玉勝間 / 六の巻 蘇我ノ馬子が事
愚管抄ニ云ク、崇峻天皇の、馬子ノ大臣にころされ給ひて、大臣にすこしのとがをも行はれず、善き事をしたる體にて、さて止みたる事は、いかに問ふとも、昔の人も、あやめさたしおくべし。今の人も、又これを心得べし。日本國には、當時國王をころしまゐらせたる事は、大かた無し。又あるまじと、ひしと定めたる國なり。それに此王と安康天皇とばかりなり。その安康は、七歲なるむまごのまゆわの王子に、ころされ給ひにけるは、やがてまゆわの王子も、その時殺されにければ、いかがはせん云云。此崇峻のころされ給ふやうは云云。それにすこしのとがも無くて、つつらとして有るべしやは。中にも聖德太子おはしますをりにて、太子は、いかにさては御さたも無くて、やがて馬子と一つ心にて、おはしましけるぞと、世に心得ぬ事にて有るなり。此事をふかく案ずるに、唯だせんは、佛法にて皇法をまもらんずるぞ。佛法無くては、佛法わたりぬるうへは、王法はえ有るまじきぞと云ふことわりを、あらはさんれうと、又物の道理には、一定輕重の有るを、重きにつきて、輕きを捨つるぞと云ふことわりと、此二つを、ひしとあらはされたるにて侍るなり云云。
新字:愚管抄ニ云ク、崇峻天皇の、馬子ノ大臣にころされ給ひて、大臣にすこしのとがをも行はれず、善き事をしたる体にて、さて止みたる事は、いかに問ふとも、昔の人も、あやめさたしおくべし。今の人も、又これを心得べし。日本国には、当時国王をころしまゐらせたる事は、大かた無し。又あるまじと、ひしと定めたる国なり。それに此王と安康天皇とばかりなり。その安康は、七歳なるむまごのまゆわの王子に、ころされ給ひにけるは、やがてまゆわの王子も、その時殺されにければ、いかがはせん云云。此崇峻のころされ給ふやうは云云。それにすこしのとがも無くて、つつらとして有るべしやは。中にも聖徳太子おはしますをりにて、太子は、いかにさては御さたも無くて、やがて馬子と一つ心にて、おはしましけるぞと、世に心得ぬ事にて有るなり。此事をふかく案ずるに、唯だせんは、仏法にて皇法をまもらんずるぞ。仏法無くては、仏法わたりぬるうへは、王法はえ有るまじきぞと云ふことわりを、あらはさんれうと、又物の道理には、一定軽重の有るを、重きにつきて、軽きを捨つるぞと云ふことわりと、此二つを、ひしとあらはされたるにて侍るなり云云。
書き下し
愚管抄に云わく、崇峻天皇の、馬子の大臣にころされ給いて、大臣にすこしのとがをも行われず、善き事をしたる体にて、さて止みたる事は、いかに問うとも、昔の人も、あやめさたしおくべし。今の人も、またこれを心得べし。日本国には、当時国王をころしまいらせたる事は、大かた無し。またあるまじと、ひしと定めたる国なり。それにこの王と安康天皇とばかりなり。その安康は、七歳なるむまごのまゆわの王子に、ころされ給いにけるは、やがてまゆわの王子も、その時殺されにければ、いかがはせん云云。この崇峻のころされ給うようは云云。それにすこしのとがも無くて、つつらとして有るべしやは。中にも聖徳太子おわしますおりにて、太子は、いかにさては御さたも無くて、やがて馬子と一つ心にて、おわしましけるぞと、世に心得ぬ事にて有るなり。この事をふかく案ずるに、ただせんは、仏法にて皇法をまもらんずるぞ。仏法無くては、仏法わたりぬるうえは、王法はえ有るまじきぞと云うことわりを、あらわさんりょうと、また物の道理には、一定軽重の有るを、重きにつきて、軽きを捨つるぞと云うことわりと、この二つを、ひしとあらわされたるにて侍るなり云云。
現代語訳
愚管抄にいう。崇峻天皇が馬子の大臣(蘇我馬子)に殺されなさったのに、大臣には少しの罪も科されず、善いことをしたかのような扱いで、そのまま済んでしまったことは、どう問うてみても、昔の人もその是非を論じておくべきだったし、今の人もまたこれをよく心得ておくべきである。日本の国では、そのころ国王を殺し申し上げたことはほとんどない。またあってはならないと、きっぱり定めた国である。それなのに、この王(崇峻天皇)と安康天皇だけである。その安康天皇は、七歳になる孫とされる眉輪王に殺されなさったが、眉輪王もそのとき殺されたので、どうしようもない、云々。この崇峻天皇の殺されなさった様子は、云々。それなのに少しの罪も問われず、平然としていてよいものだろうか。とりわけ聖徳太子がおいでになったときのことで、太子はどうしてそれについて何のお裁きもなく、そのまま馬子と同じ心でおられたのかと、世間でも納得のいかないことなのである。このことを深く考えると、要するに、仏法によって皇法を守ろうというのである。仏法がなくては、つまり仏法が渡来した以上は、王法は成り立たないという道理を明らかにするためと、また物事の道理には必ず軽重があって、重いほうについて軽いほうを捨てるのだという道理と、この二つを、はっきりとお示しになったのでございます、云々。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 蘇我ノ馬子が事仏法に帰したる大臣の手本にて、この馬子の大臣は侍りけりとあらわなり。この大臣を、少しも徳もおわしまさず。ただ欽明の御子と云うばかりにて、位につかせ給いたる国王の、この大臣を殺さむとせさせ給う時、馬子の大臣、仏法を信じたる力にて、かかる王を、我がころされぬさきに、失い奉りつるにて侍れば云云。推古の御けしきもやまじりたりけん、とまで道理のおさるるなり云云と云えり。のりなが云わく、この論は、あながちに仏法をいみしき物に立てむとして、中中にその道の、世のいみしきまが事なる程をあらわせるものにて、あまりに拙きしいごとなり。
