玉勝間 / 五の巻 しのぶもぢずり
しのぶもぢずりと云ひし物は、古今集の河原左大臣の歌の、顯昭の注に、陸奧ノ國の信夫ノ郡に、もぢずりとて、髮をみだしたるやうに摺りたるを、しのぶずりと云ふと云ひ、契沖が勢語臆斷にも、信夫ノ郡より、むかし摺て出したる名物なり、と云へるが如し。然るを師の伊勢物語ノ古言に、垣衣草の形を、紫の色もて摺たるを云ふと見えたり。陸奧ノ國に石二つある、其石にてすりたるよし云ふは、僞言なり、昔のすり衣は、家家にてこそ摺りたれとて、己が家家にてすりたりし證を出し、さて垣衣草の形の亂れたるをもて、おのが戀の亂れにたくへたり、と云はれたるはいかにぞや。いせ物がたりの歌にては、さ聞ゆる事も有べかめれど、そは次に、古今集なる、河原ノ大臣の歌を出して、と云ふ歌のこころばへなりと云へり。これしのぶのみだれと詠めるは、しのぶずりの亂れと云ふ意なりと、しらせたるなり。かの紫の色こきときはと云ふ歌の次に、むさし野のこころなるべし、と云へるをも思ひ合すべし。もししのぶ草のかたを摺りたるを詠めるならば、古今の歌を引出たるは、用無きいたづら事なり。
新字:しのぶもぢずりと云ひし物は、古今集の河原左大臣の歌の、顕昭の注に、陸奥ノ国の信夫ノ郡に、もぢずりとて、髪をみだしたるやうに摺りたるを、しのぶずりと云ふと云ひ、契沖が勢語臆断にも、信夫ノ郡より、むかし摺て出したる名物なり、と云へるが如し。然るを師の伊勢物語ノ古言に、垣衣草の形を、紫の色もて摺たるを云ふと見えたり。陸奥ノ国に石二つある、其石にてすりたるよし云ふは、偽言なり、昔のすり衣は、家家にてこそ摺りたれとて、己が家家にてすりたりし証を出し、さて垣衣草の形の乱れたるをもて、おのが恋の乱れにたくへたり、と云はれたるはいかにぞや。いせ物がたりの歌にては、さ聞ゆる事も有べかめれど、そは次に、古今集なる、河原ノ大臣の歌を出して、と云ふ歌のこころばへなりと云へり。これしのぶのみだれと詠めるは、しのぶずりの乱れと云ふ意なりと、しらせたるなり。かの紫の色こきときはと云ふ歌の次に、むさし野のこころなるべし、と云へるをも思ひ合すべし。もししのぶ草のかたを摺りたるを詠めるならば、古今の歌を引出たるは、用無きいたづら事なり。
書き下し
しのぶもじずりと云いし物は、古今集の河原左大臣の歌の、顕昭の注に、陸奥の国の信夫の郡に、もじずりとて、髪をみだしたるように摺りたるを、しのぶずりと云うと云い、契沖が勢語臆断にも、信夫の郡より、むかし摺りて出だしたる名物なり、と云えるがごとし。然るを師の伊勢物語古意に、垣衣草の形を、紫の色もて摺りたるを云うと見えたり。陸奥の国に石二つある、その石にてすりたるよし云うは、偽言なり、昔のすり衣は、家々にてこそ摺りたれとて、己が家々にてすりたりし証を出だし、さて垣衣草の形の乱れたるをもて、おのが恋の乱れにたぐえたり、と云われたるはいかにぞや。いせ物がたりの歌にては、さ聞ゆる事も有るべかめれど、そは次に、古今集なる、河原の大臣の歌を出だして、と云う歌のこころばえなりと云えり。これしのぶのみだれと詠めるは、しのぶずりの乱れと云う意なりと、しらせたるなり。かの紫の色こきときはと云う歌の次に、むさし野のこころなるべし、と云えるをも思い合わすべし。もししのぶ草のかたを摺りたるを詠めるならば、古今の歌を引き出でたるは、用無きいたずら事なり。
現代語訳
