とした。古老が伝えて言う。上妻県に重い病の者が多いのは、おそらくこのためであろうか」と記している。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 筑紫ノ君石井が事周り六丈は、高さにかなわざれば、六の上に、三十など云う字の有りけむが、落ちたるなるべし。かくてこの石井が造り置きたりし墓のかまえは、今の世にも残りて、現に有るよしにて、近きほど、その図をしるし、考えをも添えたるを、見しに、まことに風土記にしるせるごとくにぞ有りけむ、とぞ覚ゆる。そもそも石のかぎりして、かばかりいかめしく、大きなるかまえを物せん事は、今の世の国持大名などのちからにも、いとたやすくは、出で来がたかるべし。これを思えば、そのかみ国々の国造の身のほども思いはかられて、けしうは有らざりけむかし。かの図は、写しおきたりしを、今え見出でず、見出でたらむ時に、また云いてんとす。
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『玉勝間』六の巻 国造いにしえに国造と云いしは、今の世のごと、大きにこそ有らざりけめ、大かた何事も、大名のごとくなる物にて、国々に多く有りしなり。それが中に、国造、また君、また別、また直、また稲置、また県主など云う、色々の有りて、尊き卑しきけじめも有りつるを、そのけじめは、さだかに記せる物無ければ、いずれ尊く、いずれ卑しかりけむ。今ことごとくは、わきまえがたけれど、大かたは皆、国造と同じさまなる物にて、この色々を一つにすべても、国の造と云えりき。書紀などに、伴造国造などあるは、かの色々をすべて、一つに国の造と云えるなり。さてもろこしの国にも、古え封建の制とか云いし代の、諸侯と云う物、これによく似たり。その諸侯に、五等の爵とて、公侯伯子男と、五きざみのしな有りし、それはた国の造、君、別などの色々有りしに似たり。その五しなの中の一つの名をとりて、すべて諸侯と云いしも、またすべてをも国の造と云いしに似たり。もろこしの事は、かの国の学びするともがらは、この諸侯の、五しなの事など、誰もよく知れるを、皇国の古えのさまをば、かえりてよく知れる人無くて国の造の中に、かのくさぐさのしな有りしをも知らず、またかの色々は、いかなるさまの物なりしとも知らで在るは、いかにぞや。
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『玉勝間』八の巻 岩屋国々に、おのずからなる洞には有らで、造り構えたる石室の、ここかしこに有る事、おりおり聞く事なり。あまた有る所も有りと云うなり。人皆これを、からぶみに、穴居と云える事の有るを思いて、上つ代の民のすみかならんと、云い思うめれど、御国には、然か民の穴に住めりし事は聞えず。更にさには有らず。中には墓とおぼしきもあめれど、皆然るにも有らじ。今よく思うに、書紀の神武天皇の御巻に、道臣命に勅有りて、大室を忍坂邑に作り、盛に宴饗を設く云云、道臣命是に於て密旨を奉り、窖を忍坂に掘る云云、また綏靖天皇の御巻に、手研耳命片丘の大窖の中に於て、独り大牀に臥す、など見えたる物にて、上つ代には、つねの屋のほかに、別に山の片そばなどを掘りて、石もて屋を作り構えたる事有けん。さるはなべて民どもなどのする事には有らで、高き人の、殊更に好みてせしにて、大かた古く牟呂と云いし物は、是れなめり。そは何のために、さる構えはしたるにか、其ゆえは知られねど、もしは冬寒き頃、温かなるをめでてにもや有けむ。今国々に有るは、多くは此上つ代の石室の残れるなるべし。
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