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玉勝間 / 五の巻 江戸の地名これかれ

宗祇法師が回國雜記と云ふ物に云はく、次の日淺草をたちて、新羽と云へる所に赴き侍るとて、道すがら名所ども尋ねける中に、忍ヒの岡と云へるところにて、松原の有ける陰にやすみて、「霜ののちあらはれにけり時雨をばしのびの岡の松もかひなし。ここを過て、こいし川と云へる所にまかりて云云、とりこえの里と云へる所に行ければ云云、柴の浦と云へる所にいたりければ云云、と云へり。此道なみを見れば、忍びの岡と有るは、今の東叡山の地と聞えたり。さておもへば、不忍の池と云ふ名も、忍びの岡より出たるにやあらん。

新字:宗祇法師が回国雑記と云ふ物に云はく、次の日浅草をたちて、新羽と云へる所に赴き侍るとて、道すがら名所ども尋ねける中に、忍ヒの岡と云へるところにて、松原の有ける陰にやすみて、「霜ののちあらはれにけり時雨をばしのびの岡の松もかひなし。ここを過て、こいし川と云へる所にまかりて云云、とりこえの里と云へる所に行ければ云云、柴の浦と云へる所にいたりければ云云、と云へり。此道なみを見れば、忍びの岡と有るは、今の東叡山の地と聞えたり。さておもへば、不忍の池と云ふ名も、忍びの岡より出たるにやあらん。

書き下し

宗祇法師が回国雑記と云う物に云わく、次の日浅草をたちて、新羽と云える所に赴き侍るとて、道すがら名所ども尋ねける中に、忍びの岡と云えるところにて、松原の有りける陰にやすみて、「霜ののちあらわれにけり時雨をばしのびの岡の松もかいなし。ここを過ぎて、こいし川と云える所にまかりて云云、とりこえの里と云える所に行きければ云云、柴の浦と云える所にいたりければ云云、と云えり。この道なみを見れば、忍びの岡と有るは、今の東叡山の地と聞えたり。さておもえば、不忍の池と云う名も、忍びの岡より出でたるにやあらん。

現代語訳

宗祇法師の『回国雑記』というものに、「次の日、浅草を発って、新羽というところへ赴こうとして、道すがら名所をあれこれ尋ねた中で、忍びの岡というところで、松原のあった陰に休んで、『霜が降りた後にはあらわになってしまった。時雨を忍んで隠していた忍びの岡の松も、そのかいがないことだ』。ここを過ぎて、小石川というところへ行って、……鳥越の里というところへ行ったところ、……柴の浦というところに着いたところ、……」と言っている。この道筋を見ると、忍びの岡とあるのは、今の東叡山(上野の寛永寺)の地と聞こえる。そうして思うと、不忍池という名も、忍びの岡から出たのであろうか。

解説

室町時代の紀行『回国雑記』から、江戸の地名の古い姿を拾った段である。宣長は宗祇の作としているが、今日では聖護院の道興准后の作とされる。筆者は浅草から歩いて「忍びの岡」で休み、時雨を忍ぶという名にかけて歌を詠んでいる。宣長は、その前後の地名の並びから、忍びの岡が今の上野、東叡山寛永寺のあたりだと見定める。そこから、上野の不忍池の名も「忍びの岡」に由来するのではないかと推し量る。宣長は江戸を訪れることはほとんどなかったが、書物の道筋を地図のように読んで土地を割り出した。紀行文を、名所の順路という証拠として読む読み方である。今も上野の台地は忍が岡とも呼ばれる。見慣れた地名の奥に、旅人の古い足跡が残っている。

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