「しのぶもじずり」というものは、古今集の河原左大臣(源融)の歌についての顕昭の注に、「陸奥国の信夫郡に、もじずりといって、髪を乱したように摺り染めたものを、しのぶずりという」と言い、契沖の『勢語臆断』にも「信夫郡から昔摺って出した名産である」と言っているとおりである。ところが師(賀茂真淵)の『伊勢物語古意』には、垣衣草(しのぶぐさ)の形を紫の色で摺ったものを言うとある。「陸奥国に石が二つあって、その石で摺ったと言うのは作り話である。昔の摺り衣は家々で摺ったものだ」として、自分の家々で摺った証拠を出し、さて「しのぶ草の形の乱れたのをもって、自分の恋の乱れにたとえたのだ」と言われたのはどうであろうか。伊勢物語の歌(春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れ限り知られず)だけならそう聞こえることもありそうだが、それは次に古今集にある河原大臣の歌を出して、「(みちのくのしのぶもじずり誰ゆえに乱れそめにし我ならなくに)という歌の心ばえである」と言っている。これは「しのぶの乱れ」と詠んだのは「しのぶずりの乱れ」という意味だと知らせているのである。あの「紫の色濃き時は」という歌の次に「武蔵野の心なるべし」と言っているのも思い合わせるべきである。もししのぶ草の形を摺ったものを詠んだのならば、古今集の歌を引き出したのは用のない無駄なことになる。
解説
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 しのぶもぢずり又垣衣草のかたならんには、かの古今の歌、軒に生うるなどこそ詠むべけれ、みちのくのと詠めるは、何のよしぞや。かの国に信夫の郡と云うが有ればとて、さる遠き国の名をとり出でて、よしも無き垣衣草の枕詞には、置くべき物かは。又乱るるよしを云わむに、しのぶ草は、いとも似つかわしからず。かの草のさまは、さ云うばかり乱れたる物にはあらず。それも摺りたる形は、乱れても有るべけれど、摺りたるにつけて乱れたらんは、いずれの物のかたにても、同じ事なるべし。いたく物よりことに乱れたる形ならではかなわず。又垣衣は、とり分けて摺り染などにすべき物にも有らざるをや。さて又かの信夫の郡より出ずと云う事を破りて、布など、染めたるを諸国より貢ることは、古え見えずと云われたるも、たがえり。延喜の大蔵、内蔵などの式にも、諸国所貢の染布の色々など見えたるをや。すり衣は、おのが家々にてこそ摺りたれ、と云わるれども、さりとて、外より摺りていだす事も、などか無からん。国々より出でて名ある物を、めで用うる事は、今も昔も同じ事なり。さて信夫の郡に、石の有りしにて摺れりと云うは、いかが有りけむ。
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『玉勝間』五の巻 しのぶもぢずりされどまことに然かなりけんも知りがたきを、ひたぶるに偽言なりとは云うべくもあらず。その石の事は、とまれかくまれ、信夫郡より出だせりし事は、論無きをや。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つ初めのくだり、男のきたりける云云、男の、のの文字ひがことなり。真名本に無きぞ宜しき。男のとては、云云して歌を書きてやる事、女のしわざになるなり。月やあらぬちょう歌の条、ほいにはあらで、この詞聞えず。真字本に、穂にはと有るも、心ゆかず。穂には出でずなどこそ云え、ほにはあらでなどは、聞きつかぬ心地す、猶もじの誤りなどにや。うつの山のところ、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つたかえではしげりて云云、かえではのはは、てにおはなり。上の道はのはと重ねて、こうように云う、一つの格なり。「秋はきぬ紅葉はやどに降りしきぬ道ふみ分けてとう人は無し、など、三つも重ねて云える、この類多し。真名本に葉と書けるによりて、然か心得ては、いとつたなき文になるなり。「君がためたおれる枝は云云。この歌は、君にわが心ざしの深きにかないて、春ながらも、秋のごとく色ふかく染めたり、と云う意なるべし。注どもに、秋と云う言になずみて、女の心のうつろう事に心得たるはいかが。さてはかえしの歌めずらしげ無し。又女の心を疑うべきよしも、上の詞に見えず。「いでていなば心かろしと云云。