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『玉勝間』十四の巻 君を弑奉り父を弑せるたぐひのまがこと書紀の履中天皇の御巻に、刺領巾と云う者、己が君住吉仲皇子を刺し殺し奉る。崇峻天皇の御巻に、蘇我の馬子、人をして天皇を殺し奉らしむ。天皇を弑し奉れる者は、この蘇我の奴をおきては、他に無し。眉輪王の安康天皇を弑し奉り給いしは、王子なり。又御父の仇に坐ししかば、同じさまには申し難し。景行天皇の御巻に、日向の国の市乾鹿文と云いし女、父を殺さしむ。雄略天皇の御巻に、樟媛その夫弟君を殺す。但しこの二つは、朝廷の御ために、忠なるしわざなりしかば、ひたぶるには云い難し。同じ御巻に、庵城部の連枳苣喩、その子武彦を殺す。推古天皇の御巻に、一僧斧を執りてその祖父を殴つ。おおかたかかるまが事ども、書紀に見えたる、僅かにただこれらのみこそあれ。もろこしの戎国の、周と云いし代よりこなた世々に、君を殺し、父を殺したりしたぐいの、書どもにしるせる、いと多きと、くらべ思いて、国がらの善さ悪しさ、又道の験のまさり劣りをも、さとるべし。そもそもかの周公旦、道をつくりそなえて、君を殺せ、父を殺せとは、教えざれども、おのずからかくこそ有りけれ。
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『神皇正統記』巻三 第三十三代 崇峻天皇第三十三代、崇峻天皇は欽明第十二の子。御母小姉君の娘。これも稲目の大臣の女也。戊申年即位。大和の倉橋の宮にまします。天皇横死の相みえ給。つゝしみますべきよしを厩戸の皇子奏給けりとぞ。天下を治給こと五年。七十二歳おましましき。或人の云ふ。外舅蘇我の馬子大臣と御中あしくして、彼大臣のためにころされ給きともいへり。
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『玉勝間』六の巻 安徳天皇の御事この主上をば、安徳天皇とつけ申したり。海にしずませ給いぬる事は、この王を、平相国いのり出しまいらすることは、安芸の厳島の明神の利生なり。このいつくしまと云うは、龍王のむすめなり、と申し伝えたり。この御神の、心ざし深きにこたえて、我が身の、この王となりて、生まれたりけるなり。さて果てには、海へかえりぬるなりとぞ、この子細知りたる人は申しける。この事は、まことならんと覚ゆ。この三件も、同じく愚管抄なり。この書、七巻有りて、神武天皇より、順徳天皇の御世、承久の乱れの前までの事どもを記して、ところどころに論あり。法師の書けるふみと見えて、その論みな例の仏さだなり。この安徳の帝の御事など、そのかみ例の僧のつくり出でて、云いなしたるが、ひろごりて、世にさるさだ有りしなるべし。平相国にいつくしま、いつく島に龍王のむすめ、りゅうおうの女に海にかえるとは、よくも事あいて、似つきたるものかな。「しもつけは木のうえにこそ成りにけれよしとも見えぬかけづかさかな」。これは平治に源の義朝の首、獄門にかけられたるを詠める、たわぶれ歌なり。しもつけは下野、かけづかさは兼官なり。
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『神皇正統記』巻三 第三十四代 推古天皇是より此国よりもつねに使をつかはさる。其使を遣隋大使となむなづけられしに、二十七年己卯の年、隋滅て唐の世にうつりぬ。二十九年辛巳の年太子かくれ給。御年四十九。天皇をはじめたてまつりて、天下の人かなしみをしみ申こと父母に喪するがごとし。皇位をもつぎましますべかりしかども、権化の御ことなれば、さだめてゆゑありけんかし。御諱を聖徳となづけ奉る。この天皇天下を治給こと三十六年。七十歳おましましき。
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『玉勝間』一の巻 東宮をたがひにゆづりてこの里に、これも宣長がおしえ子に、須賀の直見と云いしは、いときなかりし程より、唐やまとの書を好み読みて、いとよく学びて、歌をも善く詠み、物のさとりもいと賢こかりけるを、まだ四十にもならで、早くみまかりぬるは、いとあたらしきおのこになむ有りける。それが云えりしは、古今集の序の細註に、東宮を互いにゆずりてと有るは、誰れもいと心得ぬ云いざまなる。こは東宮とにぞ有りけむを、と文字とを文字とよく似たれば、見誤りて書きつたえたる者なるべし。宇治の稚郎子を指して、東宮とは申せるなりとぞ云えりし。この考えにてよく聞こえたり。
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