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玉勝間 / 五の巻 しほじり

そのうへ川尻は、さしもおどろおどろしく鳴る物にはあらざるをや。又ひえの山を廿ばかり重ねあげたらんほどしての、ほどを、眞名本には、體と書るを用ひて、形のたとへは、すでにひえの山にて云へれば、是は必ズ鳴澤の音なり、とやうに云はれたれど、ひえの山を云云と云へるは、ただ高さの事にこそあれ。もし是れを形としては、唯だ細くて高き物になるべければ、そのたとへいたく違へり。されば眞字本の體ノ字は、ひが事なるをや。又都の比叡の山を云へる對には、難波の川じりこそ、共に大きなる物にて、よろしき文なれと云はれたるも、あまりなるしひごとなり。形だにも似たらんには、大きなる小きにはかかはらず、何物にまれ譬へんに、なでふつたなき事かあらむ。さしも鳴る物にもあらざる、川尻にたとへたらむこそ、拙なくは有べけれ。鹽がまのあたりの事は、京人の知るべきならねば、物の譬へに云ふべくも有らず、とも云ふべけれど、海邊の事ならむからに、京人のむげに知るまじきにあらず。殊に鹽がまは、歌にも常に詠むことなれは、したしくよしある譬へとこそは覺ゆれ。

新字:そのうへ川尻は、さしもおどろおどろしく鳴る物にはあらざるをや。又ひえの山を廿ばかり重ねあげたらんほどしての、ほどを、真名本には、体と書るを用ひて、形のたとへは、すでにひえの山にて云へれば、是は必ズ鳴沢の音なり、とやうに云はれたれど、ひえの山を云云と云へるは、ただ高さの事にこそあれ。もし是れを形としては、唯だ細くて高き物になるべければ、そのたとへいたく違へり。されば真字本の体ノ字は、ひが事なるをや。又都の比叡の山を云へる対には、難波の川じりこそ、共に大きなる物にて、よろしき文なれと云はれたるも、あまりなるしひごとなり。形だにも似たらんには、大きなる小きにはかかはらず、何物にまれ譬へんに、なでふつたなき事かあらむ。さしも鳴る物にもあらざる、川尻にたとへたらむこそ、拙なくは有べけれ。塩がまのあたりの事は、京人の知るべきならねば、物の譬へに云ふべくも有らず、とも云ふべけれど、海辺の事ならむからに、京人のむげに知るまじきにあらず。殊に塩がまは、歌にも常に詠むことなれは、したしくよしある譬へとこそは覚ゆれ。

書き下し

そのうえ川尻は、さしもおどろおどろしく鳴る物にはあらざるをや。又ひえの山を二十ばかり重ねあげたらんほどしての、ほどを、真名本には、体と書けるを用いて、形のたとえは、すでにひえの山にて云えれば、これは必ず鳴沢の音なり、とように云われたれど、ひえの山を云云と云えるは、ただ高さの事にこそあれ。もしこれを形としては、ただ細くて高き物になるべければ、そのたとえいたく違えり。されば真字本の体の字は、ひが事なるをや。又都の比叡の山を云える対には、難波の川じりこそ、共に大きなる物にて、よろしき文なれと云われたるも、あまりなるしいごとなり。形だにも似たらんには、大きなる小さきにはかかわらず、何物にまれ譬えんに、なでうつたなき事かあらむ。さしも鳴る物にもあらざる、川尻にたとえたらむこそ、拙なくは有るべけれ。塩がまのあたりの事は、京人の知るべきならねば、物の譬えに云うべくも有らず、とも云うべけれど、海辺の事ならむからに、京人のむげに知るまじきにあらず。殊に塩がまは、歌にも常に詠むことなれば、したしくよしある譬えとこそは覚ゆれ。

現代語訳

そのうえ川尻は、それほど恐ろしげに鳴るものではないではないか。また「比叡の山を二十ほど重ね上げたくらいの(ほど)」の「ほど」を、真名本では「体」と書いているのを用いて、形のたとえはすでに比叡の山で言っているのだから、これ(しおじり)は必ず鳴沢の音のことだ、というように言われたが、比叡の山がどうこうと言っているのは、ただ高さのことである。もしこれを形のこととすれば、ただ細くて高いものになってしまうはずだから、そのたとえはひどく違ってしまう。だから真名本の「体」の字は誤りなのである。また、都の比叡の山を言ったのに対しては、難波の川尻こそともに大きなもので、よい文であると言われたのも、あまりにこじつけである。形さえ似ているなら、大きい小さいにかかわらず、何にたとえようとも、どうして拙いことがあろうか。それほど鳴るものでもない川尻にたとえたとしたら、そのほうがよほど拙いであろう。塩竈のあたりのことは京の人が知るはずもないので、物のたとえに言うはずもない、とも言えようが、海辺のことだからといって、京の人がまったく知らないはずはない。ことに塩竈は歌にもいつも詠むことなので、親しみのある、趣のあるたとえだと思われる。

解説

しおじり論の後半で、真淵の説に残る支えを一つずつ外していく。川尻はそもそもそれほど大きな音を立てて鳴るものではない。真淵は、比叡山を二十重ねたほどの「ほど」を真名本の「体」の字で読み、形のたとえは比叡山で済んでいるから、しおじりは音のたとえだとした。宣長は、比叡山のくだりは高さを言うだけで、形と取れば細長い物になってしまうから「体」の字こそ誤りだと返す。都の比叡山と難波の川尻が大きさで釣り合うという真淵の文章論も、たとえは形が似ていれば大小は問わないと退ける。京の人は塩田を知らないという反論も想定し、塩竈は歌によく詠まれて親しまれていたと答える。相手の論拠を先回りして潰していく周到さが見事である。

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