玉勝間 / 六の巻 県居ノ大人の伝
かの殿より、葵の文の御衣を賜はり給へる時の歌、「あふひてふあやの御衣をも氏人のかづかむものと神や知りけん。明和六年十月晦の日、とし七十三にて、みまかり給ひぬ。武藏ノ國荏原ノ郡品川の、東海寺の中、少林院の山に葬、こは大人の弟子なる某が、しるしたるままに、とりてしるせり。なほ父ぬし母としなどをも、しるすべきものなるに、漏れたるは、又よく知りたらむ人に問ひ聞きて、しるすべくなん。
新字:かの殿より、葵の文の御衣を賜はり給へる時の歌、「あふひてふあやの御衣をも氏人のかづかむものと神や知りけん。明和六年十月晦の日、とし七十三にて、みまかり給ひぬ。武蔵ノ国荏原ノ郡品川の、東海寺の中、少林院の山に葬、こは大人の弟子なる某が、しるしたるままに、とりてしるせり。なほ父ぬし母としなどをも、しるすべきものなるに、漏れたるは、又よく知りたらむ人に問ひ聞きて、しるすべくなん。
書き下し
かの殿より、葵の文の御衣を賜わり給える時の歌、「あおいちょうあやの御衣をも氏人のかずかむものと神や知りけん」。明和六年十月晦の日、とし七十三にて、みまかり給いぬ。武蔵の国荏原の郡品川の、東海寺の中、少林院の山に葬る。こは大人の弟子なる某が、しるしたるままに、とりてしるせり。なお父ぬし母とじなどをも、しるすべきものなるに、漏れたるは、またよく知りたらむ人に問い聞きて、しるすべくなん。
現代語訳
その殿から葵の紋の御衣を賜ったときの歌は、「葵という名の綾の御衣を、(賀茂の)氏人である私が頂戴することになると、神はご存じだったのだろうか」。明和六年十月晦日、七十三歳でお亡くなりになった。武蔵国荏原郡品川の東海寺の中、少林院の山に葬った。これは大人の弟子である某が記したままを取って記したものである。なお父君や母君のことなども記すべきであるのに漏れているのは、またよく知っている人に問い聞いて記すべきである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 県居ノ大人の伝あがたいの大人は、賀茂の県主氏にて、遠祖は、神魂の神の孫、鴨武津之身の命にて、八咫烏と化りて、神武天皇を導き奉り給いし神なること、姓氏録に見えたるがごとし。この神の末、山城の国相楽の郡岡田の賀茂の大神を以ていつく、師朝と云いし人、文永十一年に、遠江の国敷智の郡浜松の庄岡部の郷なる、賀茂の新宮をいつきまつるべきよしの詔を蒙りて、かの郷を賜わり、すなわちかの新宮の神主になさる。この事引馬草に見え、また綸旨のごとくなる物あり。また乾元元年にも、詔をこうぶりて、かの岡部の地を領ぜる。これは正しき綸旨有りて、家に伝われり。かくて世々かの神主たりしを、大人の五世の祖、政定と云いし、引馬原の御軍に功有りて、東照神御祖の君より、来国行がうちたる刀と、丸龍の具足とを賜わりぬ。この事は三河記にも見えたり。さて大人は、元禄十年に、この岡部の郷に生まれ給いて、若かりしほどより、古学びにふかく心をよせて、享保十八年に、京にのぼりて、稲荷の荷田の宿禰東麻呂の大人の教えをうけ給い、寛延三年に、江戸に下り給いて、その後田安の殿に仕え奉り給う。
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『玉勝間』二の巻 おのれあがたゐの大人の〓〓を受けしやう宣長、縣居の大人に逢い奉りしは、この里に一夜やどり給えりしおり、一度のみなりき。その後はただ、しばしば書かよわしきこえてぞ、物は問いあきらめたりける。そのたびたび給えりし御答えのふみども、いと多くつもりにたりしを、ひとつも散らさで、いつきもたりけるを、せちに人の乞いもとむるままに、ひとつふたつと取らせけるほどに、今は残りすくなくなん成りぬる。さて古事記の注釈を物せんの心ざし深き事を申せしによりて、その上つ巻をば、考え給える古言をもて、仮字がきにし給えるをも、貸し給い、また中つ巻下つ巻は、かたわらの訓を改め、所所書き入れなどをも、てずからし給える本をも、かし給えりき。古事記伝に、師の説とて引きたるは、多くその本にある事どもなり。そもそもこの大人、古学の道をひらき給える御いさおは、申すもさらなるを、かのさとし言にのたまえる如く、世のかぎりもはら万葉に力を尽くされしほどに、古事記、書紀にいたりては、そのかむかえ、いまだあまねく深くはゆきわたらず、くわしからぬ事どもも多し。
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『玉勝間』二の巻 おのが物まなびの有しやうさてまた道の学びはまず初めより、神書と云うすじの物、ふるき近き、これやかれやと読みつるを、はたちばかりの程より、わきて心ざし有りしかど、とりたててわざと学ぶ事は無かりしに、京にのぼりては、わざとも学ばむと、こころざしはすすみぬるを、かの契沖が歌ぶみの説になずらえて、皇国の古の意をおもうに、世に神道者と云う者の説おもむきは、皆いたくたがえりと、早くさとりぬれば、師と頼むべき人も無かりしほどに、われいかで古のまことのむねを、考え出でむ、と思うこころざし深かりしにあわせて、かの冠辞考を得て、かえすがえす読みあじわうほどに、いよいよ心ざし深くなりつつ、この大人をしたう心、日にそえてせちなりしに、年このうし、田安の殿の仰せ事をうけ給わり給いて、このいせの国より、大和山城など、ここかしこと尋ねめぐられし事の有りしおり、この松坂の里にも、二日三日とどまり給えりしを、さることつゆ知らで、後に聞きて、いみしく口惜しかりしを、かえるさまにも、また一夜やどり給えるを、うかがい待ちて、いといとうれしく、急ぎやどりにもうでて、はじめて見え奉りたりき。さてつひに名簿を奉りて、教えをうけ給わる事には成りたりきかし。
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『玉勝間』二の巻 おのれあがたゐの大人の〓〓を受けしやうされば道を説き給える事も、こまかなる事し無ければ、大むねもいまださだかにあらわれず、ただ事のついでなどに、はしばしいささかずつのたまえるのみなり。またからごころを去れる事も、なお清くはさりあえ給わで、おのずから猶その意に落つる事も、まれまれにはのこれるなり。
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『玉勝間』八の巻 御家の文と云へる事同じふみに、きょうの使は徳大寺の中将公〓なり云云、もえぎの下がさね、御家の文のもこうを、色々におりたりしにや云云。
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『玉勝間』十の巻 京極ノ中納言の墓又時雨の亭の事同じ人の、ひえの山にもうでたる詞にいわく。貫之のぬしの塚は、かしこのしかしか聞ゆる所に有りと云いたるを、定かに知れるも無くて、見ずなりにけるぞ、いといと名残りがちに、ほい無くなん。定家卿のも有りと云えれど、それはひがことにて、まことは九重のかたわら、柳原のほとり、今の相国寺のうちに、時雨の亭も有りしとぞ。長禄の頃おい、年毎の八月廿日には、すいたる人々、秋のなかばも過ぎぬべしと云う句を、一もじずつ初めに置きて、歌よみとぶらいしも、この所なるべし。
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