玉勝間 / 六の巻 業平ノ朝臣の月やあらぬてふ歌のこころ
「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我身ひとつはもとの身にして。此歌、とりどりに解たれども、いづれも其意くだくだしくして、一首の趣とほらず。これによりて、今おのが思ひ得たる趣を云はんには、まづ二つのヤ文字は、ハヤてふ意にて、月も春も、去年にかはらざるよしなり。さて一首の意は、月やは昔の月にあらぬ、月も昔のままなり。春やは昔の春にあらざる、春もむかしのままの春なり、然るに唯だ我身ひとつのみは、本の昔のままの身ながら、昔のやうにも有らぬ事よ、と詠めるなり。昔とは、思ふ人に逢見たりしほどなり。本の身と云ふも、其時のままの身と云ふ事なり。さて身にしてと云ふは、身ながらの意にて、斯くとぢめたる所に、昔のやうにも有らぬことよ、と云ふ意をふくめたる物なり。ニシテと云へる語の勢ひ、上ノ句に月も春も昔のままなるに、と云へるとあひ照して、おのづからふくめたる意は聞ゆるなり。此人の歌、こころあまりて、詞足らずと云へるは、斯かるを云へるなるべし。いせ物語のはしの詞に、立て見ゐて見見れど、こぞに似るべくもあらず、と云へるは、此ふくめたる意を、あらはしたるものなり。
書き下し
「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして」。この歌、とりどりに解きたれども、いずれもその意くだくだしくして、一首の趣とおらず。これによりて、今おのが思い得たる趣を云わんには、まず二つのや文字は、はやちょう意にて、月も春も、去年にかわらざるよしなり。さて一首の意は、月やは昔の月にあらぬ、月も昔のままなり。春やは昔の春にあらざる、春もむかしのままの春なり、然るにただ我が身ひとつのみは、もとの昔のままの身ながら、昔のようにも有らぬ事よ、と詠めるなり。昔とは、思う人に逢い見たりしほどなり。もとの身と云うも、その時のままの身と云う事なり。さて身にしてと云うは、身ながらの意にて、かくとじめたる所に、昔のようにも有らぬことよ、と云う意をふくめたる物なり。にしてと云える語の勢い、上の句に月も春も昔のままなるに、と云えるとあい照らして、おのずからふくめたる意は聞こゆるなり。この人の歌、こころあまりて、詞足らずと云えるは、かかるを云えるなるべし。伊勢物語のはしの詞に、立ちて見、居て見、見れど、こぞに似るべくもあらず、と云えるは、このふくめたる意を、あらわしたるものなり。
現代語訳
「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして」。この歌はさまざまに解釈されているが、どれもその意味がくどくどしくて、一首の趣が通らない。そこで、いま私が思い当たった趣を言うと、まず二つの「や」の字は「はや(〜だろうか、いやそうではない)」という反語の意味で、月も春も去年と変わらないということである。そこで一首の意味は、月は昔の月でないだろうか、いや月も昔のままだ。春は昔の春でないだろうか、いや春も昔のままの春だ。それなのにただ我が身ひとつだけは、もとの昔のままの身でありながら、昔のようではないことよ、と詠んだのである。「昔」とは、思う人に逢っていたころのことである。「もとの身」というのも、その時のままの身ということだ。さて「身にして」というのは「身ながら」の意味で、こう言いさして結んだところに、「昔のようではないことよ」という意味を含ませてある。「にして」という語の勢いが、上の句で月も春も昔のままであるのに、と言っているのと照らし合って、含ませた意味がおのずから伝わるのである。この人(在原業平)の歌を「心あまりて詞足らず」と評したのは、こういうところを言ったのであろう。伊勢物語のこの歌の前の地の文に「立って見、座って見、見るけれども、去年に似るはずもない」とあるのは、この含ませた意味を表に出したものである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 業平ノ朝臣の月やあらぬてふ歌のこころ去年に似ぬとは、月春の似ぬにはあらず、見る我がここちの、去年に似ぬなり。新古今集雑上に、清原の深養父の、「むかし見し春は昔の春ながら我が身ひとつのあらずも有るかな」と詠める歌は、この業平の朝臣の歌を、註したるがごとし。これにて、よく聞こえたる物をや。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つ初めのくだり、男のきたりける云云、男の、のの文字ひがことなり。真名本に無きぞ宜しき。男のとては、云云して歌を書きてやる事、女のしわざになるなり。月やあらぬちょう歌の条、ほいにはあらで、この詞聞えず。真字本に、穂にはと有るも、心ゆかず。穂には出でずなどこそ云え、ほにはあらでなどは、聞きつかぬ心地す、猶もじの誤りなどにや。うつの山のところ、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つたかえではしげりて云云、かえではのはは、てにおはなり。上の道はのはと重ねて、こうように云う、一つの格なり。「秋はきぬ紅葉はやどに降りしきぬ道ふみ分けてとう人は無し、など、三つも重ねて云える、この類多し。真名本に葉と書けるによりて、然か心得ては、いとつたなき文になるなり。「君がためたおれる枝は云云。この歌は、君にわが心ざしの深きにかないて、春ながらも、秋のごとく色ふかく染めたり、と云う意なるべし。