神皇正統記 / 巻三 第三十代 欽明天皇
群臣の諌によりて、其法をたてられずといへども、天皇の叡志にはあらざるにや。昔、仏在世に、天竺の月蓋長者、鋳たてまつりし弥陀三尊の金像を伝へてわたし奉りける、難波の堀江にすてられたりしを、善光と云者とり奉て、信濃の国に安置し申き。今の善光寺これ也。此御時八幡大菩薩始て垂迹しまします。天皇天下を治給こと三十二年。八十一歳おまし〳〵き。
書き下し
群臣の諌によりて、其法をたてられずといへども、天皇の叡志にはあらざるにや。昔、仏在世に、天竺の月蓋長者、鋳たてまつりし弥陀三尊の金像を伝へてわたし奉りける、難波の堀江にすてられたりしを、善光と云者とり奉て、信濃の国に安置し申き。今の善光寺これ也。此御時八幡大菩薩始て垂迹しまします。天皇天下を治給こと三十二年。八十一歳おましましき。
現代語訳
群臣のいさめによって、その法を立てられなかったとはいえ、それは天皇の本心ではなかったのであろうか。昔、仏がこの世におられたころ、天竺の月蓋長者(がつがいちょうじゃ)が鋳造し申し上げた阿弥陀三尊の金銅像が伝わって渡来したのを、難波の堀江に捨てられていたところ、善光という者が拾い申し上げて、信濃の国に安置した。今の善光寺がこれである。この御時に八幡大菩薩がはじめて垂迹なさった。天皇が天下を治められたのは三十二年で、八十一歳であられた。
解説
仏教の受け入れを群臣が拒んだのは天皇の本意ではなかったろうと推し量り、捨てられた仏像のその後を記す。天竺の月蓋長者が鋳た阿弥陀三尊が難波の堀江に捨てられ、善光という者が拾って信濃に祀った。これが善光寺の縁起で、親房は当時広く知られていた寺の伝承をそのまま採っている。続けて八幡大菩薩の垂迹がこの代に始まったと書く。八幡神は応神天皇を祀る神でありながら菩薩の号を持ち、神と仏が一つになった姿を象徴する存在である。仏教伝来の代に八幡の垂迹を並べて記すところに、神と仏を重ねて見る親房の考えがよく表れている。退けられたものが別の場所で根づき、やがて大きな信仰の場となる。一度の決定で捨てられたものの行方を見届けておくことにも、意味がある。
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