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つその故は、待つにと云うまでは、ただ一度のさまを云える文なるに、たびたび過ぎと続けて云いては、俄なり。さればこは、よろこびて待つに来ず、さること度々なりければ、などように有るべき所なり。むかし男かたいなかに住みけり。真名本に、昔男女と有るぞ善き。男とのみにては、次なる男と云う言も余り、また待ちわびたりけるにと云うも、上に女と云う言無くては、聞えず。「梓弓真弓つき弓云云、この歌、初めの二句、いかなる意にか、さらに聞えず。又真名本に、神言忠令見と書けるは、もとより借字ながら、いとつたなき書きざまなり。下の句は、昔わがうるわしみせしがごとく、今の男に、うるわしみせよと云えるなり。「見るめなきわが身を云云、この歌のこと、古今集の遠鏡に云えり。さてこの歌をここに出だせるは、下の句、はしの詞にかなわず聞ゆ。又色このみなる女と云うことも、ここに有るべき詞に有らず。これらによりて思うに、これは、「秋の野にちょう歌の次に、多く詞落ちて、もと上とは別条にぞ有りけむ。え得ずなりにける事、わびたりける人の云云、真名本には、わびを慙と書けり、共にかなえりとも聞えず。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つやよいのつごもりに、その日云云、その日と云える詞、いたずらにて拙なし。紅葉のちくさに見ゆるおり、この詞いかが、真名本に無きぞ善き。もみじもと有らば、有りてもよからんか。板敷のしたに、したはしもなるべし。板敷のうちのしもつかたを云うなり。板敷のしたには、人の居るべきにも有らず。みちの国にいきたりけるにとは、この物語の作者の、みずから行きたるよしにや。もしこの歌詠める翁の事ならば、かの翁と云う事、みちの国にの上に無くてはいかがなり。かりはねんごろにもせで、上に、狩に来ませるよしを云わざれば、この詞ゆくりなく聞ゆ。これによりて思うに、桜花を見ありくを、桜がりと云うなれば、この条に狩と云えるは、皆桜がりの事にやあらん。上にも下にも、ただ桜の事をのみ云えればなり。かたののなぎさの家その院の云云、こは聞えぬ詞なり。真名本に、かたののなぎさの院のと有り、よろし。かのうまのかみ詠みて奉りける、かのうまのかみと云う事無くて有らまほし。「思えども身をし分けねばは、分けぬにと云う意なり、この例古き歌には多し。身を分くるは、身を二つに分くるなり。めかれせぬは、雪故にえ帰らで、そこに在るを云う。
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『玉勝間』五の巻 またいせ物がたりは、物語のあるが中にも、おもしろく、詞すぐれたる物語にて、世にあまねくもて遊ぶ物語なるを、あやしう心得ぬふしどもも、所々まじれるは、後の人の、写しひがめたるなめり。さるを、やがてたすけて説かむとせば、なかなかにしい言にぞなりぬべき。又これはすべて例の作り物語にし有れば、在五中将にまれ、こと人にまれ、その人の上の事のたがいめなどは、咎むべきにも有らず。ただおかしく作りなしたる、ことのあやをこそ、とりめでて、歌まなびのたすけにも、文かくほんにもすべき業なれ。歌も稀には、得も云わず悪ろきも交じれり、さる心して見るべし。注釈どもは、あまた有る中に、云うべきは、契沖が臆断、師の古意ぞ有るを、たがいになん善き悪しき所は有りける。又共にいかにぞや覚ゆるふしも少なからず。おのれはた思い得たるふしども有りて、早くより、つぶさにしるさまほしく思いわたるを、めかり塩焼かねども、伊勢おのあまのいとま無くて、得しもはたさぬが、口惜しさに、せめてただこれかれと撰り出でて、いささか上の件には物しつるぞかし。
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