注どもに、秋と云う言になずみて、女の心のうつろう事に心得たるはいかが。さてはかえしの歌めずらしげ無し。又女の心を疑うべきよしも、上の詞に見えず。「いでていなば心かろしと云云。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つやよいのつごもりに、その日云云、その日と云える詞、いたずらにて拙なし。紅葉のちくさに見ゆるおり、この詞いかが、真名本に無きぞ善き。もみじもと有らば、有りてもよからんか。板敷のしたに、したはしもなるべし。板敷のうちのしもつかたを云うなり。板敷のしたには、人の居るべきにも有らず。みちの国にいきたりけるにとは、この物語の作者の、みずから行きたるよしにや。もしこの歌詠める翁の事ならば、かの翁と云う事、みちの国にの上に無くてはいかがなり。かりはねんごろにもせで、上に、狩に来ませるよしを云わざれば、この詞ゆくりなく聞ゆ。これによりて思うに、桜花を見ありくを、桜がりと云うなれば、この条に狩と云えるは、皆桜がりの事にやあらん。上にも下にも、ただ桜の事をのみ云えればなり。かたののなぎさの家その院の云云、こは聞えぬ詞なり。真名本に、かたののなぎさの院のと有り、よろし。かのうまのかみ詠みて奉りける、かのうまのかみと云う事無くて有らまほし。「思えども身をし分けねばは、分けぬにと云う意なり、この例古き歌には多し。身を分くるは、身を二つに分くるなり。めかれせぬは、雪故にえ帰らで、そこに在るを云う。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つその故は、待つにと云うまでは、ただ一度のさまを云える文なるに、たびたび過ぎと続けて云いては、俄なり。さればこは、よろこびて待つに来ず、さること度々なりければ、などように有るべき所なり。むかし男かたいなかに住みけり。真名本に、昔男女と有るぞ善き。男とのみにては、次なる男と云う言も余り、また待ちわびたりけるにと云うも、上に女と云う言無くては、聞えず。「梓弓真弓つき弓云云、この歌、初めの二句、いかなる意にか、さらに聞えず。又真名本に、神言忠令見と書けるは、もとより借字ながら、いとつたなき書きざまなり。下の句は、昔わがうるわしみせしがごとく、今の男に、うるわしみせよと云えるなり。「見るめなきわが身を云云、この歌のこと、古今集の遠鏡に云えり。さてこの歌をここに出だせるは、下の句、はしの詞にかなわず聞ゆ。又色このみなる女と云うことも、ここに有るべき詞に有らず。これらによりて思うに、これは、「秋の野にちょう歌の次に、多く詞落ちて、もと上とは別条にぞ有りけむ。え得ずなりにける事、わびたりける人の云云、真名本には、わびを慙と書けり、共にかなえりとも聞えず。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つさてそれを、わが本意なりと云えるなり。「今までに云云、とてやみにけりと云う詞、上に心ざしはたさむとや思いけむ、と云えるに、かなえりとも聞えず。このくだり、真字本はよく聞えたり。昔男ありけり、いかが有りけむ、その男云云は、真名本に、昔男女云云と有り、さらでは足らわず。さてやがて後ついに、この所詞重なりて、くだくだし。真名本には、さてついにと有り。さてここは、作者の語なれば、きょうまでと云えるもいかがなり。然れば、さて後ついによくてやあらん云云、とこそ有るべけれ。むくつけきことと云うより、おわぬものにや有らんと云うまでは、のろいごとを評したる語なり。むくつけきことは、むくつけき事よと云う意なり。かくて今こそは見めと云う一句は、さかでうちたる男の、のろいていえる言なるを、評する語の中へ引き出でて云えるなり。よき酒ありと聞きて、この下に詞落ちたるなり。さらでは、下にその日はと云えるも、より所無し。試みにその落ちたる詞をおぎなわば、よきさけ有りと聞きて、うえにありける人々、飲まんとて来けり。左中弁云云、などや有りけむ。あるじのはらからなるの下に、男など有らまほし。なくなりにけるを、真名本に、なくなりたる女をと有り、よろし。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つうまのはなむけせんとて、人を待ちけるに云云、人をと云うこと、あまれり、真字本には無し。但し上なる、物へいく人にと云う詞の、無き本も有り。それは人を待ちけるにてよろし。又男、「行く水と過ぐるよわいと云云、この歌この条にかなわず、真名本に無きぞ善き。又男女の忍びありきしける云云、この詞も、このくだりにかなわず。人知れぬ物思いけり、この詞いたずらなり。むかし心つきて云云、心つきて、聞えず。真名本に、栄而と有るも心得ず。田からんとては、男の事にて、この男の田からむとてあるを見て、と云う意なり。かくてものいたくやみて云云、この事、上の詞歌に似つかず、別儀なりしが、詞ども落ちて、乱れたるなるべし。昔年ごろ音づれざりける女、昔の下に、男のと云う事無くては、足らず。又よさりこの有りつる云云の上にも、その男、或いはその人など有るべきことなり。「これやこの我に云云、この歌、おうみをと云うこと、聞えず。近江に云い掛けたりとせんも、しいごとなり。もし然らば、上に近江の国の事無くては、ととのわず。又下の句も、これやこのと云えるにかなわず。昔よごころつける女云云、これは、女にてはかなわず、真名本に、嫗女と有るぞよろしき。仮字の乱れたるより、斯かるまぎれもおのずからなり。
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